Dark howl‐――闇の哄笑
霊域の番人・凍夜はある雨の日に、行き倒れの少女・香音を助けた。
幸薄い彼女に恋した凍夜は、魔女・ライカに頼んで香音を助けて貰う約束をした。
約束通りに健康な体になった香音、しかし事態はそう甘くはなかった。
前途多難な二人の恋は、果たして実るのだろうか!?
柊家当主‐―‐―香音の父は不機嫌だった。
理由は当然……
どうにも、娘の様子がおかしいからだ。
始終、窓の外を眺めては、夢見るような表情をする。
恋だ。
彼の中で、鋭く警告が発せられている。
おそらくは、どこぞの馬の骨とも知れぬ輩に、恋でもしたのだろう。
だから、見合い写真を片付けたのか。
彼は「あれも死んだ妻に似て、強情なところがある」と半ば怒鳴るようにして言ってから、グラスのワインを一気に煽った。
「どうにかして、言うことを聞かせねばならん……だが、どうすればいい」
投げやりに呟いて、椅子にどかりと腰掛ける。その重みで、籐でできた椅子がか細く悲鳴を上げるが、そんなことはどうでもよかった。
どうにかしなければ。
このままでは、柊の血が途絶えてしまう!
(どうすればいい、どうすれば!)
グルグルと、思い悩んでいた彼の思考を途切らすように、耳元で、ひどく静かな声が囁いた。
「簡単ですよ」
聞き覚えのある声を聞いた彼‐―‐‐当主は、びくりと背筋を凍らせる。
内側から鍵をかけた自室には、間違いなく自分一人の筈、外から鍵を開けなければ、入ってはこられない。
「お、お前は……どこから入ってきた!」
どもりながらまくし立てる彼に「いやぁ、心外だなあ」と愛想笑う相手。
その刹那に、ぴしゃりと短く、稲妻が嗤う。急な夕立が、一気に窓を濡らし始めた。
「娘の主治医が……何用だ。今日は呼んでいない、帰れ」
きつく怒鳴る当主を、さらりと受け流して、香音の主治医は、その顔に柔和な笑みを張り付かせる。
「気分を害されたなら謝ります……ところで、何かお困りのようですねぇ。私でよければ、力になりますよ? さ、なにをお困りです、おっしゃってみてください」
主治医の瞳が、金色に妖しく光る。それを見つめていた当主の瞳は、すぐに焦点を失い、ぼんやりとなってしまった。
「う……じ、実は」
さんざめく稲妻によって、壁に映された主治医‐‐―‐彼の影は、黒い獣のものとなって映し出されていた。
「そういうことか……娘を思う父親の情ねぇ、泣かせるじゃないか。けどまぁ……先から、お前なんぞに興味はなかったけどね。柊家を手に入れれば、この地域一帯を手に入れられる、ただそれと、エサがいたから使わせて貰っただけさ」
そういうと、主治医‐‐――‐基い干渉者はニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。
「さぁて、お前はもう、俺のカワイイ手駒……よぉく働いておくれ」
コンコン、と多少強く、香音の部屋のドアがノックされた。
「はい、お父様?」
ドアごしに尋ねると、父のくぐもった声が「そうだ」と応える。
「なぁに? どうかしまして?」
「お前に客だ、入るぞ」
「ちょっと待って、誰!?」
制止も聞かずに、入ってきた父と来客に、香音は息をのんだ。
「やあ、香音ちゃん」
「せんせ!? どうしたの? わざわざ、会いに来てくださったの?」
「お父様から、心配があるって聞いたから、慌てて駆けつけたんだよ。どうしたんだい? 心配って」
両手を強く握る主治医に、香音はきょとんと首を傾げた。
「ない、わよ? 心配なんて、ちょっと、お父様ったら、どうしたの?」
身に覚えのないことを聞かれ、香音は父の方を慌てて振り向いた。
「でも、心配だな……後から悪くなったりしたら困るだろ? 正直に言ってごらん?」
「な、ないです、本当に……ちょっとお父様、先生になんて言ったの!? ねぇ、何とか言ってよ!」
「香音……ずっと言いそびれておったが、今からそ奴がお前の婚約者だ。いいな」
「ちょっ、ちょっと待ってお父様! どうしたの? なんで急に、そんなこと言いだすなんて、どうかしてるのはお父様の方だわっ!?」
尋常でない父の様子に、香音はなおも追いすがる。
「香音っ!!」
破鐘のような声で怒鳴られ、香音はきつく身を竦ませた。
「後は勝手にしろ……儂は部屋に戻る」
乱暴に吐き捨てると、当主は壊れそうなほど勢いよく、ドアを閉めた。
「お父様もああ言ってることだし、ね? 香音ちゃん」
にっこりと笑いかけられた刹那、戦慄にも似た悪寒が、香音を鋭く貫いた。
怖い……。
怒ったお父様に怒鳴られた時とも違う、なにかが怖いんだ。
「どうしたんだい? 香音ちゃんは、俺が嫌い?」
じりじりと追い詰められ、香音は強く、主治医である彼を睨んだ。
「先生も、お父様も、なにか変よ……来ないでっ!」
香音は、迫る手から身を捩ると、慌てて窓の外のバルコニーに逃げた。
しかし、狭いバルコニー。簡単に追い詰められ、手が伸びてくる。
「やれやれ、面白いことをするねぇ」
一頻り、くつくつと嗤って香音をバルコニーの隅に追いやる主治医。
「さ、おいで? いい子だから」
「やだ! イヤったらイヤ――‐‐!」
「ぎゃっ!?」
主治医が香音に触れた瞬間、青い火花が散り、彼の本性がさらけ出る。
「これは、結界!? この気配は、霊域のっ」
赤い毛並みをした狼が、牙を剥いて、唸るように言った。
「先生が……狼だったなんて」
「ふん、その割に驚いてないじゃないか。え?」
座り込んでいる、香音と同じ高さに目線を合わせると、狼はニヤニヤといやらしく笑う。
「なっ、なによ……アンタなんか!」
ぷんっ、とそっぽを向いた香音に苦笑して、狼は形を人型に歪ませた。
「霊域の、確か凍夜といったか? あんな小僧より、俺の方が数倍はいいオトコだと思うがなぁ」
「凍夜を悪く言わないで! アンタなんか最っ低よ、顔も見たくない!」
そっぽを向いていた香音が、躍起になって反撃するのを見て、主治医は面白そうに口角をつり上げて笑った。
「気の強いことだ、ますます気に入ったよ。今は引くが、簡単に諦めたりしないぞ? また来る」
そう言って、ひょいとバルコニーの手すりに留まると、香音の主治医だった男は、ふうわりと風に乗って、去っていった。
「バカ‐―‐‐――‐‐っ、もう来なくていいからね! 木にでも、引っかかっちゃえばいいんだわっ」
香音の叫んだ『バカ』が、黄昏の空に空しく響く。
「騙されたお父様は仕方ないとして、あんなヤツ、今度来たら、ほうき持って叩きだしてやるんだからっ」
ぶんすかと、歩調荒く館を飛び出した香音は放たれた弾丸のように、まっすぐ霊域の森へと向かった。
夕刻の見回りをしていた凍夜は、呼ぶ声を聞いて、慌てて後ろを向いた。
「凍夜ぁ!」
勢いよく抱きついてきた彼女に、凍夜は数歩よろけてしまう。
「香音!? 何かあったのか? どうした、まずは落ちつこうな」
「落ちついてなんてられないわっ、もう〜……あいつったら、信じられない! ずっと医者のフリして、あたしを騙してっ」
「医者?」
もの凄い剣幕に気圧されて、凍夜はおずおずと尋ねた。
「そう、ずっと掛かり付けのお医者で、色々とよくしてくれたんだけど……だけど、そいつ狼だったの! 凍夜の悪口言ったから、追い出したやったのよ」
瞬間、凍夜の片眉がぴくりと震えた。
「そいつ、赤毛じゃなかったか?」
「そうね……たしか赤毛よ」
「鬼灯だ。西の森に棲む、性悪ナルシスト野郎なんだよ…あいつめ、俺の香音にちょっかいかけるたぁ、いい度胸じゃねぇか」
忌々しげに言うと、凍夜は香音を抱き寄せ、キスをする。
「やん……んんっ、凍夜ぁ」
「ここじゃ冷える、中に入ろうな。気づかないで悪かった」
香音は、きょとんと首を傾げた。
いつの間に家が建っていたんだろうか、こんな立派な家ならば、もっと早くに気づいたはずなのに。
目の前には、石造りの立派な家があった。
「おいで、香音……いつまで入り口に立ってるんだ? 冷えてしまうだろうに」
「あっ、うん……おじゃまします」
凍夜が、後ろでドアを閉めてから笑った。
「いらっしゃい、適当に座って、楽にしててくれ。いま熱いものを用意するよ」
くしゃくしゃと髪を撫でられ、香音は心地よさそうに微笑んだ。
「ありがと、待ってるわ?」
凍夜がキッチンに引っ込んでしまってから、香音は広い居間を、ぐるりと見まわした。
パチパチと、不思議な色の火花が爆ぜる暖炉の上、見たことのない古い絵画を見つけた香音は、ややしばらく絵に見入ってしまっていた。
(If I wish,shall we eternity?‐―‐望むのなら、永遠をあげましょうか?)
その時、香音の中に『声』が囁いた。
「えっ? だ、誰!?」
しきりに辺りを見回してから、そこに自分一人しかいないことを思い出し、一気に青くなる。
「どうかしたのか?」
暖炉の前で固まっていた香音は、ふいにかけられた彼の声に、ゆっくりと肩の力を抜いた。
「ううん……ちょっと空耳を聞いたみたい、疲れてるのね、きっと」
「そうか、今日はもう遅いし、泊まっていくといい」
「とっ、泊まる?」
「あ、いや……その、深い意味じゃ」
ボフッと、沸騰した二人を、やかんの音が後押しした。
こんばんわ、維月十夜です。
『bear of love』新章のお届けです。
今回もまた、長々しいタイトルですみません(/_;)
それにしても、ああ……穴があったら入りたい(汗)