無常堂夜話12:後悔と遺恨の物語
狐憑きを調査することになった戻子と鏡子。憧れの助教・毛利瀬織と共に調査に向かうが、毛利助教が狐に憑かれてしまう。
そして起こる凄惨な事件。空や樟葉、周が事件に挑む。
起・空の緊急出動
それは、私にとっても、我が背である化野空どのにとっても、想定外の出来事でした。
その日も『無常堂』には誰一人お客も無く、ゆったりとした時間が流れ、店の外にはいつの間にか濃い闇が広がっていました。
「……もう7時ですね。店じまいしましょうか」
我が背がそう言って、レジが置いてある席を立ち、歪んだガラスがはまった木製の引き戸に歩いて行こうとした時、穏やかな空間を、けたたましい爆音がかき乱しました。
「……樟葉のオートバイの音だ。瀬緒里さん、すぐにお茶と、何か食べるものを準備してもらえますか?」
我が背がこちらを振り向いて、少し青い顔で言います。私も不吉なものを感じながらうなずくと、すぐさま冷蔵庫に入れていた煮物を取り出し、台所で温め直し始めました。
「……くっ。空さん、マズったわ」
玄関前にオートバイを停めた女性が、ひどく疲れた、それでも必死な顔でよろよろと入って来て、そう言うなり大きくよろけました。
「樟葉、しっかりするんだ」
我が背は、樟葉どのを危うく支えると、肩を貸しながら、
「歩けるかい? 状況を聞かせてくれる前に、何かお腹に入れよう」
そう言って、店の奥の8畳間に樟葉どのを連れてきました。
「お茶と羊羹です。ゆっくり召し上がってください。その間にご飯を温め直しますね。椎茸は苦手じゃなかったですよね?」
そう言いながら、卓袱台の上に小皿を並べる。樟葉どのはそれを見て、
「助かりました、川津媛様。失礼いたします」
少し元気が出たのか、言われたとおりお茶を喫しながら羊羹を平らげました。
30分ほど後、ご飯を食べ終えた樟葉どのは、かなり気力が回復したのか、目の光が戻って来ていました。
「……それで、どんな状況なんだい? きみが行って手を焼くとは、相当なことになっていそうだけれど」
我が背が訊くと、樟葉どのは青い顔でごくりとつばを飲み込み、豊かな栗色の髪を束ねている紅白の飾り紐に手をかけます。
「……百万語費やすより、これを見て貰えたら早いと思うわ」
そう言って樟葉どのが飾り紐をほどく、すると、
クウォーン……
どこか物悲しげな鳴き声とともに、白狐と黒狐が顕現します。私と我が背は、その2匹を見て息を飲み、しばらくは何も言えませんでした。
どちらも、身体中傷だらけなのです。特に白狐の方は、鮮血に染まって息も絶え絶えといった感じです。
「……これはひどい。すぐに手当てしましょう」
私はそう言うと、神力を少し開放する。水色の波動が2匹を包みます。
2匹は明らかにホッとした顔をして目を細め、私に向かってお辞儀をすると、その場に丸まって寝息を立てはじめました。よかった、なんとかこの2匹は消えずに済むでしょう。
「この2匹は、ぼくの父上がわざわざ稲荷神から引き取って来た神使だ。怪我をさせることも難しいはずだが……。樟葉、相手は何者だ?」
我が背の声が少し低くなっている。これは我が背が怒った時の癖なのです。
「……それが……」
樟葉どのは困ったように眼を逸らす。その行動だけで、我が背はある程度状況を把握したようです。
「分からない、そうだね? 相手を探るような暇がなかった……というべきかな?」
樟葉どのは、面目無げにうなずいて、顏を伏せたまま言いました。
「空さんの言うとおりよ。今、周が一条さんたちを守っているの。
でも彼一人じゃ到底歯が立たないわ。早く行ってください。お願いです」
我が背は、非難するような眼で私を見て、
「瀬緒里さん、ご心配は理解していますが、こういう状況です。行かせてください」
静かに、しかし不退転の決意を込めた声でそう言ってきました。
私は考えます。最初にこの話が持ち込まれたのは一昨日のこと。その時私は、我が背が出馬することを止めたのです。それは……、
「……我が背よ。この前も言いましたが、我ら地祇は天神と違い、力を及ぼせる範囲が決まっております。今度の現場は出羽の国、私の権能外の土地です。
私は、私が守れないところで我が背が怪異に向き合うことが心配でなりませんし、いざという時の助けが出せないことがもどかしいのです……」
そう言うと、我が背はふっと優しい吐息をもらし、
「……ですから、一昨日は瀬緒里さんの言うことを容れて、樟葉と周に行ってもらったじゃないですか? その二人が手に余るというなら、ぼくが行くしかないでしょう?」
諭すように言います。そう言われると、私も返す言葉はないのでした。
瀬緒里さんをやっと説得し、ぼくと樟葉は急いでY県T市を目指した。
北陸自動車道を走り、日本海の波しぶきが白く泡立つのを横目に見ながら、樟葉のオートバイに揺られること約7時間。さすがに腰も固まってきたころ、樟葉はT市市街地の南側にある神社の駐車場にバイクを停めた。
「かのお人を訪ねる前に、今までの状況を整理してくれないか?」
ぼくが言うと、樟葉はイタズラっぽい笑みを浮かべる。頬が赤い……たぶん『あの方法』を使う気なんだろう。
「分かったわ。恥ずかしいけど、許してね? アタシだって、けっこう恥ずかしいんだから」
樟葉は髪を結わえている赤白の飾り紐を解くと、右手に白紐、左手に赤紐の端っこを持つ。ぼくは反対側の端を握った。
「準備できた?……行くわね?」
樟葉の顔が近づいて来る。頬は赤いくせに、なぜか薄く笑っていた。
額が触れ合った瞬間、ぼくの頭の中に別の景色が流れ込んできた。
……場所は、この神社から30分ほど川をさかのぼった先だ。谷あいの狭い土地に、十数件の家が肩を並べるように立っている。そのさらに山の中腹に、それらとは比べ物にならないほど広くて立派な屋敷が、一軒だけぽつんと構えている。
(ここが、戻子さんたちが助けを待っている場所か)
そう思った瞬間、戻子さんたちの姿が目に浮かんできた。
………………
「梅ちゃん、今度は妙な条件なんて付いていないですよね?」
私の声が、思った以上に強張っている。
正月早々に犬神の調査に駆り出された時の悪夢が、どうしても頭をよぎる。
「せやで。正月早々、犬神の調査に行かされたときは大変やったんやで? あんな訳ありの対象なら、うちも戻子もノーサンキューや」
と、梅ちゃんに食ってかかりながらも、鏡子の声はいつもよりワントーン低い。
いつもの元気も鳴りを潜め、語尾がかすかに震えている。
そんな私たちを見た梅ちゃんは、軽いため息をついて静かに言う。
「あれは私もミスったわ。まさか派遣先の集落で殺人事件が起こるなんて想定外も想定外だったもの。怖い思いをさせたわね、そこは謝るわ」
そう(梅ちゃんにしては)しおらしく謝罪する。教官である梅ちゃんから謝られたら、それ以上は責める気にはなれない。
私たちの雰囲気を見て、梅ちゃんは自分の要件に話を戻した。
「でね、今度は『狐憑き』についてなの」
「「狐憑き?」」
私と鏡子がハモった。
……狐憑き。民俗学の授業で何度か耳にした言葉だけれど、実地調査となると話は別だ。
梅ちゃんは私たちの顔を交互に見てニコリとし、
「やっぱり今回の調査に派遣するのは、あなたたちを措いて他に人はいないわ。今の反応を見て確信した」
なんか勝手に決めているんですけど。流れが犬神調査のときとけっこう似ているから、胸のあたりにじわぁ~っと嫌な予感が広がるなぁ。
そんな私の気持ちと裏腹に、梅ちゃんは説明を続ける。
「今度の調査でのあなたたちの役割は、補助者兼共同調査者よ。
T大の研究生からうちに依頼があったの。狐憑きに詳しくて、現場で気が利き、発想が豊かな学生を貸してもらえないかって」
おや、今度はまともな条件だ。
いや、『処女で彼氏なし』という条件の方が、断然トンデモ非常識だったわけだけれど。
「えへへ~、うちら気が利くんかぁ~。そう言われると悪い気はせぇへんなぁ。
戻子、東北旅行のつもりで行ってみぃひん? うち牛タンが食べたいねん」
あ、鏡子がその気になってる。乗せられやすい鏡子のことだ、今の説明で前回の怖さなんて吹っ飛んだんだろう。
私は行くか行かないかで揺れていた。今の調子だと鏡子は話に乗るだろう。でも、経験上いやな予感しかしない私は、まだ迷っていた。
「あ、そうそう。今回派遣するチームのリーダーは、白鳥教授の秘蔵っ子、助教の毛利瀬織さんよ。彼女と一緒に調査できるなんて、こんなチャンス、二度とないかもね?」
へ!? その容姿と実績、そして性格から『ミス民俗学』『歩く民俗事典』『寡黙な一言主』って言われている、あの毛利助教!?……私のふんわりとした不安を覆い隠すには十分すぎるほどの『お膳立て』だった。
二日後の朝9時、私たちは大学の正門にやって来た。そこにはすでに二人の人物が待っており、何かを話している。
一人は、肩を少し超える程度の栗色の髪をした女性だ。遠目でも分かる、百合の花のように静かな気品が、彼女が毛利瀬織助教であることを教える。
「なぁ、戻子。毛利助教って、どことなくソラさんとこの瀬緒里さんに似てへん? 雰囲気とか」
あ、鏡子もそう思ったんだ。私も毛利助教の第一印象は『え、瀬緒里さん?』だった。これは名前の響きが同じだからだけではない。
「……そうだね」
私は深い同意を込めてそう答えた。
もう一人は、ピシッとしたスーツを着こなした、若い男性だった。明るいグレーのスーツと、深い瑠璃色のネクタイ。そして、どことなく人の好さそうな笑顔……。
「うわ、あの男の人、ソラさんに似てへん? この世には似た人間が3人居るっちゅうけど、瓜双子やん」
「鏡子、それを言うなら『瓜二つ』」
そう言いながら私は、ソラさん似の男性と瀬緒里さん似の助教を見て、なぜかこの後の調査についても安心してしまった。顔や雰囲気が似ていても、一人一人に違う縁がある……そのことを忘れてしまっていた。
「やあ、今度の調査ではお世話になるね。
僕はT大の院生で、松木平空也といいます。研究課題についてのレジュメは読んでいただけましたか?」
私たちの姿を見つけた松木平さんは、さわやかな笑顔で歩いてくる。うそ、名前も似てるし、声のトーンもソラさんに似ている。
「はい。人文学部人文学科1年の一条戻子です。よろしくお願いします」
「一条さんはね、平島准教授がお墨付きって言ってた子よ」
松木平さんの後ろを歩いて来た毛利助教が、そう私を紹介してくれる。なんかとってもこそばゆくて、背中がムズムズした。
「そうか、それじゃ活躍が期待できるね。
調査の詳細については、移動しながら説明させてもらうから、とりあえず自動車に乗ってください。毛利さん、行きましょうか」
こうして、私たちは不思議で悲惨な時を過ごすことになった。
「うわ、ホンマになぁーんもない所やな」
松木平さんの自動車に揺られること6時間、途中の休憩を入れて8時間。私たちが目的地である松木平さんの実家に着いたのは、もう辺りが夕闇の気配を感じさせる午後5時だった。
「こら鏡子、本当のことを言わない」
まったく鏡子ったら、そんなこと思ってても口にすべきじゃないのに。ここがド田舎だって言ってるみたいで、松木平さんに悪いじゃない。
……確かに、遠くに古びた社があるだけだけど。
「……戻子」
鏡子がジト目で私を見る。なに? その不満そうな顔はなにが言いたいの?
「……言うとくけどな。戻子は注意してるつもりでも、うちと同じこと言うてるんやで?」
「ほわ?」
私は、いまいち『分かっていない』顔をしていたんだろう。鏡子は大げさにため息をつきながら、『やれやれ』といった感じで、至極シツレイなことをのたまう。
「うちが悪かったねん。戻子は天然さんやったな」
「むぅ、私は天然じゃないもん。養殖ものでもないけど」
「なんの話しとんのや?」
話がカオスになろうとした時、松木平さんが眉尻の下がった笑顔で近づいて来る。
「なるほど、平島准教授が仰ったとおりのひとたちだね。貴家さん、一条さん、君たちの部屋は東の離れに準備しています。早く家に上がって夕飯までゆっくりするといい」
松木平さんの言葉を聞いて、鏡子が目を輝かせる。
「おおきに松木平はん。戻子、早う部屋行ってゲームしよ、ゲーム」
鏡子は荷物を抱えて玄関に走って行く。置いて行かれた私に、松木平さんがどことなくじっとりした優しい声で話しかけてきた。
「元気のいいお友達ですね。
ところでお願いですが、家の者が夕飯のお誘いに上がるまで、離れから出ないでおいていただけますか?」
それを聞いて、私の髪の毛が動いた。これは、理由を聞いちゃいけないやつなんじゃないかしら。これまで『沈黙は金』という経験をいやというほどしてきた私は、
「わ、ワカリマシタ」
疑問や不安を押し殺してそう答えた。松木平さんは私の声が上ずっているのに気付いたはずだが、ニコニコと笑って言った。
「……いい子です。では、お部屋にご案内しますね」
★ ★ ★ ★ ★
承・一日目の不穏
私は部屋に案内されると、浮かれている鏡子に、先ほどの松木平さんの意味深な言葉を伝えた。途端に鏡子は青ざめる。『ザザーッ』という音が聞こえた気がした。
「……そんなん、あのけったくそ悪い調査の時と同じやん! せや!」
鏡子は何かに思い当たったらしい。すぐに口をつぐみ、座卓の裏や押し入れの隅々、ハンガーや座布団と、部屋にある物すべてを検めだした。
(あ、なるほど。盗聴器や監視カメラを気にしているんだね……え? ちょっと待って。これ、黙ったままじゃマズイかも)
「鏡子、気にし過ぎだよ。盗聴器なんてないって」
そう言いながら、私も盗聴器を探すふりをして鏡子に近付く。
「こら戻子、しゃべったらあかんやん!」
鏡子が小声で、でも切羽詰まった顔でこちらを振り向いて言う。その目を私はじっと見つめ、一瞬微笑んでささやいた。
「監視カメラがあったら、黙っていたって筒抜けだよ。それより、念のためって感じで探そう。そしたら、盗聴器だけだったとしても怪しまれないし」
以心伝心の鏡子だ。すぐに私の意図を了解し、いつもの少し間抜けた声で答えた。
「せやかてな、前みたいに盗聴されとったら戻子だってイヤやろ? うちは余計な気を遣いとうないねんから、念のために探したってや」
「分かったよ。それで鏡子の気が済むなら付き合うよ」
そう言いながら、部屋中をはい回る私たちだった。
その頃、屋敷の奥では空也が、二人の人物と話……というより説得をしていた。
「だから、瀬織さんの何が気に入らないんですか? 彼女は教授たちをうならせる論文を何本も書いている、S大でも指折りの才媛ですよ。
それに、少し言葉足らずで不器用なところはありますが、心根はきれいで優しい女性です。僕が学会に出席して事故にあった時のことを覚えているでしょう? 父さんも母さんも、あの時は瀬織さんを褒めていたじゃないですか!?」
父も母も、そんな空也の言葉を無視して、彼の隣で小さくなっている瀬織をねめつけている。その冷やかな視線を、瀬織はまるで氷の刃のように感じていた。
空也の次の言葉を遮るように、瀬織を見下げるような態度で不意に母が言い放った。
「どんなに才媛でも、年上じゃあねぇ……失礼ですけど、お嬢さん、おいくつ?」
瀬織の膝の上に置かれた両手が、ぎゅっと握りしめられる。彼女は一段と深くうつむき、肩が細かく震えだした。
「母さん、年は関係ないだろ?」
空也が瀬織の背中に腕を回して言う。だが、母の口撃は止まらなかった。
「どんなに立派な論文をお書きになっても、4つも5つも年下の男を騙すなんて、お里が知れるわね」
「母さんっ!!」
空也がそう怒鳴って立ち上がろうとする。その腕を横から瀬織が強く引いた。
空也は唇を引き結んだまま瀬織を見る。彼女の涙は決壊寸前だった。
しかし、瀬織は緩く首を振ると、小さな声で、
「いいの、私が年上なのは事実だから。ご両親とこんなことでケンカしないで?」
そう言うと、右の目からつぅーっとしずくが流れた。
「行こう、瀬織さん!」
ギリギリと歯を噛み鳴らしていた空也は、そう言って瀬織の手を取り立ち上がる。その背中を、父の重い声が追いかけた。
「お前は松木平家の嫡男だ。それは忘れるな」
部屋に盗聴器などないことが分かった私たちは、ちょうど夕飯を知らせに来たお手伝いさんから食堂に案内してもらった。
「うわ……」「ちょ、見てこれ! 豪華豪ジャス金襴緞子やないかい!」
座敷の広さと、並べられた食事の豪華さに、私は語彙力を失い、鏡子はテンションを上げた。あ、ちなみに『豪華絢爛』だからね、鏡子。
「お二人はこちらにお座りください」
白髪の混じった上品な声で、女中頭の人が、私たちの席を手で指し示す。なんと、一番の上座ではないか!
「……えっと、そこは毛利助教のお席じゃないでしょうか?」
私が聞くと、女中頭さんが答えるより早く、部屋に入って来た恰幅のいいオジサマが仮面のような笑顔で言う。
「ああ、あのお嬢さんはお加減が悪いとかで、お休みになっています。後で消化のいいものでも届けさせましょう。
それよりお嬢さん方、今回は息子の研究のお手伝いをしていただき、ありがとうございます。
私は空也の父で、松木平秀方です。ささやかですが、明日からの活力のために遠慮なくお食べください」
「おおきに。そこは甘えさせていただくねんけど、松木平の兄ちゃんはどないしてん?
うちらだけで食べても、美味しさ半減やと思うんやけど? なぁ戻子?」
鏡子が挨拶もなしにそう言うと、秀方さんの顔が一瞬引きつり、私たちへの視線が一気にきつくなった。やめて、私も顔が引きつったじゃない。
「あ、あの、こんなに良くしていただいて、ありがとうございます。
私は松木平さんの研究のお手伝いをさせていただく、S大人文学部人文学科1年の一条戻子です」
「あ、せやった。挨拶をうっかりしてたわ。うちは戻子の親友で貴家鏡子言いますねん。よろしゅうお願いいたします」
私と鏡子が挨拶したので、秀方さんも先ほどの仮面のような顔に戻る。
その時、私の頭の中に樟葉さんの顔が浮かんだ。
『人前で、ほとんど表情を崩さない人って、傷つき易い傲慢さを持っていることが多いわ。
そんな人と関わり合いになったら、相手の大事にしている物をさりげなく褒めることね。
ついでに、ゆっくりと距離を取るの。でないと、その人のペースに巻き込まれて、無用ないざこざまで抱え込むことになりかねないわ』
(まだこの人のことをよく知らないけど、樟葉さんのアドバイスは忘れないようにしよう)
そして、毛利助教も空也さんも抜きの食事会が始まる。秀方さんは終始、私だけに声をかけて来た。ひょっとして私は、厄介な人に気に入られてしまったのだろうか?
「近くの川ではウナギがよく獲れましてね、この集落のちょっとした特産でもあるんですよ。ぜひ、お食べください」
「ハイ、アリガトウゴザイマス……ははっ」
にまにまとした笑顔、耳障りな猫なで声……正直、生理的に無理なレベルだったけれど、そこは私だって一般常識を持った女子大生だ。引きつった笑顔で当たり障りのない返事をするくらい……やっぱちょっとつらい。
私は、絡みつくような秀方さんの視線を感じながら、鏡子と一緒に料理を口に運ぶ。見た目の豪勢さとは裏腹に、砂を噛むような味気なさと、喉にざらつくような圧迫感が残る会食だった。
夕食会が終わり、私たちは宿泊場所に指定された東の離れに戻る。
部屋に入るなり、鏡子が豪勢な座卓に肘をつき、あごを手で支えながら言った。
「何やあのおっさん、戻子のことやらしい目で見てたな。あんなぬちゃぁっとした男が松木平はんの父ちゃんなんて信じられへんなぁ」
それを聞いて、私は背中に虫唾が走った。鏡子もそう見ていたのなら間違いはない。私はやっぱり、厄介な人物に目を付けられてしまったらしい。
「いやらしい目かどうかは知らないけど、あんなにじーっと見てられると気持ち悪かった。監視されてるみたいだったし……」
私がそこまで言った時、何かが廊下を慌ただしく走り回る気配がする。
ぎょっとして鏡子を見ると、彼女も鋭い目で障子の向こうを見つめている。
「……鏡子、何か感じる?」
鏡子はこう見えて法神流剣術道場の娘で、剣道6段だ。普段はおちゃらけていて、ちょっと頼りなく見えるが、小学生の時からずっと、物理的な危険から私を守ってくれている。
「……気のせいやったんかな」
鏡子がそうつぶやいて、警戒を解こうとした時、
「きゃーっ!」
「うわわーっ!」
敷地内に、何人もの悲鳴が響き渡った。私たちはビクッとして手を取り合う。
「鏡子」
「うん、何やろ?」
私たちは顔を見合わせ、そしてすぐさま部屋を飛び出して、離れから顔を出す。
慌ただしく人が騒いでいるのは母屋の方だ。悲鳴というか唸り声の中には、毛利助教らしき声も聞こえる。
「戻子、毛利助教に何かあったんとちゃうんか? おっさんも具合悪い言うとったし」
鏡子も早口でそう言う。
「そうだね。行ってみよう!」
私たちは獣のような声を聞きながら、母屋に向かって駆け出した。
部外者が顔を出していいものじゃないかもしれないし、初めて訪れたお宅を案内もなしに見て回るのは非常識でもある……それは分かっていた。
でも、自動車の中で、明日からの調査のことを楽しそうに話し合っていた毛利助教と松木平さんの二人とも、さっきの夕食会に顔を出していなかったことが、私に強い違和感と不安を覚えさせていたのだ。
(家の人に何か言われたら、それはその時考えよう。それより毛利助教が無事か確認しなくちゃ)
私たちは広い敷地を駈け抜け、騒ぎの声が聞こえる母屋の西側に直接向かった。
この行動は、後から思うと功を奏していた。というのは、秀方氏が南側の玄関に陣取り、誰も母屋に入れないようにしていたからだ。
母屋の北側の土手を駆け下りて西側に回り込んだ時、私は強い獣臭に気付いた。
そして、目の前の情景に固まった。
ふいに立ち止った私の横で、鏡子もショックを受けたようにぽかんとしてつぶやく。
「あれ、ホンマに毛利助教なん?……」
私たちのすぐ先、ほんの10メートルも離れていない座敷の中で、毛利助教は四つん這いになってうなり声を上げていた。
綺麗な栗色の髪は顔に乱れかかり、歯をむき出しにして、使用人さんたちを威嚇している。眉間や小鼻には何本もしわが寄っていた。あの上品さはみじんもなかった。
言葉を無くしていた私は、
(毛利助教を助けなきゃ……でも、どうやって?)
いろんな感情がぐるんぐるん回る頭で必死に考える。そして、はたと思い当たった。
私はスマホを取り出し、電話をかける。数回の呼び出しで、ホッとする落ち着いた女性の声が聞こえた。
『ありがとうございます。無常堂です』
毛利助教は、駆け付けた松木平さんが何とかなだめ、彼の部屋に連れて行かれた。
不思議だったのは、私たちが声をかけても、光のない目で睨みつけて唸るばかりだったのに、松木平さんの声が聞こえると途端に唸るのをやめ、その姿が見えると犬のように座って彼の顔をじっと見ていたことだ。
そう、まるで彼のことをご主人と慕っているように。
『今夜は、僕の部屋で毛利さんをお預かりしますね。見たところ、僕には何の危害も加えないようだから』
松木平さんは、毛利助教の髪をなでながら言う。毛利助教は目を細め、舌を出して松木平さんの胸に顔を押し付けるようにしている。
「わぁ……なんやご主人に会うてよろこんどるみたいやな」
鏡子が思わず言うと、松木平さんは愛情のこもった哀しい顔で、
「……そうかもしれません。瀬織さんと僕はお付き合いさせていただいていますから」
そう言うと、言葉の意味が分かるのか、毛利助教は松木平さんの胸に飛び込んで、顏をうずめる。
その様は、私たちには助教が『それ以上言わないで、恥ずかしいから』と言っているように思えた。
「ところで、そのぅ……」
私は、松木平さんに気になっていることを聞くことにした。今の様子を見て、松木平さんは私たちには何の害意もないと思ったからだ。
「……夕方、僕が『部屋から出ないでください』と言ったことだね?」
松木平さんは、静かな笑みを浮かべてそう言うと、
「あの時は、不穏な言い方をしてすまなかったね。ちゃんと理由を話せばよかった。
一条さんが何も聞かないので、瀬織さんから聞いているものだとばかり思っていたんだ」
そう言うと、いつの間にか寝息を立てている助教をお姫様抱っこして、
「……瀬織さんを寝かせてから、君たちの部屋に行くよ。少し待っていてくれないかな?」
ちょっと顔を赤くして言う松木平さんを、私は不謹慎にも『可愛い』と思ってしまった。
部屋に戻ると、例によって鏡子が話題を振って来る。
「戻子、あれが『狐憑き』なんやろか? うち初めて見たわ。戻子はどない?」
「私だって初めてだよ。なにその『戻子ならこんなこと慣れとるやろ?』みたいな聞き方?」
……まるで私が吸引力の変わらない『心霊現象吸引器』みたいじゃない。
私がちょっとすねたように言うと、鏡子はにまにましながら言う。
「せやかてさ、戻子はソラさんに気に入られとるんやし。ソラさんからあっちこっち連れ回されとんやないか思うてな?」
……鏡子の目が、逆さにしたスイカの切り身みたいになってる。これは絶対ろくでもない冗談を言う気だ。
「話聞いたら、樟葉さんはソラさんの彼女ちゃうんやってな? それやったらええやん。
6歳年上の彼氏くらいが、うすらぼーっとして天然な戻子にはぴったりやで」
……やっぱり。鏡子はそうやって私をいじって、ディスってればいいんだ。私ってかわいそう、ぐれてやる。
私は溜息をつきながら言う。
「はぁ……。鏡子は忘れてるでしょ?『無常堂』の瀬緒里さん。あの女性が彼女さんなんじゃないかしら? お似合いだし」
すると鏡子もうなずいて、
「ま、あんな美人さんといっつも一緒にいて、何もないっちゅうんやったら、それはそれで嘘くさいしな。うちが聞いた時も、瀬緒里さん上手いとこはぐらかしたしな」
そう言うのだった。
しかし、何時間経っても、松木平さんはやって来なかった。興味深い話が聞けるかも?とワクワクしていた鏡子は、1時間が経過した頃、
「なぁ、いくらなんでも遅すぎひん? もう11時やで。仮にやで、松木平はんが助教の相手しとったとしても、もう来てくれてもええんちゃうか?」
冗談めかして言う。
「そだね、助教がまた発作を起こしたんなら、騒ぎが聞こえそうなものだし。
松木平さんのことだから、こんな夜中に一人で、私たち女子大生二人がいる部屋に来ることを控えてくれたんじゃないかなぁ?」
私が言うと、鏡子はそれで納得したように、
「まぁ、逆にホイホイ来るような男なら、助教に似合わへんもんな。じゃ、戻子、夕飯前のゲームの続きしよ♪ 今度は負けへんで」
こうして、私と鏡子の1泊目は過ぎていった。
★ ★ ★ ★ ★
転・遺恨の果てに
2日目の朝、私と鏡子が息の詰まる朝食を終え、今日のフィールドワークですべきことを確認していると、松木平さんがやって来た。
「おはようございます。昨夜は約束していたのに、話に来られなくてすまなかったね」
そう言う松木平さんの服装は、白いワイシャツにジーンズと、昨日とは打って変わってラフな格好だった。
(……あれ? このコーディネート(?)、ソラさんに似ているなぁ。ここまで来ると、偶然ってレベルじゃないかも)
私がそう思ったのには訳がある。確かに『白ワイシャツ+ジーンズ』って、誰でも考える無難な選択だ。ましてや今日はフィールドワーク、フォーマルな服こそ場違いだ。
でも、ワイシャツやジーンズ、トレッキングシューズやダンプポーチまで、色やブランド、そしてサイズまでまるっきり一緒だった。
それに考えてみれば、昨日私が問いかけた疑問も、内容も聞かないで言い当てている。こんな『察しの良さ』までそっくりだなんて、もはや引くレベルだ。
私の心の中に、じわっと黒い雲が広がる。そんな私を見つめる松木平さんの目が、一瞬翠色に光ったように思えた。
「なぁなぁ松木平はん、毛利助教はどないしてん? 昨日の今日やからフィールドワークはよう出来ひんやろな。恋人の側にいてあげんとええんか?」
鏡子が心配半分、冷やかし半分で聞くと、松木平さんの顔が少し曇った。
「……君たちは瀬織さんの後輩だから、教えておいた方が良いかな。
実は瀬織さんの調子があんまり芳しくなくてね? 今朝がた病院に連れて行ったんだ。
そのまま入院ってことになったから、僕は集落の社だけ案内させてもらうよ。
それが済んだら、お見舞いに行ってくる」
……えっ、入院? 私と鏡子は何も言えずに互いに顔を見合わせる。
「それで、治りそうなん?」
鏡子が聞くと、松木平さんは静かに首を振って、
「医者も、確実なことは言えないそうだ。僕は医者と僕たちの縁を信じるしかない……。
すまない、こちらの事情を長々と語ってしまって。早く社に行こう」
松木平さんは、遠くを見る眼つきをして立ち上がった。
けれど、私の心にはどす黒い雲がだんだんと広がって行った。
名前以外、何もかもソラさんと同じ人から、いかにもソラさんが言いそうなセリフが出て、しかもそれが赤の他人? これが偶然なら、百ぺん生まれ変わって1度起こるか起こらないかの確率じゃないかしら? よく分かんないけど。
そう思いながら、私たちは松木平さんに案内されて、この里の社に行くのだった。
「この後の社は、江戸時代にこの辺りの集落が開墾された時に勧請されたものでね、御祭神は稲荷神だ。君たちも知ってのとおり、稲荷伸はもともと……」
松木平さんが御祭神のルーツから、社が建立された経緯までを丁寧に説明してくれている。鏡子は目を輝かせて食い入るようにそれをフィールドノートに書き留めているが、私はさっきから、何か視線を感じて落ち着かなかった。
「戻子、どないしてん? ボーっとしとるけど大丈夫か?
体調悪いんやったら、うちが祠や敷地の測量やっといたるけど?」
鏡子がそう言いながら近付いて来る。いつの間にか、松木平さんの姿が消えていた。
「あれ? 松木平さんは?」
私が訊くと、鏡子はいよいよ心配そうに私の額に手を当てて、
「ホンマに大丈夫か? 松木平はんやったら、さっき瀬織さんのところに行ったで。
戻子もちゃんと挨拶しとったやないか」
そう言う。いや、私にはその部分の記憶がない。
「うん、心配させたね? 大丈夫、ちょっと昨日の夜、ゲームに夢中になりすぎちゃったかな? あはは……」
「まあ、うちが何度も挑戦したんがいけんかったんかな。とりあえず社の写真撮ったら、いっぺん部屋戻ろうか」
そう言うと鏡子は手早く社の写真を数枚撮り、データを確認してにかっと笑って言った。
「うん、バッチリや。って、あれ? 戻子、あれって樟葉さんやない?」
目を丸くした鏡子が、私の肩越しに後ろを指さす。振り返ると、革のライダースーツにブーツを履いた女性が、うっすらとした笑みを浮かべながら歩いて来るところだった。
「お久しぶり、一条戻子さんと貴家鏡子さん。元気にしてた?」
樟葉さんは私たちを見てそう言った後、私に視線を向けて吸い込まれるような眼で、
「……戻子さんはちょっとアレみたいね? ちょっと待ってね?」
そう言うと、栗色の髪を束ねている紅白の飾り紐を解いた。
クウォーン……
澄んだ鳴き声が響き、樟葉さんの両側に白と黒の狐さんが姿を現す。白い狐さんは金の鈴が付いた赤い首輪を、黒い狐さんは銀の鈴が付いた白い首輪をしていた。
「……戻子から聞いていたけど、ホンマに狐さん連れとったんやな。
ねね、樟葉さん、今のどないな手品?」
鏡子が目をキラキラさせて聞くと、樟葉さんはウインクして、子どもっぽい表情で答えた。
「うふふ、ヒ・ミ・ツ。
戻子さん、ちょっと目を閉じてリラックスして。崑ちゃん、捲ちゃん、頼むわね?」
(いったい何をしてくれるんだろう。この狐さんたちは、犬神たちをやっつけるほど強い子たちだ。そんな子たちに『頼むわね』って、まさか私に何か憑いてる?)
私がそう思って身をすくませると、狐さんたちが両方の膝に頭を擦り付けるのを感じた。狐っていう割には、モフモフした感触だった。
すると、すっと身体が軽くなる。さっきまで心の中に渦巻いていた黒雲が晴れる。
それと同時に、私たちの周囲を巡るように風が吹き、ざわざわと木々の葉や草が揺れた。
「……ふーん、やっぱりね」
樟葉さんは何やら納得したようにつぶやくと、私たちに静かに、でも有無を言わさぬ声で言った。
「二人とも、急いで部屋に戻りなさい。そして、崑ちゃんが来るまでじっとして、決して外に出ないこと。いいわね?」
「え? でもうちら、調査があるねんけど……」
「何が起こっているのは後で話してあげるから。捲ちゃん、お願いね?」
樟葉さんの言葉で、黒い狐は離れの方に駆け出す。数歩走ったところで立ち止まり、私たちを振り向いて低くうなる。まるで、『早くついて来て』と言っているようだ。
私と鏡子は、わけも分からぬまま、捲ちゃんの後を追うのだった。
戻子たちと黒い狐が東側の離れに入ったのを確認した樟葉は、ゆっくりと周囲を見回す。その視線は、自分の周囲を吹く風を追っている。
ザワザワ……ザワザワ……
風は樟葉の周りを回っている。まるで樟葉が何者なのかを見極めようとしているようだった。何かの気配を感じた白い狐が、低くうなって毛を逆立てる。
「……大丈夫、落ち着いて。あれは悪いものじゃない。あなたと話がしたいみたいよ、崑崙比丘尼」
樟葉は身体を寄せて来た白い狐の背を撫でながら言う。白い狐は樟葉を見上げ、樟葉がにこっと笑うのを見て、ゆっくりと数歩前に出た。
クウィーン……
崑崙比丘尼が一声小さく鳴くと、周囲の風がピタリと止む。静寂の中、崑崙比丘尼は音もなく社へと真っ直ぐ歩いていく。
キキッ……
社の戸が小さく軋み、そこから白檀の香りがする風が吹いてきた。
「……通じたみたいね」
崑崙比丘尼は恐れる色もなく社に入って行く。その様子を樟葉は腕を組み、半眼になって見つめていた。
その頃、私たちは離れに戻り、樟葉さんが何をするのか、いったい何が起こっているのかを考えていた。お化けや幽霊の類が苦手な鏡子は、
「ああ、もう。梅ちゃんのせいでまた怖い思いせんとあかんやんか! 戻子ぉ、変なもんは夜しか出ぇへんよな。出ぇへん言うて?」
部屋の真ん中で、黒い狐さんにしがみついて震えている。
狐さんはそんな鏡子を嫌がりもせず、床に伏せて目を閉じている。ただ、耳がぴくぴく動いているから、寝ているわけではないらしい。
私はその様子を見て、
(狐さん、きっと周りの様子を窺っているんだ)
そう感じられて、何だか鏡子よりも頼もしく思えた。
「大丈夫だよ鏡子。鍵は全部閉めたから誰も入って来られないし」
樟葉さんが『じっとしていて、外に出るな』と言ったからには、何か得体の知れないものがいるに違いない……犬神事件で身に染みていた私は、ドアや窓のカギはしっかりと施錠していた。
「せやかてなぁ、幽霊とかお狐さんとか、壁通り抜けて来るんちゃうん?」
……うん、まぁそうなんだけどね。現に犬神事件で私が襲われた時、狐さんたちは障子や襖を通り抜けて行ったし。
でもそれを言ったら、鏡子がひきつけを起こしそうなんで黙っていてあげた。
私が鏡子を元気づけようとしたとき、突然玄関がガタガタと揺さぶられた。
「ひっ!?」「き……」
鏡子と私が思わず抱き合った時、あの気持ち悪い声が聞こえて来た。
「こんにちは、松木平秀方です。もうし、一条戻子さんはいらっしゃいませんか?」
戸口を揺らしていたのは、秀方さんだった。
その声を聞いて、ほっとしたのは鏡子だった。
「な、なんや。気色悪いおっさんやん。びっくりさせんといてや」
だけど、今度は私の方が機嫌が悪くなる。気分ではなく機嫌だ。むっつりと黙り込んだ私に、鏡子は気の毒そうな目を向けて、
「戻子って男運悪いんかな? 近寄って来る男ゆうたら、不思議な兄ちゃんとか、ストーカーとか、気持ち悪いおっさんやなんて。ホンマ同情するわ」
そう言う。まったくもってそのとおりだ。
でも鏡子、ソラさんを一緒の括りにしないでくれないかなぁ。
「もし、一条さん。折り入ってお聞きしたいことがございまして。いらっしゃらないんですか?」
外ではまだ秀方さんが戸口を叩いている。これ以上砂の混じったスライムのような猫なで声を聞きたくなかった私は、
「……しょうがないなぁ」
そう言って嫌々立ち上がる。
その時、さっきまで床に伏せていた黒狐さんがすっと立ち上がり、私の行く手を塞ぐように目の前に立つ。
「な、なに。どうしたの捲ちゃん?」
私が訊くと、捲ちゃんは顔を上げ、わたしの目をじっと見つめて来た。深い海を映したような瞳だ。
捲ちゃんは私を見つめた後、ゆっくりと首を横に振る。まるで『出ちゃダメですよ』と言っているようだった。
突然、捲ちゃんは耳をぴくっと動かし、鋭い視線を戸口に送る。その瞬間だった。
「わっ、何です!? うぐっ!」
秀方さんの慌てたような声が聞こえ、それと共に
ブジュッ、グチョッ、ブジュッ……
何かを引きずり出すような鈍い音が響く。
戸口の摺りガラス越しに、秀方さんが見えない何かを追い払おうと手を振り回し、身をよじるのが見える。
そして、
バシュッ!
戸口に、真っ赤な花が咲いた。
そして、音もなく人影は地面に崩れ落ちた。
それからは大騒ぎになった。
というのも、離れの玄関で秀方さんが襲われていた同じ時刻に、母屋の寝間で奥様が無残な姿になっているのが発見されたのだ。
昼の料理について指示を受けに行った使用人は、寝間から、
「あれっ!」
という奥様の声を聞き、びっくりして立ち止まった。
しかし続いて聞こえて来た
「あっ……やめっ!」
という叫び声や、肉をまな板に叩きつけるような音を聞き、さらに襖が弾き飛ばされるのを見て、
「どうされましたか!?」
大声を上げながら寝間に駆け付けたそうだ。
そして、部屋中に鮮血が飛び散る凄惨な光景の中、奥様が仰向けに倒れていたそうだ。
しかも、問題はそれだけではなかった。
屋敷の者は、慌てて警察や救急に連絡を入れたのだが、いつまで経ってもやって来ない。
業を煮やした使用人が、自ら麓の駐在所へ出かけて行ったところ、その村でも同じような事件があっちこっちで起こっていることを知ったそうだ。
「これは、外出中の坊ちゃまに、至急お戻りいただかないと」
困り果てた使用人たちが、額を集めて相談していた時、瀬織さんをお見舞いに行っていた松木平さんが戻って来たのだった。
松木平さんは、すぐさま現場を見て、自身で警察署長に直接電話し、事情を説明した。
その際、麓の村にも死傷者が多数出ていることも伝えたらしい。30分もする頃には、何台ものパトカーや救急車のサイレンが聞こえて来た。
警察による現場検証が終わった後、私たちは母屋で、松木平さんの話を聞いていた。
「君たちには迷惑と心配をかけましたね。こんな事件が起こって非常に残念です。
僕もこれから、両親の葬式やら、相続の手続きやらで忙しくなるでしょう。
調査協力依頼をした側としては非常に不本意ですが、今回の調査は打ち切りにしたいと思うんです」
頬がこけた顔で、首を振りながら言う松木平さんを見て、鏡子は眉を寄せて、
「……それはしゃあないと思うねん。けど、松木平はんも、こんな気味悪い事件現場から避難したがええで? 瀬織さんの側にいてやった方がええんちゃうん?」
ちょっと震え声で言う。
確かに、遺体や現場の状況も不可解で、犯人の目星すら付いていない。まだ正体不明で凶悪なモノがいるかもしれない所、私もいる気にはならない。
私も避難を勧めようと口を開いたが、
「お狐様を呪法で手懐けて、秀方さんや奥様を亡き者にしたから、安心して瀬織さんと結婚できるってことですね?」
なんか、思ってもいない言葉が口を衝いて出た。
……部屋の空気が凍った。
松木平さんは、一瞬驚愕の表情を浮かべ、続いて無表情になり、そして張り付いた笑顔をして言った。
「……は、はは……。さすがは白鳥教授が推薦されるだけあって、発想が奇抜だね。
落ち着いたら調査を再開するつもりだから、その時また来てくれると嬉しいよ」
私の喉に絡みつくような、ねっとりした視線だった。
「あは、あはは~。戻子は天然やから、たまーにこういうシツレイなこと言うねん。
昨日の夜やったゲームのこと考えとんのやと思うで。
松木平はん、えろうすんまへん。うちが代わりに謝るねんから、気にせんといてや」
鏡子は汗びっしょりになって言い訳を並べ、私の手を取って転がるように離れへと連れ帰ってくれた。
「戻子、いったいどういうつもりやねん!?
あの発言、松木平はんに『あんたが両親を殺したんやろ?』て言うてんのと同じやで?
どないな発想したら、そないな考えが浮かぶねん」
離れに帰ったら、鏡子が早速、私に詰め寄って来た。
「いや、どないな発想って言われても。私だってあんなこと言うとは思わなかったんだし」
私が心底困ったような顔で言うと、鏡子は急に怒気を収め、
「……戻子は鈍感やし天然やけど、たまーに変な方向で鋭いとこあんねんから、さっきの言葉、まったくのでたらめちゃうって思えて来たで」
そう言って考え込む。私が自分の考えを言ったわけじゃないって信じてくれたのはいいけど、鈍感とか天然とかは言い過ぎだと思うなぁ。
私はちょっと傷つき、そう思った時、
「いえ、一条さんの言ったこと、ほぼそれで間違いないと思うわ」
そう言いながら、樟葉さんが伏周さんを連れて奥の部屋から現れた。
「ふえっ! 樟葉さんいったいどこから現れとんのや?」
鏡子がお目目を丸くして聞くと、樟葉さんはくすくす笑い、
「ごめんなさいね? でも、アタシが調べたことと周が調べて来たことを突き合せたら、結構な大事が起きているって分かったの。
だから、一条さんたちに一刻も早くこの里から離れるよう忠告するために、ここで待ってたのよ」
そう言って、周さんを見る。周さんは黒曜石のような瞳を私に当て、一つため息をついてから話し出した。
「お嬢さんの巻き込まれ体質はどうにかした方が良いな。
それはそれとして、この土地の氏神でもある稲荷神から、眷属の狐たちを奪った者がいる。
そいつは、この敷地に結界を張り、社は封印していたんだが、なぜかそれがどちらも解けてしまっている」
そう言うと、凄い目で樟葉さんを一瞥する。樟葉さんは明後日の方を向いて目をしばたたかせた。周さんは小さく舌打ちして続ける。
「だから、狐たちは稲荷神の統制から離れ、しかも使役している人間の欲望の影響を受けて凶暴化しているんだ。
恐らく使役している奴も、氏神に眷属を返せなくて手を焼いているんじゃないかな」
周さんがそこまで話した時、
「……お二方とも、随分とお詳しいんですね?」
そう言いながら松木平さんが部屋に入って来た。青白い顔に光が消えて据わった目が不気味に沈んでいる。ソラさんに似たあの松木平さんではなかった。
彼は私を見て、ぬらりとした顔で言う。
「こんな方たちがお知り合いにいるなんて知っていたら、君たちをここには連れて来なかったなぁ……」
低く地を這うような声……背筋が凍るような声も、ソラさんとは大違いだった。
松木平さんの異様な雰囲気を見て、周さんがバンダナを解き、私たちを後ろ手にかばいながら樟葉さんに叫んだ。
「樟葉、空さんを呼んで来てくれ! あの数の霊狐は俺たちじゃ手に余る」
それを聞いて、樟葉さんは
「分かったわ」
即決で窓をぶち破って外に出て駈け出した。
「……知りすぎた方々を生かしてはおきませんよ?」
松木平さんはそうつぶやくと、なにやら呪文みたいなものを唱える。すると、
「きゃああっ!」
樟葉さんの叫び声と、狐さんたちの苦しそうな鳴き声が聞こえた。
「二人とも、こっちだ!」
松木平さんが呪文を唱える隙を突いて、周さんは私たちを外に連れ出した。
「樟葉さん、大丈夫ですか?」
私の声は上ずっている。あんな苦しそうな樟葉さんの声、初めて聞いたので動転していたに違いない。
だが周さんは落ち着いた声で、
「樟葉があれしきのことでやられるわけがない。それより社に急ごう。あそこなら狐たちは手を出せない。樟葉のポカが功を奏したな」
それから私たちは、周さんの狗神に守られながら、無事に社へと到着した。
「狐は狗神と相性が悪い。おまけにこの社は稲荷神が鎮座されている場所だ。 よほど神格が違わない限り、樟葉が空さんを連れて来るまで粘れるさ」
私たちは社の陰に隠れながら、その言葉を信じるしかなかった。
★★ ★ ★ ★ ★
結・後悔と遺恨の物語
(……そういうことか)
樟葉の想念から流れ込んできた情景で、ぼくはこの事件の本質を見たと思った。
「で、空さん。これからどうすればいい?ってか早く目を開けてよ。じゃないと空さんの方にアタシが引き込まれちゃうじゃない」
その言葉にぼくは慌てて目を開ける。すると、当たり前だが樟葉の顔が目の前にあったので、さらにぼくは慌てた。
「もう、この術使うのいったい何度目? いい加減慣れてくれないと、使うたびに空さんのテレ顔見せられるアタシの身にもなってよ」
ぶつくさ言う割には嬉しそうな顔をする樟葉は、オートバイにまたがると、僕に再び聞いた。
「早く後ろに乗って! で、どうするの?」
「現地にいちばん近くて、御祭神がおられる稲荷社に知り合いはいるか? いなければ、神主不在の稲荷社でもいいが」
「アタシが寝泊まりしていた稲荷社があるわ。御祭神には、こっちに来るとき空さんのことも話しておいた。快く承諾してくださったわ」
ぼくは樟葉からその話を聞くと、神鏡を懐から取り出して樟葉に渡し、
「その場所を念じてエンジンをかけてくれ。ぼくの合図で、ゆっくり出発するんだ。
決して急発進はするな」
そう言うと、樟葉は神鏡を胸ポケットに入れ、
「分かったわ空さん。念のため、アタシにしっかりつかまっていて」
という答えとともに、ゆっくりとクラッチをつないだ。
すると、周囲の風景がゆっくりと後ろに流れ、一瞬の後、僕たちはひやりとした空気が張りつめる参道の前にいた。
「……空さん、エンジン切っていい?」
「そのまま少し待っていてくれ」
樟葉の問いにそう答え、ぼくはゆっくりとオートバイの後部座席を降りる。そして眼の前にそそり立つ鳥居の笠木を見上げた。
神主などはいないようだが、山の中にしてはかなり立派な神社だ。ぼくはうなずくと、鳥居のこちら側から声をかけた。
「夜分にお騒がせいたしています。ぼくの名は化野空、願わくばこの社の御祭神をお教えただければ幸いです」
すると、闇の中にぼうっと赤く淡い光が点り、そこから鋭い目をした女性が姿を現す。女性ながらも狩衣と袴姿で、頭には折れ烏帽子をかぶっている。さらりとした長く緋色の髪が印象的だ。
「あなたが月宮の坊ですか。わたくしは貴狐天王からこの社をお預かりしている者です。
貴狐天王様からは天蓬弩瑠牙元帥の名を頂戴していますが、天野妃弥利と呼んでいただきましょうか」
天蓬弩瑠牙元帥こと妃弥利さんがそう言って微笑む。ぼくもつられて微笑んだ。
「そこの術者の話では、わたくしに用があるらしいですね? 神域で騒がぬ心遣い、ちゃんと受け取りましたよ? お話は社殿で聞きましょう」
「ちくしょう、これじゃキリがねぇ……」
俺(周)は、相棒の狗神であるスケキヨたちが、舌を垂らして早く浅く呼吸するのを見て眉を寄せる。
空さんを呼ぶために樟葉を分離して丸一日、その間に霊狐たちは何度も結界を破ろうと攻撃を仕掛けて来た。
社の稲荷神は、もともと自身の眷属だった霊狐たちの、裏切りにも似た行動に怒りを爆発させたのか、旋風を使ってスケキヨたちの行動を援護してくれている。
しかし、いかに神の加護があるとは言っても、これだけ長い間戦いが続けば、疲れは溜まって来る。俺自身がふらつき始めているんだ。狗神たちもかなりの霊力を使ったはずだ。
(樟葉だったら、今頃は空さんを連れてきているはずだ。まさか、最初の一撃でやられちまったんじゃないだろうな)
ふと浮かぶ悪い考えを、俺は頭を振って振り払う。だとしたら、代わりの手段を取ればいいだけだ。
「スケトモ、動けるか?」
俺が訊くと、スケトモはハッハッと荒い呼吸をしながらも、闘志を失っていない青い瞳を俺に向ける。
「お前に、空さんを呼んできてほしい」
俺が言うと、スケトモはピクリと一瞬呼吸を止め、スケキヨとスケタケを見る。ここまでの苦戦を経験して、仲間の2匹の消耗を肌で感じているからだろう、明らかにスケトモは2匹を気にしている。
「な、なんや!? なんで日食なんや!?」
貴家さんの震える叫びが聞こえる。急速に夜の闇がやって来たのは、あの松木平ってやつが業を煮やしたに違いない。
俺たちが立てこもる社の結界を囲んで、びっしりと血のように赤い鬼火が不規則に揺れている。それは百を超える霊狐たちの怪しく輝く眼の光だった。どうやら一気に勝負をつけるつもりらしい。
俺は左手にバンダナを結び直すと、3匹に命令する。
「スケトモ、さっきの命令は取り消しだ。包囲を破ったら、お嬢さんたちを守って麓の神社に駆け込め」
スケトモは青い目を輝かせて尻尾を振る。
「スケキヨ、お前はここを守れ。いよいよとなったらスケトモを指揮してお嬢さんたちを無事に逃がすんだ」
『クゥン』
スケキヨが短く鳴いて、俺を翠色の瞳で見つめる。俺はニヤリと笑って言った。
「大丈夫だ。俺は空さんに恩を返すまでは死ねねぇ。
……スケタケは俺と一緒に突っ込むぜ。俺から離れるな」
『ワオン!』
3匹の中で最もケンカ慣れして血の気が多いスケタケは、緋色の瞳を輝かせて吠える。
俺は結界の外を睨みつけ、突撃の機会を窺い始めた。
うつらうつらしている私(戻子)の耳に、鏡子が必死に訴える声が聞こえる。
なぜか、この社の鳥居をくぐった瞬間から、私は無性に眠くなってきていた。身体もふわふわしている。
「ちょい待ちぃ! 周さん、あんたうちらを置き去りにするつもりやないやろな!?
冗談はよしこさんやで! 戻子が意識のうなっとるのに、うちだけでどないせえっちゅうんや!?」
震える声で訴えている。
「置き去りじゃない。スケキヨとスケトモが君たちを守る。
俺たちで包囲を破るから、君たちはスケキヨに従って逃げるんだ。
一条さんはスケキヨの背中に乗せればいい」
そう言って今にも灰色の犬に命令を出そうとしたとき、私の口からまたも、思ってもいない言葉が飛び出した。
『正気を無くしているとは言っても、あのものたちはわらわの可愛い眷属。むやみに傷つけることは許しませぬ。
月宮の坊は、すぐそこまでおいでになっています。心静かに待ちたまえ』
そう言うと、私は深い眠りに落ちた。
……これから先は、空さんが来るまでの間に、目を覚ました私に周さんが教えてくれたことだ。
…………
「戻子!? 今のは何や!?」
鏡子が私の身体を揺すぶって訊くが、私はすやすやと寝息を立てるだけで目覚める気配もない。
「周さん。戻子が、戻子が取り憑かれた。何とかしてぇな」
涙ぐんでそう言う鏡子をスルーして、周さんは私の顔をじっと見ていたが、
『クン!』
スケキヨちゃんの安堵のこもった鳴き声でハッと顔を上げ、社の屋根を見つめながら、ごくっとつばを飲み込んで言った。
「……心配ない。一条さんが伝えてくれたのは、この社の祭神様のお言葉だ。
空さんはちゃんと手を打っていてくれたみたいだ」
周さんがそう言いながら社の屋根の上を指さす。その指差す先を見上げた鏡子は、
「ふぇっ!?」
思わず情けない声を上げた。
そこには、馬ほどの大きさがある真っ赤な狐が、金色の瞳を光らせて周囲の霊狐の群れを鋭い視線で見まわしていたのだ。
グオオーンッ!
不意に、深紅の神狐は天に向かって、オオカミの遠吠えのような鳴き声を上げる。
そのすさまじさは、暗闇に近かった周囲を一瞬で元に戻し、鬼火のようだった霊狐たちがその場に座り込むほどだった。
スケキヨちゃんたちも、思わず周さんの後ろに隠れたほどだ。
神狐は、霊狐たちがおとなしくなったのを見て、満足そうにうなずくと、狩衣と袴で折れ烏帽子姿の女性に姿を変えた。
そして、低いがよく通る、澄み切った声で宣言した。
『わらわは貴狐天王の神使、天蓬弩瑠牙元帥。貴狐天王の名において霊狐の長として汝らに命ず。
速やかに包囲を解いて元の主のもとに戻り、その裁定を待て。さもなくば……』
元の深紅の神使に戻り、
ボウンッ!
と紅蓮の炎でその身を包む。
百を超える霊狐たちは、その姿を見て一斉に下を向き、耳を垂らす。そして1匹、1匹と消えていった。
気が付いた時には、私は『無常堂』の奥の間に寝かされていた。
ぱちりと目を開けた時、何かがふわっと頭の中から抜けていく感じがしたが、浮遊感も消え、すっきりとしていた。
(……疲れと安心でぐっすり寝ちゃったみたい。鏡子も無事だったみたいだし……)
私は、枕もとで船をこいでいる鏡子を見て、ちょっと心が温まる。怪奇現象が苦手なくせに、今回も最後まで付き合ってくれたんだなぁと思うと、やはり鏡子は大親友だと再認識する。
私が鏡子の顔を見て微笑んでいると、鏡子の身体がぐらりと揺れ、
「んあ!?」
びっくりして目が覚める。
「なんや、いつの間にか寝落ちしとったんか……。あ、戻子、起きたんやな」
私と目が合って、にっこりと笑い、
「うちすごいもん見たで! 後で話したるな!」
そう、目をキラキラさせて言う。声が大きいし、子どもみたいな表情になっているから、よっぽどすごいものだったんだろう。あ、私の言い方も小並感だ。
「周さんや葛葉さんは?」
私が訊くと、不意にふすまがゆっくりと開けられ、
「その点は、我が背が説明するということです。戻子さん、起きられますか?」
瀬緒里さんが静かな微笑と共に言う。
「あ、はい」「大丈夫か戻子。うちが支えたろうか?」
私はちょっと恥ずかしかったが、鏡子に支えられて客間に移動した。
空さんは、そんな私たちを優しい目で見守っていた。うん、これこそ本物の空さんだ。
「君たちも不本意に巻き込まれた側だ。今度の件の流れは知る権利があると思ってね?」
空さんはそう言って、今回の事件のことを説明してくれた。
事件の流れは、驚いたことに秀方さんの前で私が口走ったことでほぼ正解だった。
ただ違っていたのは、最初に稲荷神の眷属を手懐けたのは奥様の方で、松木平さんと毛利助教の仲を裂くために狐を憑かせたことだった。
「そのお狐様が、お見舞いに来た松木平はんに乗り換えて、秀方さんや奥様を襲うなんて」
「これが『インガオホー』ってやつなんやろな」
鏡子が腕を組んで言う。うん、『因果応報』だからね?
「あの社は、代々、松木平家当主の正妻が管理していたものだ。だから眷属も手懐けやすかったんだろう」
ソラさんが言う。どうやら松木平さんも毛利助教も、この件で警察のお世話になることはないようだ。
だが、私の中にはまだ2点、釈然としないことが残っていた。
「奥様は、なぜそこまでして毛利助教との結婚を反対されたんでしょう?」
私が訊くと、ソラさんは首をかしげて、
「さて? それは当主夫妻にしか分からないことだね?」
そう答える。それはそうだよね……私は納得して次の質問をぶつけた。
「松木平さんと毛利助教、気持ち悪いくらいソラさんと瀬緒里さんに似ていたんですが?」
その答えには、ソラさんはニコニコして答えた。
「この世には自分に似た人間が三人いるって言うしね。他人の空似じゃないかな。『ソラ』だけにね?」
「誰が上手いこと言えゆうたねん!」
鏡子がそう突っ込んで、その場は笑いに包まれた。
でも、やはり私には、その説明ではイマイチすとんと納得できなかった。
戻子たちが帰った後、瀬緒里は空にお茶を注ぎながら、くすくす笑って言った。
「我が背もひとが悪いですね? 戻子さんたちに本当のことを教えて差し上げないなんて」
空は、静かに湯呑を持ち上げながら言う。
「伝えておくべきことと、伝えない方が良いことがあるんですよ。
松木平家がある場所、昔は会津藩領でした。
そして戊辰戦争の時、あの一帯で官軍との戦いが起こっています」
そこで空はお茶を一口含み、
「どれだけ社の管理を代々行ってきたからと言って、ただの女性が祭神様から眷属を奪うことなどできません。
それが出来たのは、打ち捨てられた官軍の戦死者の霊が、実家が萩市にある毛利助教を毛嫌いする当主の妻に腹を立てたからですよ。
奥様は毛利助教を狐憑きにできたと喜んだでしょうが、その狐が死霊と融合して息子に取り憑き、自分や当主を狙うとは思いもしなかったでしょうね」
そう言うと目を閉じる。
「……我が背よ、私が聞きたいのはそのことではありません。松木平さんは我が背と関係があるのかということです。
確かに戻子さんが仰るとおり、彼は我が背に似すぎていますし、瀬織どのも私に似すぎています。
まさかとは思いますが……」
瀬緒里の言葉に、空は懐かしそうな眼をして虚空を見つめ、薄く笑ってうなずいた。
「……ええ、二人はぼくたちの縁をなぞっています。5百年ほど前の……」
それを聞くと、瀬緒里は哀しそうに首を振って言った。
「……そうですか。私と我が背の2度目の結縁を……」
「ぼくはもう、詳細を想い出せませんが、悔いだけは残したくありませんね」
そう言う空に、瀬緒里は優しくもたれかかってささやいた。
「はい、私もです。約束しましたよね?“悔いなき時を生きる誓約を”と」
【無常堂夜話:後悔と遺恨の物語 終わり】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
空の周囲の人物との関係が少しずつ明らかになって来ていますね。
今回は『なぞる縁』の話が出て来ましたが、瀬緒里と空の縁についても、追々書いて行こうと思っています。
では、またいつか。




