2
しまった、と思ったのは、ずいぶん経ってからのことだった。
ドアにもたれかかっていたおれは動揺して、思わずがつんとヘッドホンのふちを窓にぶつけた。
学校をさぼってしまった。
今の今までそれに思いいたらなかったことにびっくりした。
新学期は始まったばかり、今日は六時間目までぎっしりと密度の濃い時間割が組まれていたはずだ。
今ごろは、一時間目の半分あたりまで進んだだろうか。
いつもと真逆の方向に進んでいく電車は、一つ二つと駅に停まるごとに乗客を吐き出していった。
車内は空いている。朝というには遅く、昼というには早い。ちょうど狭間にあたる時間だ。
ばあちゃんは、車両の前方のドアから一番近くの席に座っていた。
おれは、同じ車両の後方のドアからこっそりと様子をうかがっている。
まず、はじめに声をかけそびれたときから。
そのときから、こうなる状況はほぼ決まっていたのかもしれない。
スタート地点でつまずいてしまったのだ。
なんで、ばあちゃんがこんなところにいるのか。
電車に乗ってから一人、ずっといろいろな想像を働かせてみるものの、一つもぴんと来る答えが出てこない。
そもそも、こんなところにいるばあちゃん、というのがありえないことだった。家の、外にいるイメージができない。
今そこにいるばあちゃん。
なんでこんなところにいるんだろう。
どこにいくんだろう。
ばあちゃんは座ってからずっと、窓の外をながめたままでいる。つられて外に視線を飛ばして見れば、原色のコントラスト群が目に染みた。
田植えの時期にはまだ早いらしい。
苗も水もない肌色をさらした田んぼと、反対にみずみずしい緑色の葉っぱに覆われた畑が交互に四角い窓枠内を飾る。
確かに今日はお出かけ日和の、いい天気ではあった。実に花粉のよく飛びかいそうな日だ。
おれは、空いている席に座ることにした。
その位置からでは、ばあちゃんの姿をうかがうのは難しかったが、代わりに、椅子に立てかけてある杖は見えた。
杖の先に青色の、奇妙な人形がつるされている。
電車の振動に合わせて揺れるそれが、某プロ野球球団のマスコット人形だと気づいて、記憶の中に小さな結び目が生まれた。
おれが小学生のときにあげたやつじゃないか。
(…… ばあちゃんは、どこにいくんだろうな?)
人形に問いかけてみると、小さく左右に揺れた。
ヘッドホンからまたハズレの曲が流れてきた。
聞き覚えのない曲、見覚えのない風景。
マスクの薄いガーゼの下で、鼻がうずいた。
空気圧がかすかに変わった気配に、目を開く。
風に鼻をくすぐられてくしゃみが出た。
その余韻で、動くのが数秒遅れた。
寝ぼけ眼は、奇妙な人形どころか杖さえも映さない。
あわてて外を確認すると、電車は聞き覚えも見覚えもない駅に停車していた。
ここはどこだ。
先ほどまでの席に、ばあちゃんの姿は、ない。
立ち上がり、閉まりかけのドアの隙間から外へと飛び出した。
駅のプラットホームは静寂に包まれており、電車から降りた客も自分以外にはいないようだった。
ばあちゃんは?
きょろきょろとあたりを見回しても、それらしい姿は見当たらない。
もっと前の駅で降りた可能性があった。
自分がいつから眠ってしまったのか、覚えていないので検討もつかない。
太陽の位置が真上に近いところにある気がする。もしかしたら、ずいぶんと遠くまで来てしまったのかもしれない。
このまま迷子になっていても埒が明かないので、おれはとりあえず駅の外へと出てみることにした。
出口に向かって歩き出す、その一歩目でふと、濃い潮のかおりをかいだ。
海が近いのだろうか。
立ち止まり、もう一度ぐるりとあたりを見直してみたけれど、むしろ山が近くに迫っていて、おれの目がまぶしい青色を映すことはなかった。
田舎のさびれた駅らしく、改札が一つしかなく、当たり前のように自動ではなかった。
今朝は定期券で改札をくぐっていたため、おれは乗り越し運賃を払う必要があった。
「すみませーん」
無人なのではないか、と疑いたくなるほど人気のない駅員室の中に向かって呼びかける。
何度かくり返しているうちに、窓口の隅に呼び鈴が据えてあるのに気づいた。
指で押してみると、風に乗って気持ちいいほど遠くまで響き渡った。ちりんちりん。
しばらく待っていると、部屋の奥からこんな田舎の駅とは不釣合いな、若い駅員が出てきた。
駅員は恐縮したように広い肩をすぼめてから、おれの差し出した定期券を確認し、おれの顔をまじまじと見つめた。
そういえば、マスクとヘッドホンをしたままだった。マスクをあごの下へとずらし、ヘッドホンを頭から首へと移動させる。
「きみ、学校は?」
そう問われるまで、自分が制服を着ているという事実まですっかり頭から抜け落ちていた。
あまりにもうかつ。いつもなら、平日の昼間にこんなところにいるはずなんてないのだ。
ろくな言い訳の用意もなく固まったおれに、駅員は疑わしそうな表情を向けた。
なにか問いかけようとした駅員とおれの間を、一本の棒切れがさえぎった。
目の前で、青色のマスコット人形が勢いよく左右に揺れている。
「うちの孫になにか?」
下のほうから、甲高いつややかな声が響いた。
若い駅員は困惑の色を深め、窓口から身を乗り出すようにした。
その顔が驚きへと変化する。
そこにいたのは、子どものような老人だった。
今時めずらしい和装で身をかため、てっぺんで結んだ白髪の頭は丸く、ふうっと息を吹きかければどこまでも飛んでいきそうな、小さな綿毛のようで。
「…… ばあちゃん?」
声にしたら想像以上に弱気な音色だった。
そのせいなのか、杖を野球のバットのように振り回して、ばあちゃんは力強くおれにうなずいてみせたのだ。
結局、ばあちゃんにかばわれるような形で、おれはその修羅場を脱した。
なんと言い出せばいいものか。
前を行く小さな背中に、おれは言いよどんだ。再びつけたマスクの下で小さく息をつく。
いつのまにか、曲がっていた背がしゃんと伸びきっている。
杖の先で、青色の奇妙なマスコット人形が元気に揺れている。
気がつくと、ばあちゃんは立ち止まり、おれを見上げていた。
上から下まで舐めるような視線を投げつけて、肩をいからせた。
「なあに、その妙な格好は」
マスクとヘッドホンを奪われ、行くわよ、と、ばあちゃんは歩き出した。
家で部屋から部屋を移動するのもやっとだったとは思えない、しっかりとした足取りだった。