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ばあちゃんの後ろを三歩くらい離れて歩く。
ここからでは、ばあちゃんの顔は影になっていて見えない。
だから、コンクリートの地面を打つ、とんとんという杖の音だけが頼りだ。
一定以上の速度にはならない。今まで一緒に歩いた誰よりもゆったりとしたスピードだ。
怒っているのか、呆れているのか、耳を澄ましてみても、おれには判断がつかない。
とりあえず、ばあちゃんがどこに向かおうとしているのかさえいまだに定かではなかった。
たぶんお日さまが山に沈むが早いか、いい勝負になるだろう。
今歩いている並木道は、どこまでも続いていきそうなほど、まっすぐ伸びていた。
やがて、ゆるやかな上り坂に変化しはじめる。
一陣の風が横切って、道路脇に積もっている無数の花びらをくるりと舞い踊らせた。道沿いに立っている木はどうやら桜のようだ。今は葉の緑色の中にわずかに花の名残がある。
どうせなら、もう少し早い時期に来られたらよかったな。
満開に咲きほこっている姿はきっときれいだったろう。おれはそこでふと、口を開いた。
「なあ、母ちゃんにちゃんと言ってきた? 出かけるって」
「……」
ああ言ってないんだな。
相変わらず表情は見えないが、杖が地面を打つペースが少し上がった。
「そういうお前はどうなの?」
切り返され、そういえば言ってないんだったと思う。
今ごろ学校から連絡が入る頃合だろうか。どうしたものか。
気がつくと、またばあちゃんが立ち止まり、こちらを見上げていた。
(ばあちゃんってこんな顔をしてたんだ)
髪も白いが、肌も白い。細かいしわは刻まれているものの、頬にはほんのりと赤みもさしていて、母とよく似ているような気がする。
へらっと笑ってやると、ばあちゃんもへらっと鏡のように笑い返した。
口からのぞいた歯並びがきれいだった。
確か、ばあちゃんの歯は痩せてボロボロになっていて銀歯などの治療あとが目立ったような気がしたけれど、記憶違いかもしれない。
とん、とん、という杖の音に合わせて足を動かした。
横で、ばあちゃんが鼻歌を鳴らし始めた。
ばあちゃんの声はつややかな、という表現で正しいのか。
みずみずしい歌声だった。聞き覚えのある曲だ。ふふっふー、笑うような歌うような、狭間のメロディーをおれも口ずさんで、二人で合唱しながら歩いた。
並木道が大きく左へと蛇行しはじめると、並行するように川が流れていることに気づいた。
川沿いが歩けるようだったので興味をひかれたが、こちらより足場が悪そうなのであきらめる。
しかし、とある文字が視界にとびこんできた瞬間、あっけなく好奇心に負けた。
おれは歩調を速め、前の肩を軽く叩いた。
「ばあちゃん、おれ疲れた」
自分よりはるかに若い孫を見つめたあとに、深い深いため息。
情けない孫でごめんね。おれは苦笑いした。
連れ立って脇道に入る。
砂利に足をとられないように慎重に進んでいくと、河原へと降りる階段に出ることができた。
橋のふもとに、小さな露店が出ていた。
のぼりの赤い文字に胃がきゅうと伸縮するのを感じた。花より団子。いつのまにかお日さまは、頭の上を通過している。弁当の時間だ。
花見団子をいくつか買って、店の前にあった椅子に並んで腰かけた。
「まったく最近の子は、口を開けばすぐに疲れたあ疲れたあと」
ばあちゃんはぶつぶつと言いながら、団子をほおばった。
頬が丸く飛び出す。
そのまま咀嚼を始めるのを見届けてから、おれもかぶりついた。
上から、ピンク、白、緑の団子。一番下の緑のが好きでないと言ったら、ばあちゃんが白色のやつと交換してくれた。
(まるでデートみたいだ)
川の水面が日の光を反射してきらきらしている。
それをじっと眺めたせいか、おれの目はどうやらおかしくなってしまったようだった。
だって、隣に座る横顔に見覚えがないのだ。
もっと正確に言えば、小さな背丈と和装姿とタンポポの綿毛のような白髪のおだんご頭は知っている。
丸々とした目や、やや太めの眉も知っている。
でも、団子のクシをつまむ指のなめらかさや、袖からのぞく腕の肌のみずみずしさは知らない。
団子をほおばる唇の色が妙に赤い。
なにしろおれの身体半分が緊張している。それが答えだった。
見知らぬ女性は、怪訝そうにおれを見やった。
「どうした、もういらないのか?」
最近の子は胃が小さくていけない、とぶつぶつと呟く声はそのままだった。
ほっとして、なんでもないとおれは首を横に振った。
駅で嗅いだのと同じかおりがした。
濃い潮のかおりだ。川の先は意外とすぐに海へと通じているのかもしれない。
ばあちゃんは、しばらく川の流れに耳をすまして、時折また鼻歌を鳴らしていた。
スタートしてから、結構な距離を歩いたと思うが、まだ目的地には着かないようだった。
並木道が途切れる前に、ばあちゃんの杖が方向転換をした。
今のばあちゃんにはすでに杖は必要ないようにも思ったが、律儀に行き先を示している。
はじめに比べれば、とんとんと鳴るスピードが三倍速になっていた。
しばらく民家や店の間を縫うような裏道をくねくねと進み、絶対一人では帰れないなとおれが思っていると、目の前に急な角度の階段があらわれた。
大きな石を組み合わせただけのような原始的なつくりの階段だ。
これは、さすがに無理なんじゃないだろうか。
おれの心配をよそに、こつんと杖は鳴る。
リズミカルに一段二段と上がっていく、その音に躊躇はない。
腰の曲がっていた老人の姿はない。
反対に、一段二段と進むにつれ、おれの腰のほうが曲がっていった。
やがて、へたりこみそうなくらい地面に近づくと、救いの手がさしのべられた。
段上には、おれと同じ年くらいの女の子がいた。
ここまでくると、和装と綿毛みたいな白いおだんご頭がアンバランスだった。
急かされ、おれは、うながされるまま手を繋いだ。
自分の手の中に、すっぽりと包みこめてしまう小さな手だ。
やわらかい、と思い、思ってしまったことになんだか後ろめたさをあおられた。
そのまま歩き出す。一段、二段、
(…… 手を繋ぐって歩きにくいものなんだな)
デートみたい。
思った心が弾んでいた。さっきまでの疲労が嘘みたいに足から飛び去っていった。
急に元気になった孫に、手の先のばあちゃんがあきれているのを感じた。
「ああ疲れた」
おれの心が、隣の口から漏れた。
ざあっと木々が揺れた。
葉と葉の隙間から光がさして、あちこちからスポットライトのように地面を照らしている。
階段のてっぺん、四方を木に囲まれ緑色のドームのようになっている場所の中心に、一本の桜の木が立っていた。
満開だ。
並木道に立っていたのと比べると、圧倒的に大きい。
ドームの天井に届きそうな高さで、一本一本の枝が太い。その先までみっしりと花に覆われていた。
桜色、というよりは純白に近い色だ。差し込んでくる光の具合からそう見えるのかもしれない。
風もないのに、ひらひらと時折花びらが散っては地面に落ちる。
おれは、手のひらを合わせるようにしてその一枚をつかまえた。
「ここに毎年見に来るのが、私のちょっとした楽しみなの」
ばあちゃんは少し離れた、平らな置石の上に腰かけていた。まるで、ばあちゃんが座るために用意されていたような石だった。
(―― そうか、これが、ばあちゃんのいつもなのか)
おれが毎日ヘッドホンとマスクをつけ、先頭車両に乗るように。
一曲目に流れる曲を楽しみにしているように。
くり返されていること。ずっと遠い昔から。
桜の木に目を奪われていて気づくのが遅れたが、ドームの奥のほうには一軒の家が建っていた。もしかすると、ここは庭なのかもしれない。
おれが推理していると、ちょうど家の住人らしき女性が買い物袋を下げて玄関から出てきた。
不法侵入、という言葉が脳裏をよぎり、おれは思わず身をかたくしたが、石に座っているばあちゃんと学生服のおれを見ても、女性は別段驚いた様子は見せなかった。
それどころかにこやかに頭を下げてきた。
聞いてみると、ここは隠れた遅咲き桜の名所として知られているらしい。
住んでいる人の好意で訪れる人に開放されているのだそうだ。
「妹さんと来たの? 仲良しね」
親切な住人はすれ違いざまにそんなことを言って、先ほどの階段をくだっていった
また、いつのまにか隣に立っていたばあちゃんは、頭がおれの腰の位置にくるほどに縮んでいた。
どういう原理なのか、服なども一緒にサイズが変化していっているようだ。
そこにいたのは子どものような老人ではなく、子どもだった。
和装姿で真っ白な綿毛頭の女の子。
ばあちゃんは、桜の木に向かって頭を二回下げ、ぱんぱんと手を打ち鳴らした。おれも慌てて見様見真似で同じことをして、深く頭を下げた。
帰ろうか、とうながされて、おれはちょっとうなだれた。
あの道を戻るのか。しかし小さい女の子の手前そう言ってもいられない。
ばあちゃんにはすべてお見通しのようだった。
励ますように、力強く手を引かれた。
「いつもの楽しみに、今年はちょっと素敵な殿方とご一緒できたから、もっと楽しかったわね」
まるでデートみたい。
楽しげな声が歌うように言った。