スタートアップ1 転移
スタートアップ:始まり
「…………うっ……」
颯真は目を覚ました。仰向けの姿勢で木造の天井が見える。古びた匂いをどことなく感じる。
上半身を起こすと、本が収められた本棚が目に入る。黒の背表紙、茶の背表紙、赤の背表紙などなど。
「……あっ」
不意に左上から誰かの声が聞こえた。颯真は無意識に左上を向く。
長い金髪の少女がいた。茶色のワンピースを身に纏っている。
「あわわわわわ」
目を見開いて狼狽する少女。手を動かし、頭を動かし、激しく動揺している。その右手には厚めの黒い古書が握られていた。
少しして、少女は何かに気づいたようにハッとした顔になると、急に体の向きを変えて走っていった。
「おばさーん!」
少女――アリス・ニパンカは古書店のカウンターに急いだ。高齢の女店主はいつもそこにいる。
「おばさん! 人が! 人が出てきた!」
「……なんじゃ? 誰が産んだんじゃ?」
「あたし……いや、産んだわけじゃないけど。ある意味ではあたしかも」
「おめでとさん」
「いや、とりあえず来てください! お願いします!」
「はいはい、分かったんじゃ」
颯真のもとにアリスが帰ってくる。後ろには店主と思しき妙齢の婦人がいた。アリスが颯真を指差して言う。
「この人が光と共に召還されたの!」
「……あれまぁ、本当じゃ」
婦人はあぐらを掻く颯真を見て、次にアリスを見る。婦人はアリスの持つ古書に着目した。
「それをよく見せるんじゃ」
「ん? ……これ?」
婦人が目を細め、老眼を酷使した最大限の視力で本を見る。
「これは……。魔術書じゃ」
「魔術書!? もしかして、あたし魔術の才能に目覚めちゃった!?」
「はは、それはないじゃろ」
婦人がしゃがれた声で即否定。
「ちょっとくらい夢見てもよくない!?」
婦人はアリスのツッコミを無視して続けた。
「本を開くと発動する種類かね。偶然、発動用の魔力が溜まりきっていたんじゃろ」
「この本の題名は?」
「『待ち人来たれり』。表紙にも背表紙にもそう書いてあるじゃろ?」
「いや、魔術語なんか読めないし」
「だったらなぜ手に取ったんじゃ? それすら分からないほどのバカなのかね?」
アリスは思う。言い方にトゲがあるんだけど、この婦人。
「……あの、ちょっといいですか?」
颯真が声を上げ、手を挙げた。ここは一体どこなのか。自分はどうなってしまったのか。
「ここは……どこですか?」
「ここはネジビス王国だけど」
「あー……、地球ではない?」
「チキュウって何?」
アリスが首を傾げる。彼女は婦人と目を合わせるが、婦人も首を振った。
それから、婦人が諭すように話し始める。
「落ち着いて聞くのじゃ」
「は、はい」
「お前さんは召還されたんじゃ。もとにいた世界から」
「…………」
颯真は眉間を押さえた。そして呟く。
「今流行りの異世界転生……いや、転移ってやつか……」
颯真は死んではいないため、転生ではなく転移にあたる。
「向こうでは大変なことになってるんだろうな……」
「いや、なってないと思うんじゃ」
「え? だって俺、転移しちゃったし……」
婦人が指を二本立ててから言う。
「実は召喚というのは二種類あるんじゃ。原本を呼ぶものと、複製を呼ぶものじゃ。お前さんの場合……つまり、この魔術書の場合は複製にあたるのじゃ」
「え? じゃあ俺はコピーってこと?」
「そうじゃ」
「なぜ、複製だって分かるんだ?」
「原本を呼ぶ場合は、裸で召喚されるからじゃ」
婦人の説明を要約すると、原本を呼ぶ場合はコストの問題で肉体しか召喚できないらしい。
原本を呼ぶ場合は移動となり、複製を呼ぶ場合は文字通りコピーとなるが、移動とコピーでは掛かるコストが違いすぎるらしい。そのため、複製を呼ぶ場合では服も一緒に召喚できるが、原本を呼ぶ場合ではコストを軽くするために服は省かれるとのこと。
「今の俺がコピーなら、原本の俺はどうなるんだ?」
「原本のお前さんは、普通にお前さんとして暮らしとるじゃろうな。もといた世界でな」
「……うん。……うん」
颯真は今の状況を、自分自身に無理矢理納得させた。
「……俺は俺として、この世界で生きていくしかないのか」
「大丈夫! 生きていけるわよ!」
「お前さんが面倒を見るんじゃよ?」
「え? あたしが?」
「だって、お前さんが召還したんじゃろ。お前さんのものじゃ」
アリスは颯真を見る。二人の目と目が合う。
「俺はただのサラリーマンだし、モンスターと戦えなんて言われても無理だぞ!」
異世界の基本はモンスターと戦うこと、という思い込みが颯真にはあった。
「……今、なんて言った?」
「モンスターと戦えなんて言われても無理」
「その前」
「ただのサラリーマン?」
「サラリーマンって、何?」
「雇われて仕事をする人って意味だけど」
「つまり、仕事に詳しいわけ?」
「……それが起業とか、ビジネスモデルとか、経営戦略っていう意味なら、多少は」
「…………」
アリスが押し黙る。それから彼女は、婦人の肩に両手を置いて言った。
「この人、あたしが求めてた人かもしれない!」
「だからそういう召喚だと言っとるじゃろ」