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顔を上げたら、のぼりたてのお日さまと目が合ってくしゃみが出た。
ずずず、とマスクの、薄いガーゼの下で鼻をなぐさめる。
朝の駅、次の電車を待つ人々がプラットホームからあふれそうになっている。
おれは、制服と背広の合間を縫って、先頭車両に向けて歩き出した。
途中、首にひっかけていたヘッドホンを頭に装着して、スピーカー部分ですっぽりと耳を覆った。
母親に、誕生日にねだって買ってもらった携帯音楽プレイヤー。
ここから学校まで、一時間ほどの道のりのお供になる。
入っている音楽をランダムに再生するようになっているので、一曲目に何が来るのか、毎日のちょっとした楽しみだったりする。
好みの曲が来れば、幸先のいいスタート。占いみたいなものだ。
またくしゃみが出た。
顔全体を覆うようなマスクをつけていても、細かな粒子は隙間をついて攻めてくる。
今朝は花粉の飛散量が多いのかもしれない。
目覚めたばかりのお日さまがまぶしく、空は白っぽくかすみがかかっている。
目をすぼめた瞬間、奇妙なものが目に映った気がした。
まるで、タンポポの綿毛みたいな。
向かい側のホームだ。
瞬きをする間に消えたので、最初は気のせいだろうと思った。
先頭車両の停車位置までたどりつくと、すでに見覚えのある顔ぶれが列を作っていた。
なんの仕事をしているのか、どこの学校に通っているのか、基本的な情報は知らない。
でも、ここには、当たり前のようにルールが存在していた。
今朝もおれは列の最後尾へと並ぶ。
向かい側のホームにも、こちらほどではないにしろ、郊外の学校や会社に向かうらしき姿があった。
その人と人の隙間から、時折ちらちらと白い光がのぞく。
あれ。
おれは思わずつま先立ちになって、列の一つ前で、新聞に目を落としているサラリーマンの肩越しに、向こう側を見ようとした。
毎日この新聞のスポーツ欄を覗き見しながら時間をつぶしているのだが、今はそんなことに構っている場合ではなかった。
タイミング悪く、向かい側に電車がすべりこんできたので、何も見えなくなってしまった。
ヘッドホンから、一曲目が流れ始める。
ああ今日はハズレだちくしょう。そう思った瞬間、踏ん張っていたつま先から力が抜けた。
自分の好きなものばかりではギャンブル性に欠けるので、曲目データにはパソコンの家族の共有フォルダ内にあった曲も混ぜてあるのだ。
これはおそらくそのうちの一曲、父親か母親のものだ。
わかりやすいメロディラインから一昔前の名残を感じとる。
発車のベルが遠くのほうで鳴っている。
よっこらせと掛け声一つ、重そうな車体を振りながら電車は動き出した。ゆるやかな加速とともに、レールの上をすべり始める。
電車が行くと、向かい側のがらんとしたホームに人影がひとつ、残されていた。
身体を前に傾け、片手に杖をついている老人は、子どものように小さく見えた。
髪が、タンポポの綿毛みたいに白いので、まるで、春が忘れ物をしていったようだった。
すれ違うようにこちらのホームにも、電車が入ってきた。
生温かい風を呼び込んで、周りの人たちの服が揺らめく。
それと一緒に、向かいのホームで綿毛も揺れているだろうか。
想像した。
同時に、耳元のヘッドホンが、かぶさるように歌を流し始めた。
独特な甘さを持った低い、男の声だった。断片的に耳が拾い上げる。
探しものはなに?
見つけづらいもの?
「―― ばあちゃん?」
声に驚いたように列の一つ前にいたサラリーマンが振り返って、それが合図になった。
おれは人の流れに逆らうように走り出していた。