針仕事の令嬢
借り物のドレスは腰が少し緩かった。私はベルネール伯爵家の玄関前で背中のひもを確かめ、開きかけた靴の先を長いすその下へ隠した。これで馬車代まで掛かっていたら泣くところだけれど、友人の店から歩いてきたおかげで今日の昼食代は残っている。
「メルシエ男爵家、リネア様でございますね。どうぞこちらへお進みください」
招待状を受け取った使用人が扉を開けた。暖かな部屋には花の香りが満ち、着飾った令嬢たちの間で銀の食器が光っている。王都アルネの茶会へ出るのは初めてで私は皿の菓子より先に皆のドレスの縫い目を見てしまった。
右のご婦人は肩を詰めすぎている。窓際の方は後ろのすそが長く椅子を引くときに踏みそうだ。職業病だと気づいて顔を上げたところで白い扇を持つ令嬢と目が合った。
「あなたがリネア様。父から聞いていたよりお若いのね。領地ではご自分で服をお直しになるそうだけれど今日のドレスもそうなのかしら」
ローレンツ侯爵家のリディア様だった。父が王都へ送った手紙には領地の織物の買い手を探していると書いたはずなのに、途中で私の内職の話まで加わったらしい。相手の淡い桃色のドレスには私の月の稼ぎでも買えそうにないレースが重ねられていた。
「今日は友人から借りました。私のものは旅先で洗ったら乾かなくて今ごろ店の屋根裏に干してあります」
ごまかすつもりで口を開いたのに出てきたのは余計な正直さだった。リディア様の隣で誰かが笑い、私は耳に掛けた栗色の髪に触れかけて手を下ろした。こういうときに顔だけでも涼しく見せる練習をしておけばよかった。
「そう。ベルネール夫人は慈善にも熱心ですものね。どうぞ王都を楽しんでいらして」
慈善という言葉が引っかかったけれどここで言い返しても織物の買い手は増えない。私は礼をして輪を離れた。父の古い知人であるアデル・ベルネール伯爵夫人に挨拶を済ませたら、せめてお茶と一緒にお菓子を一ついただいてから帰ろうと思った。
ところが部屋の奥で夫人を見つけたときその右の袖には紅茶のしみが広がっていた。客の一人が転びかけて茶わんを落としたらしい。夫人は謝る相手をなだめていたが、熱い茶が掛かった手首を使用人が冷やし始めると顔をしかめた。
「やけどは軽いそうよ。でも袖が張るから腕を上げられないの。上着を脱ぎたいのによりによってこんな日に細い袖を選んでしまったわ」
挨拶に来た私へ夫人は困ったように笑った。隣室へ移るのを手伝って袖を調べると手首までぴったり仕立ててある。無理に引けば痛めたところをこすってしまうし、表の絹を切れば二度と元へ戻せない。
「袖の下側の縫い目をほどけば腕を動かさずに脱げます。後で縫い直せますからよろしければ私に任せていただけませんか」
夫人の許しを得て付き添いの侍女から裁縫箱を借りた。縫い目の間へ針を差すと一本ずつ糸が浮き、張っていた袖に余裕ができる。侍女に布を支えてもらいながら上着を外したところで夫人はようやく長い息を吐いた。
「助かったわ。午後もずっとあの格好でいる覚悟をしていたところよ。あなたのお母様も指先の器用な方だったけれどよく教わったのね」
亡くなった母を覚えている人は王都では少ない。私は返事をする前にうつむいて糸くずを拾い、それから十代のころに町の仕立屋でも習ったのだと答えた。夫人の替えの上着が届くまでほどいた袖をひざの上で縫い直すことになった。
半分ほど進んだところで扉がたたかれた。夫人が許可すると黒い礼服を着た黒髪の若い男性が入ってくる。まっすぐな姿勢と長身のせいで戸口が急に狭く見えたが夫人の手へ向けた目はひどく心配そうだった。
「廊下で聞きました。医師は呼びましたか。必要なら私の馬車を出します」
「そこまでではないわ。こちらのリネアさんが助けてくださったの。この子はメルシエ男爵のお嬢さんよ。リネアさん、こちらがヴァレール公爵のレオンハルト様よ」
立ち上がろうとして裁縫箱を落としかけた。とっさに手を伸ばした公爵様が箱を押さえ、転がった糸巻きを拾ってくださる。その手に針が刺さらなかったか気になって私は挨拶の途中で指を見てしまった。
「大丈夫だ。針はこちらに残っている。今は夫人の袖を頼む」
声は低いが責める響きはなかった。私は礼を言って座り直し、ほどいたところを閉じていった。公爵様は夫人の話を聞きながら糸巻きを持っていてくださった。糸を足そうと私が手を伸ばすたび取りやすい高さへ律儀に差し出してくれる。
「これで終わりです。腕が治るまでは着ないでください。袖幅も少し広げた方が楽になりますが今日は元へ戻してあります」
夫人は縫い目をなぞってから侍女に何かを頼んだ。差し出された小さな封筒には銀貨が入っている。知人の手伝いだからと断りかけると夫人は私がまだ持っていた針を指さした。
「こちらから頼んだ仕事でしょう。受け取ってちょうだい。次も気持ちよく頼める方が私にはありがたいの」
私は封筒を両手で受け取った。これだけあれば父への土産に薬草茶を買えるし友人への布代の支払いも済ませられる。礼をして顔を上げると公爵様がこちらを見ており、なぜかお金を数えていたのが伝わったようで耳が熱くなった。
「もう一つ仕事の相談をしてもいいだろうか。私の妹のドレスを見てほしい。本人が望めばの話だが君のような人を探していた」
私は針を落とさないよう裁縫箱へ戻した。茶会の挨拶にはさんざん失敗したのに針を持った途端に仕事が二つになった。もっとも公爵家の依頼を受けられるかどうかは別でまず何に困っているのか聞かせていただくことにした。
帰り支度をしていると夫人から王都での用事を聞かれ、私は領地の織物を紹介するために来たのだと答えた。かばんの見本を広げると公爵様も水色の亜麻布へ手を伸ばす。話を聞きながら布の端を指で確かめ日なたでも色を見ていいかと尋ねてくださった。
翌日訪ねたヴァレール公爵邸は我が家が十軒ほど入りそうな広さだった。応接室へ通された私は持参した見本布をひざに載せ、値段を聞いて帰されても落ち込まないと決めた。王都へ来た一番の目的は領地の布の販路探しで、父の紹介状を入れたかばんには断りの返事がすでに三通たまっている。
公爵家の妹君、リゼット様は十七歳だった。兄によく似た青灰色の目をしているが座っている間も指で椅子の縁をたたいていて落ち着かない。私が型紙用の紙を出す前に足首をひねって以来重いドレスを着ると歩きづらいのだと話してくださった。
「医師にはもう踊っていいと言われているの。でも今のドレスだと足に絡んでまた転ぶ気がしてしまうのよ。仕立屋にはいつものすそを短くしてと頼んだのに脚が見えるのはよくないと言われてしまって」
見せていただいたドレスは薄い絹を何枚も重ねた作りだった。見た目は美しいけれど長いすそが後ろへ引かれ、歩くたびに腰から下へ重みが掛かる。私は許可を得て内側を調べまず歩くところを見せていただいた。
「すその長さを全部変えなくても前側を上げられます。中の布を減らして表には斜めのひだを作ってはどうでしょう。椅子に座ったときも足元が隠れますし歩くときには靴が引っかかりません」
仮留めだけして試してもらうとリゼット様は部屋を二度往復した。三度目には振り返らずに隣室へ入っていき戻ったときには兄の腕を引いている。公爵様は妹君の歩き方を確かめてから私へ向き直った。
「今の案でお願いしたい。費用と完成までの日数を教えてくれ。君の滞在予定に無理がない範囲で頼む」
言いにくかった金額を先に聞かれたので助かった。改作の手間と必要な裏布、仮縫いの回数を書き出すと公爵様は内容を確かめて承知してくれた。銀貨を数える目をしていると笑われることも、名誉なのだからと無料を求められることもなかった。
帰り際に玄関の段差で足元を気にしていると公爵様が先へ下りて手を差し出した。古い靴の先は朝より開いており、階段で引っかけるのが怖かったのだ。隠そうとした足へ目を落とした彼は何も言わず最後の段まで私の歩幅に合わせてくださった。
「ありがとうございます。お恥ずかしいところをお見せしてしまって。帰ったらちゃんと縫い直します」
「それなら安心だ。だが雨が来そうだから今日は馬車を使ってほしい。妹のドレスを運んでもらうのに歩かせるわけにもいかない」
箱に入ったドレスを抱えて馬車へ乗ると実際に雨が窓をたたき始めた。窓越しにお礼をしたとき公爵様は傘も差さずにまだ玄関に立っていた。濡れますよと口の形で伝えるとこちらへ一度うなずいてからようやく屋敷へ戻っていった。
友人のマノンの直し物店へ帰ると彼女は箱の大きさを見て作業台を片づけた。持ち込んだ事情を話している間にも手が動き、糸や裏布が並んでいく。マノンは二階の部屋から私の針山を持ってくると私の靴までひっくり返した。
「こっちが先よ。ドレスを預けた相手が帰り道で転んだら公爵様も困るでしょう。針を貸して。あなたはお茶を入れてちょうだい」
七つ年上のマノンには何を言ってもかなわない。私は台所で湯を沸かしながら今日の見積もりに手伝い分を加えていなかったことに気づいた。店へ戻って手伝いの分は払うと伝えると彼女は承知してくれた。ただし夕食の片づけも付けるよう求められた。
机には私の留守中に届いた手紙が置かれていた。一通は父からで家のことは心配せず予定どおり帰ってきなさいとある。三年前に洪水で流れた橋を架け直した費用がまだ家計を圧迫しているのに、父はそういう話を私宛ての手紙には書かなかった。
もう一通はベルネール夫人からだった。八週間後に開かれる春の装い展へ出品しないかという誘いで、会場代と材料代を自分で負担できれば身分を問わず応募できるらしい。同封された要項には優れた出品者へ王宮から仕事を依頼するとあった。
参加費を読んで息が止まりかけたが公爵家の仕事を終えれば手元に残る額で払える。布は持参した見本と同じものを領地から取り寄せればいい。私は父への返事を書きかけ、もう一枚の紙へ必要な費用を並べた。
「出たいんでしょう。お父様に相談する前から帳面を作っているんだから。二階の家賃は後払いでいいけど材料代まで甘く数えないでね」
マノンに言われて計算し直すと赤字になった。私は菓子代を削ってみたがたいした額にはならず、結局は王都の直し物を手伝って足りない分を稼ぐことにした。出品するのは三着もいらない。一着だけでも手に取った人が着たいと思うものを作ろうと決めた。
リゼット様のドレスを届けたのは十二日後だった。注文どおりに仕上がっているか確かめてもらう間私は壁際で何度も針の数を思い返した。作業が終わるたびに数えたのだから一本も残っていないはずなのに、公爵様まで同席していると余計なことが気になってしまう。
妹君はすそを持たずに椅子へ腰を下ろしそのまま立ち上がった。次に兄へ腕を差し出したかと思うと部屋の真ん中へ引っ張っていく。付き添いの侍女が笑って拍子を取り始め、二人は窓辺まで一回りして戻ってきた。
「怖くなかったわ。本当に、次の足を出すたびにすそを見なくてもよかったの。リネア、ありがとう。今度は新しいドレスも頼んでいいかしら」
返事をした途端に力が抜け、私は持っていたかばんを落としかけた。公爵様の手がまた伸びてきて持ち手を支える。妹君に見られながら二人で同じかばんを握ったままになり、先に指を離したのは私だった。
支払いを受けた後で衣装展の話をするとリゼット様は出品する服の色まで聞いてきた。まだ決まっていないと答えたら兄から聞いた領地の見本布を見たいと言い出す。公爵様は私が茶会の日に話した内容を覚えており、あの青い布をもう一度見せてもらえるかと頼んだ。
「水色の亜麻布でしょうか。でしたらこちらにあります。絹ほど光りませんが細い糸で織ってあるので肌に触れても柔らかいんです」
リゼット様は見本を頬に当ててから私の顔の横へかざした。何か思いついたように兄を見てそれから着替えを理由に席を外す。公爵様が帰りの馬車を用意すると言ってくれたが私は礼を言って断った。今日は晴れているし靴も直っている。
「少しだけ歩きたいんです。うまくいくか怖かったので今はじっと座っていられなくて。こんなふうに喜んでいただけたのは初めてでした」
言ってしまってから公爵様を前に浮かれすぎたと思った。けれど彼は笑わず、では私も歩いて構わないだろうかと尋ねた。役所へ出す書類を届ける用があるそうで護衛を後ろに連れて通りの角まで一緒に歩くことになった。
屋敷の中では立派な人だったのに隣を歩くと足が長い人になった。私が二歩進むところを一歩で歩けるのを抑えているのが分かる。こちらも少し急いでみたら互いに歩調が合わなくなり二人とも同じところで足を止めた。
「すまない。妹にもよく言われる。誰かと歩くときは道を確かめる前に隣を見ろと」
「私も急がなければよかったんです。いつもは配達の荷物を抱えているのでつい早足になってしまって。今日は荷物も少ないのに」
見上げると口元に笑みがあった。茶会で無口だと感じたのは私と話したくなかったからではなく、こちらが返すまできちんと待ってくれていたからかもしれない。通りを渡るときに差し出された腕へ今度は迷わず手を添えられた。
公爵様は父が歩けるようになったかと尋ねた。父のけがまでご存じだったのが意外で聞き返すと流通路の修復について届け出を読んだことがあるという。洪水のときに父が橋の修復を先に進めたので隣の領地まで秋の荷を運べたらしい。
「我が家が代々受け持っている街道ともつながっている。礼を伝えそびれていた。君のお父上が無事でよかった」
家では修理代の工面に頭を抱えてばかりいた父のことを遠い王都で覚えている人がいた。足を痛めて以前ほど馬に乗れなくなったが元気だと伝えると彼はうなずいてくれた。私はその日の帰りに父の好きな焼き菓子を買い、手紙に公爵様の言葉をできるだけそのまま書いた。
衣装展の応募は受理され、私は領地へ帰るのを延ばした。父から届いた返事には出品を許す言葉とともに布の発送日が記されている。末尾には自分も若いころ王都へ出たくて祖父ともめたのだと書かれていた。領地を離れる私を心配するばかりの父だと思っていたのでそのくだりを二度読んだ。
作るのは自分で着るためのドレスにした。借り物ではなく肩も腰もぴったり合う服が欲しかった。靴先を隠してうつむくより顔を上げて人前へ出たかったのだ。袖の形を変えたり飾りを足したりする前に私は下着姿で鏡の前へ立ってマノンに寸法を取ってもらった。
「せっかく自分の服を作るんだから店番や針仕事の都合ばかり考えないのよ。何色が着たいか聞いているの。売れそうな色じゃなくてあなたの好きな色」
答えは水色だった。母が大事にしていた外出着と同じで子どものころから一度着てみたかった色だ。言うとマノンは型紙の端へ青と書き、ほかの候補を線で消した。
出品準備の合間には直し物を続けた。リゼット様の紹介で公爵邸の侍女から休みの日の服を頼まれ、妹君からは古い上着の飾りを外す仕事も回ってくる。邸へ納めに行くとときどき公爵様が応接室へ顔を出した。
最初は妹君に用があるのだと思っていた。ところが二度目は妹君が外出中で三度目には机の上へ焼き菓子が用意されていた。私が父のために買ったものと同じ店でつい一つ余計に食べたら翌週は皿が大きくなっていた。
「公爵様のお仕事を邪魔していませんか。私はつい長居してしまいますけれどお忙しいなら遠慮なく追い出してください」
「君が来る日に合わせて休憩を取っている。追い出したら私が茶を飲みそびれる。できればもう一杯付き合ってほしい」
そう言われると帰れなかった。公爵様の話は派手なものではなく、書類の文字が読みにくかったとか飼い馬が新しい飼葉を嫌がったとか、ごく普通のことだった。私は店の隣のパン屋がいつも一つ多く袋へ入れてくれる話をした。次はそのパンを食べたいと言われ、帰り道で焼き上がりの時刻を確かめた。
ある日の午後には出品するドレスの仮縫いを公爵邸で行った。リゼット様がどうしても見たいと言いマノンも一緒に招いてくださったのだ。応接室の鏡の前で布を当て直しているところへ公爵様が入り、私はむき出しの腕を隠そうとして飾り布を裏返した。
「今は見ないでください。まだ袖が片方しか付いていませんし待ち針も出ています。仕上がったらお見せしますから」
公爵様は扉を閉めて出ていった。ところが着替えてから廊下へ出るとすぐ横の椅子に座って待っていた。私に気づくなり立ち上がったのがおかしくて笑うと彼も困ったように口元を緩めた。
「いつ入っていいか分からなかった。先ほどは悪かったがあの色はよく似合っていた。完成したら真っ先に見せてもらいたい」
片袖しかない服を褒められたのは初めてだった。たぶん色の話なのに返事をすると声が上ずりそうでうなずくのが精一杯だった。そのまま通り過ぎようとしたところで彼の上着の第二ボタンが取れかけているのに気づいた。
直すことを申し出ると彼は近くの小部屋で上着を脱いだ。私は椅子に座ってボタンを留め直し、彼は窓の横に立って終わるのを待つ。針が布を抜ける音まで聞こえそうで普段ならすぐ終わる作業が長く感じられた。
「君は店を持ちたいのだろうか。妹から聞いた。もし話したくないことなら答えなくていい」
私はうなずき、家のことと切り離して人に話したことはなかったのだと答えた。いずれは領地で注文を集めるだけでなく王都に自分の看板を出したい。父の負担を減らすためでもあるけれどそれだけで毎晩型紙を書き直せるわけではなかった。
「自分の作った服を私の知らない方にも着てもらいたいんです。似合う形を考えるのも仮縫いも好きですし、今日みたいに誰かがボタンを落とす前に見つけられると得をした気になります」
目を上げたら彼がこちらを見ていた。ボタンは付け終わっていたのに私は糸を切るのを忘れていた。慌ててはさみを動かしたが指の震えまで見えた気がして余った糸を長く残してしまった。
「ならば開店したら私も客になりたい。君は紳士物も引き受けるだろうか。ボタンだけでは頼む口実がすぐなくなる」
返し忘れていた上着を差し出すと彼の指が私の手に触れた。避けるには遅く、触れたままでいるには長すぎる。私は先に離して裁縫箱を抱き、公爵様は上着を受け取ったのに着ずに持っていた。
帰りの馬車でマノンは何も聞かなかった。ただし店へ戻った途端今日の私はボタンを留めるのに十分も掛かったと教えてくれた。私はそんなはずはないと答え、針箱の中を意味もなく整理した。
それから一週間後にベルネール夫人の昼食会へ招かれた。腕はすっかりよくなったという夫人へ袖を広げた上着を届けるためで、今度はマノンの助けを借りて私も持参した外出着を整えた。招待客にはリディア様もいて私が衣装展へ出ると知ると扇を閉じた。
「本当に自分の名前で売るのね。縫い物がお好きなのは構わないけれど公爵様までお巻き込みにならない方がいいわ。私の父は公爵家との縁談を望んでおりますし、あの方のご親切を誤解されるとあなたも困るでしょう」
親切なら何度も受けている。それを違う意味に受け取っていたのは私かもしれなかった。私は公爵様から縁談の話を聞いていなかったがすべての事情を仕事相手へ知らせる義務などない。
手元の茶を飲んだら冷めていた。私は新しく茶を注ぎに来た使用人へ返事をしそびれ二度呼びかけられてから顔を上げた。リディア様はそれ以上何も言わず隣の客へ話しかけていたので私も衣装展のことを夫人に尋ねた。
翌日から公爵邸への納品は使用人へ渡して帰ることにした。作業が詰まっているのは事実だし衣装展まで二週間しかない。公爵様の都合を尋ねなければ約束を断る必要もなく毎朝少し早く店へ下りて布に向かっていられた。
けれど三日目には私の方が音を上げた。ボタンを付けるたびに彼の上着を思い出し、窓の外で馬車が止まると手が止まる。好きになっているのだと認めた途端、会わずにいれば平気だと思っていたのがまるで当てにならなくなった。
その日の夕方に店の戸が開いたとき私はついに都合のいい幻まで見るようになったのかと思った。公爵様は棚の間に立つと帽子を外し、閉店にはまだ早いだろうかと尋ねた。いつもは広い応接室で会う人が小さな店にいるので裁断台まで狭くなったように見える。
「直し物でしたらお預かりします。今は展示の支度があるのでお急ぎのものはお受けできないのですけれど」
「今日は君に会いに来た。妹の言葉を借りるならたまたま通りかかったふりをするのは無理だそうだ。急な訪問で迷惑なら出直す」
マノンが台所へ立った。自分の茶わんだけ下げていったので長く戻ってこないつもりなのが分かった。公爵様は私の向かいの椅子に座り、机に積んだ帳面へ触れないよう両手をひざへ置いた。
「私が何か気に障ることをしたのだろうか。納品に来ても会ってくれないので困っている。忙しいだけならよいのだがそうでないなら聞かせてほしい」
目をそらせばまた別の用事を作って逃げそうだった。私は糸を針穴に通そうとしていた手を止め、針を針山に刺して糸を脇へ置いた。リディア様の名前を出していいか迷ったが誰から聞いたかを隠しても話は進まない。
「侯爵家から縁談のお話があると伺いました。今まで何も考えずにお茶をいただいていましたがご迷惑になるなら控えた方がいいと思って。それでお会いしませんでした」
最後だけはごまかせなかった。彼は目を伏せて指を組み直してから私を見た。縁談の打診があったのは事実だがすでに断っていること、今は婚約している相手がいないことを一つずつ伝えてくれた。
「私から先に話すべきだった。君に来てほしくて菓子まで用意していたのに何のために引き留めているかは一度も伝えていなかった」
公爵様が言葉を選んでいる間、通りを荷車が通っていった。いつもなら車輪の音が気になるのに今日は彼が話し始めるのを待っていた。これほど近くに座っているのも久しぶりだと思うと余計に顔が熱くなった。
「君が好きだ。仕事をしているところも、話し始めると茶を飲むのを忘れるところも。店の話を聞いた日から、開店の日には客としてだけではなく隣にいたいと思っている」
私は口を開いたが声が出なかった。返事の代わりにお茶を出そうとして立ち上がり、その前に何か言わなくてはと座り直す。公爵様の目が私の手を追い、最後には二人して机の上の空いた場所を見ていた。
「私もお会いするのを楽しみにしていました。パンを買った日も仮縫いの日も、その前の帰り道も。ですから今うれしくて何を言えばいいのか分からないんです」
そこまで言うと今度は別の心配が口から出た。家の借金は父と返していくつもりで公爵家に引き受けてもらうために近づいたわけではない。言い訳に聞こえるかもしれないと思ったが私は最後まで話した。
彼は途中で口を挟まなかった。こちらが話し終わると私と父が決めたことを変えさせるつもりはないと言った。それから椅子を寄せる代わりに机の上へ手を置き、握ってもいいだろうかと尋ねた。
手を重ねると親指が私の指の付け根へ触れた。布を押さえてできた固いところも針で刺した小さな傷も隠せなかった。けれど彼は指を開いて私の手を包み、私が握り返すまで待っていた。
「衣装展が終わったら一緒に出掛けていただけますか。今は返事を考えながら縫っているとまたボタン一つに十分掛かってしまいそうです」
「待っている。だが忙しくても食事は抜かないでほしい。出掛ける日に君が寝込んでいたら私はまたこの店へ押しかけることになる」
閉店までには彼を送り出した。戸口で手を離すのに手間取り、後ろからマノンのせき払いが聞こえた。公爵様が帰ると私は椅子に座って作業へ戻ろうとしたが、針をつまむたびに彼に握られた指先が気になった。
それからは忙しい日でも手紙を一行ずつ書いた。仮縫いが終わったとかパン屋で新しい菓子が出たとか特別な用のないものばかりだった。彼からは仕事が長引いて妹に夕食を待ってもらえなかったという返事が届いた。マノンは私が封をするまで一行を三度も読み直すことに何も言わなくなった。
展示の三日前私は仕上がりかけたドレスを着て店の階段を下りた。最後に買い足したレースがすそを一周し、端の飾りには細かなガラス玉を縫い留めてある。鏡の前では気にならなかった重さが歩くと脚へ掛かり最後の段で右足の靴にすそが引っかかった。
手すりをつかんだので転ばずに済んだが飾りを留めた糸が引かれて布に裂け目ができた。私はしゃがんですそを持ち上げた。指二本ほどの傷なのに裂けたところへまた飾りを重ねる案が頭に浮かび自分で嫌になった。
「着たまま座らないで。まず脱ぎましょう。どう直すかは作業台へ広げてから考えればいいわ」
マノンに手伝ってもらって留め具を外した。最初は一人で脱ぎ着できる前開きにしていたのに飾りで隠すうちに留める順番が複雑になっている。自分で作ったはずの服から抜け出すのに手間取り、私は借り物のドレスを着た朝を思い出した。
裁断台へ広げて傷んだ部分を確かめるとすその一幅を取り替えれば直せそうだった。余った布も足りる。ただし同じ飾りを戻せば重さは変わらず何よりも足が引っかかった理由が残る。
「リゼット様には軽くして差し上げたのに、自分の服はどんどん重くしてしまったわ。絹のドレスの隣で見劣りするのが嫌で付け足してばかりいたの。縫い直す間にも何か飾りを探しそうで怖い」
マノンはまだ何も切らず私の顔を見た。代わりに答えを出してほしかったのかもしれないが私は裁ちばさみを自分の方へ引いた。レースを外すと水色の布が広く現れ、最初に型紙で決めたすその線が見えるようになった。
ガラス玉は一つずつ糸を切って皿へ戻した。残せるレースは襟元と袖口へ使い、あとは外して箱に収める。直し物の稼ぎをためて買ったものだったので片づける手が止まりかけたけれど付け直すことはしなかった。
翌朝には裂けた部分の布を取り替えた。すそを留め直した状態で階段を上り下りし、椅子を運び、床へ落とした糸巻きを拾う。マノンはその間に出品票へ制作時間と使った材料を書き直し、私が歩くたびに後ろからすその長さを確かめてくれた。
夕方に公爵様が店へ来た。完成を真っ先に見せる約束を守りたかったので前日に私から頼んでいたのだ。直しが終わるか確信はなかったが、約束を取り消さずにおいたせいで最後の二時間は時計ばかり気にしていた。
私は試着用の幕の内側で着替え、前の留め具を順番に閉じた。幅のある飾り布を上から留めればボタンは表から見えなくなる。腰回りをなでて布を落ち着かせ、鏡で確かめてから幕を引いた。
「お待たせしました。これが私の出品するドレスです。もっと豪華にするつもりだったのですけれど、歩いてみたら着ていたくなくなって作り直しました」
公爵様は返事をしなかった。正面から見せた方がいいのかと一歩進むと彼もこちらへ近づいてきた。手を差し出されたので重ねたら指先へ唇が触れた。
「よく似合っている。先ほどからそれをどう言えばよいか考えていた。明日は会場の誰より先に一緒に歩かせてほしい」
耳まで熱くなったので私はうつむきそうになった。けれど見てもらいたくて呼んだのだからと思い直し顔を上げる。彼はすそを踏まない位置まで下がって手をつないだまま店の棚の間を一往復した。
「明後日です。展示は明後日の朝からなので明日はまだ荷造りをしています。もしよろしければ明日も来てくださって構いませんけれど」
公爵様は口元を押さえ、後ろでマノンがとうとう声を出して笑った。私まで笑い始めると彼もつられ、握った手が揺れた。肩も腰も苦しくなかった。笑って背を丸めてもどこかが引きつることはなかった。
春の装い展は王宮に近い大きな会館で開かれた。会場には商人も仕立屋も貴族の夫人も入り交じり、並んだ衣装の色で壁が見えないほどだった。私たちの展示場所は入口から離れた柱の脇で机を一つ置くと後ろには椅子二脚分しか残らない。
会館の入口では公爵様が待っていて運搬用の箱を二つ引き受けてくれた。約束どおり正面の広間を一緒に歩き、展示場所まで運んでもらう。マノンが見本布を並べる間に私は出品票を机へ掛けた。
「何時ごろまでいてくださいますか。もしお時間があれば終わってから結果を聞いていただきたいのですけれど」
「午後の用を済ませたら戻る。帰るときにはここへ寄るから見つけられなくても待っていてほしい。君に会わずに帰ることはしない」
彼を見送ると私は机の横に立った。ドレスそのものを着て展示するため客が前へ来るたびに正面と背中を見せる。仕立ての工夫を書いた紙も用意したが、初めの一時間は立ち止まる人さえまばらで、隣の店で注文の声が上がるたびに笑顔が固まりそうになった。
最初に足を止めたのは買い物かごを持った中年の女性だった。その服はお嬢さん自身のものかと聞かれ、自分のために縫ったのだと答える。彼女は買うつもりはないのだけれどと言いながら袖口を見せてほしいと頼み、指で縫い目を確かめた。
「私にも似たものを作れるのかしら。若い人の服は腰がきつそうだからいつもは見るだけなの。あなたのは動きやすそうだと思って」
「その方の寸法で作りますから大丈夫です。いつも何を着ているか伺ってから形も考えます。ただ今は友人の店で作業しているのでお待たせしてしまうかもしれません」
女性は住所を書いた紙を一枚持っていった。注文にはならなかったけれどそのやり取りを聞いていた人が机へ寄ってくる。昼前には見本布を触る人と制作費を尋ねる人が重なり、私はマノンへ助けを求めた。
リゼット様も侍女と友人を連れて来てくださった。私が直したドレスを友人に見せながらその場でくるりと回ると、隣の展示からも人がのぞく。彼女は私たちの説明が聞こえるように脇へ下がってくれたが、おかげで柱の脇を素通りする人は減った。
そのころにリディア様が足を止めた。彼女は私のドレスを上から下まで見て私が布を売るだけでなく仕立てまで引き受けると確かめた。答えると机に置かれた制作費の目安へ目を移し、思っていたより安いのねと言った。
「ただ、宮廷ではもっと華やかなものを好まれるわ。王妃様に見ていただくつもりなら、その布だけでは目に留まらないかもしれないわね」
私はつい襟元へ手をやりかけた。三日前に外したレースがあれば今より華やかだったはずだ。けれど後ろではマノンが次の客へ見本布を広げており、その人は自分の肩幅で作れるかと尋ねていた。
「はい。ほかにも美しいドレスがたくさんありますね。私はこの服を着て歩けたので今日はこれを見ていただこうと思っています」
リディア様は何か言いかけたが私の後ろを見て言葉を止めた。振り返ると三人の女性が順番を待っている。真ん中にいた銀髪の女性が出品票と私を見比べ、王妃付き衣装長のマルタ・ブランと名乗った。
「先ほどから見ていました。背中に留め具がないようだけれど、どこを開けて着るのかしら。展示できる見本があれば拝見したいわ」
マノンが昨日縫った見本を箱から出した。私は自分の襟元を示し、表の飾り布の下にボタンを隠してあることを説明する。ボタンの掛け外しができる見本を差し出すと衣装長は指先だけで順番に留めた。
次に腕を上げてほしいと言われ私は両腕を伸ばした。袖の下へ余裕を入れた部分が広がり、腕を下ろすとひだへ戻る。衣装長は肩の布が引きつれないことを確かめ同席の二人と出品票の材料を見比べた。
「ここまですそを広げているのに重くないのね。一番上の棚にある箱を取るつもりで手を伸ばしてみて。そう、そのまま横を向いていただけるかしら」
箱を取る動きなら店で毎日している。私は言われたとおりに動き最後にかがんで靴の留め具へ触れた。顔を上げると衣装長は笑っていたがすぐに連れの一人から紙を受け取り、今度は納期と人数の話を始めた。
王宮ではこの夏から新しく六人の女官を迎えるそうだ。正式な場に出られる美しさを保ちつつ長く着て働ける礼装を探しているという。私のドレスがその候補になり、明日の朝に王宮の衣装室で詳しい相談ができるかと尋ねられた。
「六着ですと私一人ではお約束できません。こちらのマノンと一緒にお受けする形になります。採寸の予定も含めて明日ご相談してからできる日をお返事してもよろしいでしょうか」
衣装長はそれでよいとうなずいた。別れ際には私の名前をもう一度確かめ、王宮へ招くための書面に自分で書き込んでくれた。私は衣装長の控えに連絡先を書き添えて筆を返し、時刻と場所の記された紙を受け取った。先ほどまで震えていなかったのに手に持つと紙の端が揺れた。
衣装長たちが去るとマノンに腕を引かれた。客が途切れるまで待ってから柱の陰へ入り二人で受け取った書面を読み直す。招待先が王宮であることも明日の朝であることも変わらず、マノンが明日は靴を磨かなきゃと言ったところで私はやっと笑えた。
会場が閉まるころには仕立ての相談が三件入り採寸の予約を受けていた。いずれも採寸を済ませてから正式に決まる仕事だったが、一件は朝の買い物かごの女性が戻ってきてくれたものだ。私は受注帳へ住所と希望を書き込み、頭を下げるたびにドレスを着てきてよかったと思った。
リディア様は帰る前にもう一度寄ってくださった。今度は連れを待たせたまま机の端へ手を置きしばらく見本だけを見ていた。私が会釈すると彼女は目を上げ、茶会の日と先日の発言は無礼だったと口にした。
「父があの縁談をまだ望んでいると知って、私まで期待していたの。あなたに当たることではなかったわ。お仕事のお邪魔をしてしまってごめんなさい」
私は返事に迷った。傷つかなかったとは言えないし、かといってこの場で何かを言い返したいわけでもなかった。少し間を置いてからお話しくださってありがとうございますと答えた。彼女はうなずき、友人たちが待つ出口へ歩いていった。
公爵様が戻ってきたのは最後の箱を閉めたときだった。私は立ち上がった拍子に受注帳を落とし、拾いながら明日の予定を話した。王宮で相談するだけでまだ正式な注文ではないと何度も付け加えたが彼は途中で私の荷物を置かせた。
「おめでとう。明日のことは明日確かめればいい。今は君が喜んでいる顔を見せてほしい」
ようやく正面から彼を見た。私は笑おうとしてうまくいかず口元を押さえたら目まで熱くなった。会場で泣くつもりはなかったのに彼が差し出したハンカチを受け取るとこらえられなくなった。
彼は私を抱き寄せずすぐ隣で箱を持ったまま待っていた。立派な礼服の袖に運搬箱の角が当たっているのが気になり私は涙を拭きながら持ち直してもらった。すると彼が笑い、私もつられて泣くのをやめられた。
帰りはマノンと一緒に彼の馬車に乗せてもらった。マノンが店の前で荷物を受け取り、私は着替えてからもう一度玄関へ出た。日が長くなっていて通りにはまだ明るさが残り彼は帰らずに街路樹の下で待っていた。
「明日の用意は済んだだろうか。もしまだなら私はここで帰る。君との約束を楽しみにしていたが初めての相談を寝不足で迎えてほしくはない」
「書類はマノンと後で確かめます。今は少し歩いていただけませんか。お返事を展示が終わるまで待っていただいたのでこれ以上待たせたくありません」
彼の隣へ立つと手が差し出された。私は腕につかまらずにその手を取りいつかのように手のひらを重ねた。彼は自分の指を絡める前にこちらを見たので私は離さないまま顔を上げた。
「私もあなたが好きです。身分のことも家のこともこれから相談しなければならないでしょうけれど、お会いできなくなる方が嫌なんです。私とお付き合いしていただけますか」
彼は返事をしてから私の名前を呼んだ。敬称のない呼び方が耳に残り、私も名前を呼んでいいか尋ねた。レオンと呼んでほしいと言われたので一度そう呼ぶと彼はつないだ手を自分の方へ引き寄せた。
「もう一度頼む。思っていたよりずっとうれしいものだった。君の声でそう呼ばれるのを待っていたらしい」
私は二度目を少し近くで言った。彼が身をかがめ、私は目を閉じる直前に通りを人が歩いていないか見てしまった。店の窓にはマノンの顔も見えた。唇が触れたときには目を閉じていたけれど後で笑われるのは覚悟した。
翌朝の王宮での相談にはマノンと二人で出向いた。採寸と仮縫いの日を調整し、領地から布を取り寄せる日数も確かめたうえで六着の仕事を正式に受けた。納期は二か月後で、その間に既存の注文も仕上げるため、店の営業時間までマノンと話し合うことになった。
父へは長い手紙を書いた。仕事を受けたこと、借りた店で縫うこと、公爵様とお付き合いを始めたことを順に書いたら紙が三枚になった。返事には身内でも布の代金はきちんと払うようにとあり、最後の一行にだけ公爵様へ挨拶に行く日を早めに知らせなさいと書かれていた。
仕事の合間にはレオンと二人で出掛けた。初めは王都の庭園へ行き、その次は私が行きたかった織物の市だった。市であまりに足を止めすぎて彼を待たせたので謝ると、今日は布の話を聞ける日だと思って来たのだと返された。
彼の好きなものも尋ねてみると答えるまで時間が掛かった。ようやく馬と読書、妹が焼く甘すぎる菓子が挙がる。次の週には馬房を案内してもらい、私が子馬に上着の袖をかまれている間、彼は声を立てて笑った。
受注から二か月後に六着を納品した。私の指は以前より固くなり、マノンの作業台にも新しい糸が増えた。代金を受け取ったら材料費とマノンへの報酬を払い、残りから父へ送る分を取り分けた。
断られた店へも布の見本を持ってもう一度訪ね、今度は衣装展で連絡先を交換した仕立屋にも足を運んだ。やがて父から布の追加注文を喜ぶ手紙が届いた。返済を済ませても今月は手元にお金が残ったと書かれていて、私は手紙を作業机の引き出しへしまった。
装い展から半年後にマノンと二人で新しい店を借りた。看板には二人の姓を並べた。王宮からは納品した礼装を評価されて次の注文が入り、衣装長の許しを得て看板へ王宮御用の文字を加えられることになった。内装にはお金を掛けられなかったが作業台は二つ置けたし父の領地の布を窓辺に並べる棚も作った。
父は開店の日に来てくれた。祝いの花を置く前に裏へ回り私の作った上着をもう一度見てほしいと言う。太ったわけではなく夕食の後だけ腹回りが苦しいのだと説明され、私は店の初日に父の採寸をやり直すことになった。
その日の閉店後に父とマノンを食堂へ送り出したところでレオンが店へ来た。二人が戻るまで待つつもりだと聞いていたのに、彼は私の手に触れたまま入口を動かなかった。何かあったのか尋ねると今日は私に先に話したいことがあるという。
「リネア、私と結婚してほしい。今までのように会う日を決めて帰るだけでは足りなくなった。朝も同じ家で君に会いたい」
差し出された指輪には水色の石がはまっていた。私はそれを見てから彼を見上げ返事をする前に泣かないよう唇を結んだ。半年も付き合ってきたのにこんなときにはまだ彼の顔をまっすぐ見続けられなかった。
「結婚しても店へ通いたいです。忙しい日には夕食に遅れるかもしれませんし家でも型紙を広げてしまうと思います。お客様のことを考えてあなたのお話を聞き逃してしまう日もあるかもしれません」
「私も書類を持ち帰る日がある。夕食に遅れるときは互いに知らせよう。だが寝る前には仕事を置いて顔を見て話したい。それでは駄目だろうか」
駄目なはずがなかった。私はお願いしますと答えて自分から彼の手を握った。レオンは私の返事を確かめてから指輪をはめ次に抱き寄せたときには私も彼の背へ腕を回していた。
父たちが戻ってきたとき私はまだ目元が赤かったらしい。父はレオンを見てから私を見て店の椅子へ腰を下ろした。レオンから求婚したいという手紙はもらっていたが、私の返事を待っていたのだと言う。途中で何度もせき払いをしながら私たちの婚約を認めてくれた。
それから次の春まで私の一日は前より長くなった。店では新しく雇った二人へ縫い方を教え、公爵邸では家政を預かる人たちに教わった。帳面の種類を間違えてレオンへ衣装の見積もりを見せた夜もあり、彼は見直しが必要な箇所を丁寧に指摘してから自分の書類を出してきた。
結婚式のドレスは自分で形を考えたが縫うのはマノンたちに頼んだ。直前まで一人で抱え込まないようにという約束を守るためでもある。それでも試着のたびに気になるところが増え、最後には私が手を出さないよう針箱を預かられてしまった。
当日は母の好きだった水色を腰のリボンに使った。控室で手袋をはめると父が私の手を取り、指輪が痛くないかと尋ねた。大丈夫だと答えたのにもう一度確かめるので私は笑って父の上着のボタンを直した。
扉の向こうでレオンが待っていた。手を差し出す仕草は初めて階段を下りた日と同じだったが、今日は私がその手を取る前に彼の方から名前を呼んだ。歩き出すと父が後ろで鼻をすすり、私は振り返らないよう前を向いた。
披露の席ではリゼットが何度も踊っていた。ベルネール夫人は腕を自由に動かせる上着を着て父と何やら話し込んでいる。マノンが料理の皿を持ったままこちらへ目配せしたので私は隣の夫へ顔を向けた。
「そろそろ踊っていただけますか。今日のドレスはすそを踏まない長さですし靴も開いていません。ずっとあなたと踊るのを楽しみにしていたんです」
レオンは椅子を引いて立ち上がった。私の腰へ手が回り、音楽に合わせて一歩を踏み出す。彼の顔を見ていたらいつの間にか歩幅を間違え、私は夫の足を踏んでしまった。
謝るより先に二人で笑った。レオンはつないだ手を持ち直し、もう一度初めからと私の耳元で言う。今度は彼の足元を一度だけ確かめてから私は顔を上げて次の拍子に足を出した。




