出逢った2人
霊域の番人である人狼・凍夜は、ある雨の日に行き倒れの薄幸な少女・香音を拾った。
富豪の一人娘である香音は、病弱なために幽閉生活を送ってきたが、余命幾ばくもないと知って、そこから脱出。
薄幸な香音と、霊域の番人である凍夜の切なく淡い恋を描く、交流記。
洞窟の壁に、松明の影が揺れている。
奥に敷かれている干し草の上に、少女が横たわっていた。
(温かい手……頭を触っているのは、誰?)
冷たく冷えた髪を、宥めるように、大きく温かな手が往復している。
心地よい、安心するの。
もっと、もっとして。
少女は、無意識に温もりを求めて、うっすらと目を開けた。
「よかった、気がついて……ずっと目覚めないから、どうかしちまったかと思ったよ」
(え? えぇ?)
少女は、ぱちんと一つ瞠目をして、目の前で微笑む銀髪の青年を見た。
「あなたは……だぁれ?」
寝ぼけ眼を擦りながら問う少女に、青年は大げさに腕を組んでから、唸って見せた。
「誰と聞かれてもなぁ、まぁ……今言えるのは、この森の番人ってとこかなぁ」
青年は、困ったように頭を掻いてから、真っ直ぐに少女の方を見る。
言葉が続かない……。
今までに、人間と話したことなど、数えるほどしかない上、異種族とはいえ、年若い女性である。
無音の空白に慌てた彼は、あわあわとしながらも、なんとか話題をひねり出した。
「その、聞いてもいいかい? なんで、あんな場所にいたんだ?」
‐‐―ふと、少女の表情が悲愴に翳ったのを、青年は見逃さなかった。
「自分が……もう、そう長くないのは分かってるの。だから、今のうちに少しでも世界を見ておこうと思って。助けてくれて、どうもありがとう。あたし、香音というの、柊香音」
「……柊? この崖上のお屋敷だろ? そこの家に娘がいたなんて、初耳だな」
青年は、香音の隣りに座ると、興味深そうに顔を覗き込む。
「そう……お父様は、あたしを一度も表に出したことがなかったんですもの、知ってるはずないわね」
諦めたように笑った香音に、青年は、ちくりと胸に障えを感じた。
あの顔だ。
自分が、彼女を初めて見つけたときと同じ表情なのだ。
「さっき、大分咳き込んでたな。ほら薬だ、飲め」
青年は、枕元に置いていた木製の器を、香音に渡した。
中身は、霊草を煎じたものが入っている。
「お茶みたいな色……苦い」
少し口に含んでから、香音は、思いきり渋面を作った。
「薬だからな、甘くはないぞ?」
香音は、薬をすべて飲み干してしまうと『ほぅ』と溜息をついた。
「あたしが今まで飲んだ薬は、全部甘かったわ?」
「そうか……今のやつはな、この霊域にしか生えない薬草を煎じたもんだ。どうだ? 体、もう苦しくないだろう」
そう言われて、香音は何度も浅く息を吐いてみる。
不思議なことに、彼の言うとおり、体からは一切の不快さがなくなっていた。
「ホントだ……苦しくないみたい。あなた、お医者なの?すごいわっ」
にっこりと笑みを咲かせた香音に、青年は照れたように頬をかいた。
「大したことないさ……それより、よかったな?楽になって」
「まだ、やりたいことがあるもの、そう簡単には死ねないわ……なんだか勇気が出た、あなたのお陰ね」
見ちがえたように微笑んだ香音に、青年は眩しそうに目を細めると、背中を向けて言った。
「そりゃあ、良かったな。雨が止んだら、森の出口まで送る」
「戻りたくなんかない」
ぽつりと、しかし断固として言った香音に、青年はハッと振りかえる。
「戻ったら、もう二度と外には出られなくなるわ……それなら、死んでしまった方がいくらかマシよ」
言った彼女の瞳には、大粒の涙が浮いている。
「そんなこと、言うもんじゃないぞ? 言霊ってのがあるんだから、むやみに闇の言葉は言うんじゃない」
ばふばふと、小さな頭を撫でられて、香音は涙を拭いながら頷いた。
「不思議な人ね、あなた……ねぇ、名前を教えて?」
「あれ? まだ教えてなかったか、俺は凍夜っていう」
そう言って、凍夜はアイスブルーの瞳をしばたかせた。
「凍夜は、ここに一人で、なにをしてるの? 家は、どこ?」
香音は、不思議そうにあたりを見まわしている。
知りたがりな年頃なのだろうが、凍夜はそれ以上のことを話さなかった。
「雨、止んだみたいだな……送ってくよ」
ゆっくりと重い腰を上げた凍夜は、そっと香音の手を取って立たせてやる。
その瞬間、香音がサッと顔を赤らめたのに、凍夜は気づかなかった。
雨上がりの森の中を、足早に凍夜は歩いていく。
それに、数歩遅れて付いてくる香音を振り向きながら。
「ねぇ凍夜、よかったら、友達になってくれないかしら?」
「……」
それに、凍夜は応えない。
応えるのには、相当の気骨がいるからだ。
助けたとはいえ、そう簡単に気を許してはいけない。
自分には、やらなければいけないことが‐―‐霊域の森を守るという責務が。
「ダメ?」
森と外界の境に着いたとき、凍夜はぴたりと足を止めた。
「個人的にいやではないが、もうここには近づくな。それが、そなたの為でもある」
「よく、分からないけど……友達になってくれるのね、嬉しいっ」
思いきり笑顔を咲かせた香音に、凍夜は面食らって一つ瞠目をする。
「と、とにかくだ……今は早く戻った方がいい」
「うん、いやだけど……またね」
小走りに、走り去っていく香音の背中を見送る凍夜の顔は、これ以上ないと言うほどに真っ赤だった。
「俺、やばいかも……香音、可愛かった」
ぽつりと呟いてから、凍夜はさらに赤くなる。
なにかが、変わっていく……そんな気がした。
霊域の森の番人である自分が、人間の少女に懸想するだなんて。
今までには、あり得なかったこと。
これは禁忌だ‐―‐それが分かっているのに、まるで痺れたように思考が働かなかった。