スタートアップ3 ウネウネ
場が沈静化していく。
アリスは不意に、勢いよく頭を下げた。
「……あんたの知識を貸してほしい」
顔が机にキスをするくらいの深い所作。アリスのつむじがはっきりと見えた。
「少なくとも、あたしよりは知識があるはずだし。頭もいいと思うから」
「……分かったよ」
言いながら、颯真はアリスの頭に手を置いた。
「俺だって、この世界のことは何も知らないし。協力してくれる人が必要なんだ。生きていくために」
颯真はアリスの髪を掻き回す。手を離すと、彼女が頭を上げた。
「ありがとう、ソウマ」
颯真は思い出す。こういう時のビジネス用語がある。
「知ってるか、アリス」
「何?」
「こういう時はな、『Win-Winの関係』って言うんだ」
「なんか言葉の響きがキモいわね」
「おい」
「なんか響きがウネウネっぽくてキモくない?」
「……声を大にして否定できないのが悔しい」
アリスに説明する。『Win-Winの関係』とは、両者が利益を得る関係のことである。
「覚えたわ。……で、話は変わるんだけど」
「ん?」
「あんたのその服はなんなの?」
「これはスーツといって、俺の世界ては仕事をする時にこれを着るんだ」
「ほほう」
アリスは颯真をまじまじと見る。黒いジャケットに、白のワイシャツ、ダークブルーのネクタイ。
「あ、これは男用のスーツだからな。女性用は違う」
「女性用ってどんな形が分かる?」
「えーっと……。まあ、大体は」
颯真は同期入社した女性社員のスーツ姿を脳裏に呼び起こした。
「この世界でも作れると思う?」
「うーん。それっぽく作るだけならできると思うけど」
「よし、行くわよ。金ならあるわ!」
今まで貯めたお金は、今日この日から意味を成す。
婦人に挨拶し、アリスと颯真は古書店を出た。
天気は雲三割の晴れ。太陽が南西に差し掛かった頃。
石畳。レンガと木の家屋。荷車。屋台。颯真のいた世界の光景と全く違う世界の光景が目に飛び込んでくる。初めての街並みを目にし、颯真は少しばかりの高揚感を味わっていた。
「付いてきて。服屋の当てはあるの」
アリスの後に続き、街を歩く。足の裏に跳ね返ってくる石畳の感触が心地良い。空はどこまでも綺麗に青く、空気もなんとなく美味しく感じられた。
「あれは……」
颯真の視界に巨大な建物が映る。遠くの高台に見えるそれは――。
「あれが、この国の王城よ」
城。白を基調とした荘厳な城が、そこに鎮座していた。左右対称の造り。中央と両端に尖塔がある。遠目からでも、あの建物の別格さが見て取れた。
「……美しい」
「あたしとどっちが美しい?」
アリスが振り向いてそう言った。
「城」
「はー、つまんない」
「お前は髪の毛と服装をちゃんとしろ」
「ちゃんとするためにスーツ作るんですぅー」
十分ほど歩き、目的の場所に到着。店前に立ち、やや上を見た。そこにはこの店の看板が掲げられている。
颯真の背中に冷や汗が流れた。
一つ分かったことがある。これは、かなりマズいかもしれない。
――文字が読めないのだ。
この看板だけではない。この十分の間に目にした、あらゆる文字情報全てである。
この国の文字はもちろん日本語ではなく、ましてや英語でもフランス語でもない。おそらく、地球に存在しないであろう独自の文字だった。
会話は日本語なのに、文字は特殊。それが颯真を苦しめていた。いや、会話が日本語でできるだけ、かなり救われていると思うべきだろうか。
「どうしたの?」
「俺はこの世界の文字が読めないことが分かった」
「ぷー、だっさ! 文字も読めないの?」
「今後、書類とか全部お前の責任になるからな」
「えっ?」
「まさか、この世界が全て口約束で動いているとか言わないよな?」
「そりゃ会社の登記とか、土地や建物の権利書とか、いろいろあるけど……」
「こちらに不利な条件の契約書とか、お前が全部見抜くことになるんだぞ?」
「…………」
アリスが固まってしまった。白目を剥いて仁王立ちしている姿は少し笑えた。眼球が正常な位置に戻ると、アリスは途端にうろたえ始めた。
「あわわわわわわ」
「頑張れよ」
「だ、大丈夫大丈夫。それ、それくらいできるわよ!」
アリスは気合の入った声で不安を断ち切ると、そのまま店に入っていった。
スーツ作るまではプロローグです。