綿密な計画
次の日、バイトがあるという賢輔は、合宿を休むと言った。
たまには自分の部屋に帰る必要もあるだろう。
「あたしも、一度片付けて来ようかな」
「いいよ。強制缶詰めって訳じゃないんだから」
「秀は? どうする?」
昼休み。大学の食堂で集まった僕らは、各々のスケジュールを確認しながら、今後の合宿について話し合った。
リーダーを欠き、成果のでない合宿に、少し飽きてきたのかも知れない。
それならそれで、僕は構わない――密かに空中分解を願っていた。
「嫌、まだ予定の半分も経ってないだろ。鍵貸してくれよ、雁やん」
秀斗の情熱は、まだ消えていなかった。
「いいよ。僕、ちょっと用事あるからさ、帰り遅くなるかも知れないし」
ポケットから出した部屋の鍵を渡す。
「……涼太、今日来てないよな?」
「夕べ、LINEに返事来てたんだろ?」
「ユキも来てないよね。ホントに夏風邪なのかなぁ」
「午前中、休み時間に送ったメッセージは既読になってたよ」
所在不明のリーダーについて、心配と不信の混じった会話を交わすものの、進展のないまま昼休みが終わった。
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【シャガール】は、大学からあいのアパートに行く途中にある喫茶店で、僕らは良くデートで落ち合った。
カフェというアーバンな雰囲気ではなく、少しレトロな昭和の香りが残っている。
――カランカラン
カウベルのような柔らかい音を響かせて、店内に滑り込む。静かなジャズピアノが流れている。
窓際の2人でよく座った席で、あいが小さく手を挙げた。
「――久しぶり、っていうのもヘンだね」
彼女は、少しはにかんだ。
僕に別れを告げたのが、ちょうど10日前だ。
あれから部屋を探して、引っ越して、奇妙な合宿が始まって……随分前のことのようだ。
店員にアイスコーヒーを2つ注文して、改めて目の前の彼女を見る。
ライトブラウンの髪を頭頂の少し後ろで団子に纏め、薄く化粧をしている。
記憶の中のままの姿に、ちょっとドキドキしていた。
「……で」
『何の用?』と言い掛けて、言葉を飲み込んだ。
「シロちゃん、ちゃんとご飯食べてる?」
手元の水の入ったグラスを見つめながら、あいはポツンと訊いた。
「ああ……まぁ、ね」
最近はマキの手料理で充実している――とは言えない。別に悪いことをしている訳でもないのに、僕は言い淀んだ。
「ぷりおは元気?」
「うん。あいが居なくて寂しがってるよ」
「ウソ。ぷりお、シロちゃんになついてたじゃん」
「それは、僕が餌係だからだよ」
あいは、顔を上げた。眉を寄せ、苦し気な微笑みを浮かべた。
「金魚はいいね。食欲と愛情が結びついてるんだ」
ドキリとした。
僕があいを愛していたのは――胃袋だけが理由じゃなかったはずだ。
アイスコーヒーが運ばれて来た。
不器用な会話が、不自然に途切れた。
「あい、まだ怒ってるんだろ。僕の顔――見たくなかったんじゃないのか?」
「そうだね……昨日の昼までは」
「え――」
「ごめんね、シロちゃん。わたし、バカだった」
「……あい?」
「わたしの料理、あんまり美味しくないでしょ? でもシロちゃん、一度も不味いって言わなかったよね」
堰を切ったように、あいは言葉を吐き出した。
それは彼女自身を責めるものばかりで、僕に向けられる攻撃ではない。
「おい、どうしたんだよ?」
「シロちゃんがわたしと暮らしてたのは、わたしが都合のいい『家政婦さん』だからだ、って」
「あい?」
「わたしじゃなくても、ご飯作って、お掃除や洗濯してくれる子なら、誰でも良かったんだ――って」
あいは、ついに泣き出した。
斜め隣のサラリーマン風の男性が、チラリ、僕を非難する視線を投げていた。
「それ――何なんだよ。僕は」
「ごめんね……! わたし、シロちゃんのこと、信じ切れなかった」
「あい……」
「わたし、自分でも自信なかったの。わたし、家事なんて当たり前だと思ってたし、シロちゃん喜んでくれたから」
「――」
「だから、わたしのこと、『家政婦さん』だってシロちゃんが話してたって聞かされて――」
「誰が! 誰がそんなこと」
確かに僕は、家事の一切合切をあい任せにしていた。その負い目はあるが、彼女を『家政婦さん』だなんて言ったことはない。
立ち上がり掛けて、グッと止まったが、テーブルの上のアイスコーヒーが波立った。
「――マキだよ」
背後から静かな声が会話を継いだ。その声の主に、今度こそ僕は立ち上がった。
「ええっ? 涼太?!」
「すまない、雁屋」
涼太は頭を下げた。隣に彼女のユキも寄り添い……泣いている。
「――どういうことだよ、これ。説明してくれよ」
僕の隣に涼太、あいの隣にユキが座り、ユキはあいの肩を抱えるようにして2人で泣いている。
「今年の春の新歓旅行で温泉に行ったよな」
映画サークルでは、GWに新入生歓迎旅行と称して、映画のロケ地に一泊二日の旅行に出掛ける。
大抵は安宿に泊まり、宴会場を借りて鑑賞会を行い、そのまま宴会に雪崩れ込むのが習わしだ。
僕は無言で促した。
「宴会のあと、女の子の部屋でマキが言ったの。『あいちゃん、可哀想だね』って」
ユキが説明を引き取った。涼太と同じ理系――『リケジョ』らしい、淡々とした語りだが、涙で時折掠れ気味になる。
「雁やん……雁屋くんが、あいのことを『都合のいい家政婦さんだ』って、言いふらしていたって」
「『あいの料理は下手だけど、タダ飯食わせてくれる楽な女だ』、って」
あいはまた、ポロポロと涙を溢した。
いい加減にして欲しい。そんな酷いこと、思ったこともない。
「『ホントは、あたしに言い寄って来てるんだけど、引っ越すのが面倒だから、あと2年暮らしてやるんだ』――雁屋くんに、そう言われて困ってるって」
「お前ら……信じたのかよ」
信じたんだろう。だからあいは、別れる時に僕を汚い物を見るように睨んで、泣いたんだ。
「わたしとマキ、同じ高校だったの、シロちゃん知ってるでしょ」
「ああ」
付き合い始めた頃、そんな話を聞いた気がする。
「わたし達、地味で目立たない子だったの。マキとは、親友ってほどじゃなかったんだけど、割りと一緒のグループで」
「……だから、あい、信じちゃったんだよね」
あいの言い訳をユキが擁護する。
胸の中にイガイガとした憤りが溜まっていく。
「――ふざけんなよ」
「雁屋」
「何で、ちゃんと僕に聞かなかったんだよ?」
「『聞いたって否定する』って、マキが」
責める言葉をユキがすかさずフォローする。
「『わたしが病気で入院したら、シロちゃん、ご飯どうするの』、って聞いてごらん――マキに言われたの」
そう言えば――新歓旅行から少しして、あいがそんなことを聞いてきたことがあったっけ。
「『何とかする』って答えるはずだって。わたしのこと、ご飯じゃなく愛していたら『僕が作る』って言うはずだけど――きっとそう言わないよって」
「そんな――バカげてる」
言ってみたものの、あの時僕はこう答えたんだ。
『心配しなくても大丈夫だ、何とかなるって』
背中を冷や汗が伝った。
「……マキは、巧妙なんだ。あいちゃんのコンプレックスを巧みに唆して、お前の性格もしっかり掴んでいる」
涼太の言葉にゾッとした。僕らを引き裂くために、ジッと分析してきたというのだろうか。
「お前ん家の【赤いブラウスの女】の話、サークル仲間にLINEで流しただろ? マキがご飯係を買って出た時、下心があるって気付けなかった」
涼太は苦い顔をした。
1年以上かけて、用意周到に計画してきたことならば――僕らが気付くことは無理だったろう。
そんな悪意を、ただの大学生が孕んでいるなんて、想像する方が荒唐無稽だ。
「マキね、私に時々メールしてきてたのよ」
次に告白し出したのは、ユキだった。
「親友の彼氏を好きになっちゃった、我慢してるけどツラい、って」
真っ赤な瞳でユキは僕を見る。
「――真に受けるなよ、雁屋。ユキに『秘めた想い』をしおらしく吹き込むことで、お前に接近するチャンスを伺っていたんだと思う」
すぐに涼太が釘を刺す。もちろん、今更惑うことは無いけれど、気持ちの落とし所が分からない。どっぷり途方に暮れている。
「涼太……」
「事実、早くにユキから『マキの気持ち』を聞いていたから、俺、今回の撮影合宿にマキを入れちまったんだ。すまない、雁屋」
「ごめんなさい、雁屋くん」
「シロちゃん、ごめんね。ちゃんと信じられなくて」
三方からの謝罪の霰。
彼らはそれぞれ頭を下げる。
「……顔、上げてくれよ。僕ら――全員、マキの被害者ってことだろ」
友情を、愛情を、人の心を手玉に取った、マキ。
口に出したことで、僕ははっきり怒りを自覚した。
「とにかく、合宿は解散してくれよな」
「あー……そうだな」
あからさまに残念がる涼太だが、『合宿継続=マキ残留』という構図がある以上、諦めざるを得ない。
彼は、悔しさを満面に広げつつ、無理矢理自分を納得させているようだった。
女子2人は、崩れた化粧を直しに立った。
せめてもお詫びの気持ちにアイスコーヒー代は支払う――と涼太はレジへ向かった。
「シロちゃん」
ユキを待っている間、先に出てきたあいが、僕のシャツの裾を引いた。
「うん?」
「シロちゃん、わたしん家に戻って……くれる?」
【シャガール】の店内の観葉植物の陰にあいを隠して、僕は壁際でキスをした。




