「見えない歯車は俺達の絆を嘲笑う」
此方の作品は藍染三月様著「偽物の月は僕達だけに光を見せていた」の二次創作となります。
作者様に許可は頂いておりますが、あくまで二次創作ですので〝捏造注意〟です。
上記を了承の上お進みください。
紫苑の空も、紫土の空も、在るかと訊ねられたなら在ると言えよう。
世界は自由だ。真っ新なキャンパスは、いつだって自由で、自由だからこそ漆黒が俺を包む。
心理的にも物理的にも影は俺を侵し、すべてを闇へと沈めた。偽物の世界は、まるで自身のようだ。都合のいいように周る世界を望んで、全てを他人に押し付けた弱い人間の末路。彼女は俺と似ていたのかもしれない。あくまで〝かもしれない〟だけなのだが。
吐いた息が靄と化す。誰かの吸った煙草のように夕闇に溶けるそれは視界を霞め、すぐたま立ち消えた。
絵は美しいと誰が決めたのだろう。数多の価値観が在る中で、誰が俺の心に価値を付けるのだ。疎ましいと思う。疎ましいと思うのに、記憶の片隅に追いやった彼女の価値を決めたのは俺で、紫苑の絵に賞賛を送ったのも俺だった。
所詮はそんな世界だ。誰かのエゴが誰かの人生を左右し、歪め、美しき世界は——
「疲れた……」
零れ落ちた言葉は剥いだ仮面の奥に隠してあったもの。仏頂面で家路を辿る俺を咎める者は誰1人とていなかった。
*
「紫苑、今日の夕飯……なんだ……寝てるのか」
珍しい、と唇で象りそうになって寸でのところで呑み込む。起こすのが可哀想だ、というよりは、涼しい顔を決め込む弟の顔を嗤ってやろうと思ったのだ。
「普通」
不満を呈しコートを脱ぎさる。辺りを見渡してもブランケットのようなものは無かった為、ハンガーの代わりに紫苑にかけてやった。普段ならば起きるだろう彼が起きない。小首を傾げ額に手を添えるも、彼は瞼を持ち上げることはなかった。
熱があるわけでは無いらしい。ということは単純に疲れか。珍しくソファで寝こけている彼を残し、キッチンへ向かう。そこにはオムライスがあり、ラップ越しに触れると冷ややかさが表皮を撫ぜた。
冷めきっているということは、だいぶ前に作ったということだろう。電子レンジにそれを突っ込み起動させれば、聞き慣れた電子音が静寂に響いた。
終焉を告げたレンジに別れを告げ、熱を持った皿を持ち上げる。スプーンを口に咥えながら席に付くも、紫苑はやはり起きる気配もなかった。
「ホントに体調悪いとかじゃないよな……」
独る俺に答えはない。ケチャップに手を伸ばし、適当にかけてやれば食欲を唆る薫りが鼻腔を吹き抜けた。
粗雑に口に入れて咀嚼する。舌馴染みのいい味が口腔に広がれば食が進んだ。
俺が何故オムライスを好むのか、紫苑は分かっていないのだろう。執拗にそれを強請る俺に疑問も覚えない弟。俺はそれが心のどこかで寂しくも安堵していた。
覚えていなくていい。消えた記憶の中に紛れていたなら、それは幸福だ。俺にとって都合の悪い思い出など掻き消してしまうに限る。
けれども、訊ねてしまいたいとも思っていた。
どこまでが存在していて、どこまでが存在していないのか。それは彼自身把握出来ていないのだろう。ましてや幼い頃の記憶は色褪せやすい。よっぽどのトラウマでもなければ覚えていないものだ。それでも、心のどこかで期待していた。
嫌いな兄の記憶など消し去ってしまっただろうか。そんな考えが繰り返し脳漿を駆け巡る。俺は自身を落ち着かせようと只管キャンバスに向き合った。
落ち着いた色を灯す瞳が俺を見透かす。それが大嫌いで、大嫌いで、大嫌いで、大嫌いなのに……やはり期待していた。
いつか俺の罪を咎めてくれるのでないか。
いつか音を上げて〝弟の貌〟を見せてくれるのではないか。
そんなにも真っ直ぐに俺を見つめるのなら、気付いて欲しかった。奥の奥の奥に隠した俺を外に連れ出して欲しかった。
けれど、叫喚を呑み込む彼に、俺の号哭が聞こえるわけなどない。いつかの温かい両腕のように、そっと包み込むだけの彼の優しさは受け入れ難かった。
だから嫌いだったのだ。青に溶けた優しさを塗りたくってくれたならいいのに。深緋の中に諦観を落とす紫苑は、いつだって残酷だった。
*
「お腹空いた……」
母親が死んですぐのことだった。俺に助けを求めた彼は空腹を告げる腹部を押さえ、服の裾を引っ張る。紫苑の顔が見れなくて思わず下げた視線を逸らすも、視界の端で微動だにしない彼がいた。
「パンでも食べれば」
「パンないよ」
端的に告げられた事実に目を瞠る。そういえば買い物もしていなければ、葬式以来外にすら出ていない。父親は俺たちに興味なさげで、渡された札束だけが虚しかった。
「買いに行ってくる……」
「僕も……」
「1人でいい」
「でも……」
「待ってろって」
裾を引っ張っていた紅葉に力が入る。それを肌で感じ、眉を顰めた。
幼い彼は母親を亡くしたばかり。ましてや1人の家で留守番など心細くて堪らないだろう。けれども俺は、それを汲み取ってやれるほど大人じゃなかった。
「……やだ」
「じゃあどうすればいいんだよ」
一緒に行くという選択肢はなかった。俺の問いに静かに考え込む紫苑。暫くして上げた顔は綻んでいた。
「オムライスが食べたい」
「それお前が食べたいものじゃん」
オムライスの作り方なんて知らない。作るのは母さんの役目で、食べるのは俺達の役目だ。こうなる予定じゃなかった俺の脳漿に、オムライスの作り方など記してあるわけがなかった。
紫苑が黙り込んだことで沈黙が場を侵す。耐えきれず唇を動かすも、気の利いた言葉は出てこなかった。
「オムライスくらい自分で作ればいいだろ」
「え……」
「出来ないなら離せよ」
「……やだ」
「じゃあ俺にどうしろって言うんだよ」
「作ろう」
「は?」
「オムライス作ろう」
作ろうと言われても作れない。そんな気分ではないし、そもそもどうすればいいか分からないのだ。こんな時は、いつも母親が助け舟を出してくれていた。
けれども、それは俺が自身の手で黒いインクの中に落としてしまったのだ。固く閉じた蓋は2度と開かないし、開いたところで漆黒に染まった死体が双眸を貫くだけだろう。
早く忘れてしまいたいにも関わらず、それを象徴する彼は俺を離してはくれない。母親に似た女顔で、優しさを携えた両手で、俺より幼い体躯で、けして独りにはしてくれないのだ。
早く離してくれ。俺を解放してくれ。未完全な優しさは傷口を抉るだけで、化膿したかのように嫌な水音が聞こえそうだった。
「1人で作ればいいだろ」
「一緒に作ろう」
「俺はお腹空いてない」
「でも、そのうちお腹空くから」
「空かない」
「ねぇ……」
「ほっといてくれよ!!」
咆哮した喉が引き攣っているのが分かった。喫驚を零すことすら許されない俺は目を見開き、紫苑の表情を探る。
ただ、ただ驚いているだろう顔が歪んだ時、涙を零すのかと焦った。しかし彼は悲しそうな顔をするだけで、淡色の眼から雫が流れ落ちることはない。
「……そこにいて」
「え?」
「僕、1人で作るからそこにいて」
「なんで俺が……」
「お母さんに火を使う時は大人がいる時だけって言われてたから」
母親を引き合いに出されては何も言えない。俺は大人でもなければ、大人になりきることも出来ないだろう。幼い心根でも、それが分かり複雑な想いが渦巻いた。
それでも紫苑から見れば俺は〝兄〟で〝大人〟なのだ。否定したい衝動を堪えて、熱くなる目頭を自由にさせまいと眉根を寄せた。
「わかった」
すぐさま踵を翻し、ソファに身を預けた俺を紫苑はどう思ったのだろう。きっと何かしらの勘違いをしたに違いない。
結局、はじめてのオムライス作りが失敗を彩ったことは言わずもがな。
しっかり混ざっていないチキンライスは、ところどころ白米が顔を出しているし、鶏肉も入っていなければ玉ねぎも入っていない。自分で炊いただろうご飯は水加減が分からなかったのだろう。お粥のようにグチョグチョしていた。
卵なんてスクランブルエッグの方が幾分もマシだ。焦げ付いているかと思えば、ところどころ火は通っていないし、挙げ句の果てに殻を引き当てた俺は文句を連ねたくなった。
それでも眉尻を下げる弟を見ていれば何も言えない。ケチャップを大量にかけて味を誤魔化しながら完食すれば、目を瞬かせる紫苑がいた。
そんな彼を置き去りにして部屋に戻る。絡み合った視線は居心地が悪く、やはり俺は紫苑の瞳が苦手だった。
*
「ちょっと、人のことハンガーの代わりにしないでくれる?」
「丁度よくそんなところで寝てたから」
いつの間にか起きていた彼が俺と空の皿を見比べる。右手には俺のコートを掲げ、いつも通り不機嫌そうな顔をしていた。
「食べたら洗っておいてね」
「お前さ」
「なに?」
「具合でも悪いの?」
「別に」
「そう」
ならいいけど、とは言えなかった。話が終わったと判断した彼は、ソファの背凭れにコートを掛けて立ち去る。リビングの扉が開閉を告げれば、足音が遠のいていった。
「風邪でも引かなきゃいいけど」
カチャカチャと響く陶器の音を携えてシンクへ向かう。俺達の距離は相変わらずで、俺はやっぱり昔から——
「あの目が苦手……」
水音が本音を掻き消す。ドロドロと苦い感情も水に溶かした絵の具のように排水口に呑み込まれてしまえばいいのに、と思った。
けれども、そんなことが出来ないからこそ、彼という名のキャンパスに黒闇を落としていくのだろう。
本音はいつだって彩色に紛れてしまう。彼の想いを俺が理解することは出来ないし、俺の想いが彼に理解されることもないだろう。
俺は別に〝オムライス〟が好きなわけじゃない。〝紫苑が作ったオムライス〟が食べたいだけだ。
思い出に縋るなんてらしくない。その行為は優しさなどいらないと繕い続けた仮面で、助けを乞う自身に似ていた。
それでも、伸ばせない手を伸ばした先には何があるのだろう。俺はいつだって遠慮なく手を伸ばせる人間が羨ましかった。
歯車は噛み合うことを知らない。それでも人間らしく足掻くことを、誰も咎めはしないだろう。彼だって咎めない。彼は咎めることを知らない。
だからいつだってあの瞳は——
——優しくて、拙くて、美しいのだ。