第7話 走れ!
「あれは……足音?」
「新手だ。左から一匹――大きいぞ」
デュラムのつぶやきを聞いて、サーラが顔を強張らせ、俺も表情を引き締める。
正面から来たのは三匹の双頭犬、右から来たのは四羽の人面鳥。じゃあ、左からは一体何が来るんだ?
地響きはもう、ずいぶん近く迫ってる。そろそろ、魔物の姿が見えてもいい頃だが……。
「……! で、でけえ……!」
木立の奥から現れた魔物を見て、俺は戦慄した。やってきたのは、とんでもねえ化け物だったんだ。
背丈と肩幅、どっちも人間の三倍以上ありそうな巨体。浅黒い皮膚の下では隆々たる筋肉が呼吸に合わせてうねってる。頭には大きく湾曲した二本の角、足には二つに割れた蹄。そして、手にはめちゃくちゃでかくて凶悪な得物。神話じゃ、軍神ウォーロの武器ってことになってる両刃の戦斧だ。背後じゃ尻尾が鞭みてえにしなって、風を切ってる。
牛の頭を持つ怪人、牛頭人。巨岩を軽々と持ち上げ、大樹を根こそぎ引っこ抜く怪力の持ち主だ。以前に一度襲われたことがあるんだが、あのときは本気で死ぬかと思ったぜ……。
「――こちらから仕掛けるぞ」
妖精の美青年が、槍を逆手に持ち直し、半身になった。右腕をわずかに曲げて後ろへ引き、左手は五指を広げて前へ突き出す。脚を開いて、体重を右足に――。
その姿は、銛を投げようとする海神ザバダか、稲妻を放とうとする雷神ゴドロムを思わせる――なんていうのはさすがに大げさかもしれねえが、それでもデュラムの構えは威風堂々としてて、様になってた。
かけ声と同時に、デュラムが槍を投げる。白銀の切っ先が空気を切り裂き、牛頭人めがけて一直線に突き進む。そして怪牛の胸に――刺さった!
「やったか?」
デュラムが本気で投げりゃ、青銅の板一枚と牛革七枚を重ねた大盾だって貫く、頑丈な槍だ。いくら牛頭人でも、今の一撃は効いたと思うんだが……どうだ?
怪牛は自分の胸に視線を落とし、突き刺さった槍を見た。それから……ゆっくり面を上げて、にやりと笑う。おまけに、右手の人差し指を振りながら、チッチッと舌まで鳴らしやがる。
「なんてこった……効いてねえのかよ!」
狙いは正確だったが、胸板が分厚すぎて、心臓まで届かなかったみてえだ。
牛頭人が、自分の胸から槍を引き抜き、デュラムの足下に投げ返す。それから、戦斧を両手で高々と持ち上げ、一声吠えた。狩人や牛飼い、羊飼いが吹き鳴らす角笛の響きみてえな咆哮だ。野太くて、朗々とよく響く。周囲の空気が、木々の枝葉が、びりびりと震え上がった。
「……まずいわね、逃げましょ」
「逃げるのかよ?」
「現実を見なさい、デュラム君の槍が効かないのよ? 戦ったって、勝ち目はないわ」
魔女っ子の言葉に、妖精の美青年も無言でうなずく。
「……そうだな」
確かにサーラの言う通りだ。双頭犬や人面鳥ならまだしも、こんな化け物に挑むなんざ狂気の沙汰、戦っても勝負にならねえ。俺たちはただの冒険者、神でも英雄でもねえんだから。
悔しいが、それが現実ってもんだ。
「二人とも下がって。あたしが時間を稼ぐから!」
魔女っ子が杖を構えて、前に進み出た。魔法で怪牛の足を止めるつもりだろう。
「水の女神チャパシャ様。今一度、あたしに力を――!」
サーラが呪文を唱えると、手にした杖が再び青く発光する。そして、その先端から突然――ぶわっ! 真っ白い煙が、盛大に噴き出した。魔物の目をくらます魔法の水煙だ。
女神の力を借りて生み出された水の煙幕は、見る間に怪牛へと押し寄せ、魔物の周囲を文字通りの五里霧中にする。これで当分、奴の視界は一面真っ白なはず。
「今のうちに、逃げるぞ」
足下の槍を拾い上げ、デュラムがつぶやく。
「――走れ!」
その一言を合図に、俺たちは脱兎のごとく逃げ出した。
まったく、とんだ災難だぜ。これも……神々が定めた運命ってやつなんだろうか?