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『のり子と真夜中の全開宇宙(フルスロットル)』

掲載日:2026/05/10


 五月七日の深夜。夜の冷気が、ひんやりとした風に乗ってベランダまで忍び寄っていました。みずがめ座エータ流星群が最も見頃を迎えるこの夜、のり子は、お父さんの隣で厚手の毛布にくるまりながら、深く澄み渡った夜空を見上げていました。


「ねえ、お父さん。どうして今夜はこんなにたくさん流れ星が見えるの?」

 お父さんは望遠鏡の横で腰を下ろし、静かに空の一点を指差しました。

「それはね、のり子。今、地球が『ハレー彗星の通り道』をちょうど通り抜けているところなんだ。五月のこの時期、特に七日のあたりは、その通り道の一番濃いところを地球が通るから、たくさんの光が見えるんだよ」

「ハレー彗星……。あの、何十年かに一度しか来ないっていう、あの有名な彗星?」

「そうだよ。ハレー彗星が遠い昔に駆け抜けていった時に、宇宙に置いていったちいさな砂や石のつぶ……言わば、彗星の落としものだね。その通り道を今、僕たちが乗っている地球が横切っている。それが『みずがめ座エータ流星群』の正体なんだ」

 のり子は目を丸くしました。自分が今立っているこの地球が、何年も前に宇宙を旅した彗星の足跡を正確に辿っているのだと思うと、なんだか不思議な鼓動を感じたのです。

「あ、流れた!」

 のり子が声を上げるよりも早く、鋭い光の筋が夜空を切り裂きました。それは他の流星よりもずっと速く、そして長い、白く輝く尾を引いていました。

「速いね……! 今の、すごく長かったよ」

「そうだね。この流星群は速度がとても速いのが特徴なんだ。時速にすると約二十四万キロメートル。だからあんな風に、はっきりとした長い尾が見えるんだよ」

「ねえ、お父さん。地球も太陽も、ずっと動いているのでしょう? それなのに、どうして彗星の落としものは、ずっと同じ場所にあるの? どこかに置いてけぼりになっちゃわないのかな」

 お父さんは嬉しそうに頷いて、のり子の肩を優しく叩きました。

「いいところに気づいたね。実はね、その彗星が残した塵の帯……『ダストトレイル』も、僕たちと一緒に旅をしているんだよ」

「一緒に?」

「そう。地球も太陽系も、そしてこの銀河も、宇宙の中を想像もつかない速さで動いている。でも、ハレー彗星が残した塵たちも、太陽の引力にしっかりと結びつけられて、太陽系という一つのチームとして一緒に銀河を駆け抜けているんだ。だから、何十年経っても、地球は毎年こうして決まった季節に、その通り道へと帰ってくることができるんだよ」

 お父さんは少し声を落として、夜空の深淵を見つめるように続けました。

「重力っていうのはね、実は宇宙にある力の中で一番弱いと言われているんだ。小さな磁石が鉄の針を持ち上げる力よりもずっと弱い。けれどね、重力だけは、宇宙のどこまででも届く力なんだよ。どんなに遠く離れていても、ゼロになることはない。光が届くよりも遠い場所まで、ずっとずっと伸びて、お互いを引き寄せ合っているんだ」


 お父さんの言葉を聞きながら、のり子は自分の胸のあたりに、透明でとても長い「板」があるのをイメージしました。それは、彼女の心からまっすぐに伸びて、宇宙の果て、あの彗星のかけらたちが漂う場所にまで届く板です。

 のり子は、自分の手元にあるその板の端を、両手でしっかりと押さえつけました。宇宙の果てまで届くほど長い板なのです。全身でぐっと下に押し込むようにして、傾けるそぶりをしました。

「……なんだか、不思議だね。ものすごく小さな引っ張る力でも、宇宙のどこまでも届いて、ちゃんとついてきてくれるんだね。お父さん、もしも今、こうして私の方に、ほんの少しだけ重力の傾きを加えることができたら、あのかけらも私の元まで飛んできてくれるかもね」

 のり子は、板を傾けて星のかけらをこちらへ呼ぼうとする、その「心の重力」を両手に込めました。

 お父さんは優しく目を細めて笑いました。

「ははは、本当にそうだね。それだけの力でのり子が重力を傾けたら、星のかけらも気づいて挨拶に来てくれるかもしれない。本当にそうなったら重いから、手のひらでしっかり受け止める準備をしておかないといけないな」



 その夜、のり子は布団に入っても、まぶたの裏に焼き付いた白く長い光の尾を思い出していました。

 いつのまにか微睡みに落ちていたのり子は、ふと、部屋の空気が妙に明るいことに気づきました。

 カーテンの隙間から、青白い光が溢れ出し、彼女の体ごと包み込むように、パッ、パッ、と激しく点滅を繰り返していたのです。

「……あさなの……?」

 のり子は体を起こし、枕元の時計を見ました。針はまだ、夜中の二時を指しています。

 のり子はそっと布団から出ました。おそるおそる窓辺に歩み寄り、窓をゆっくりと開けてみました。

 窓の外の世界は、見たこともない青白い光に包まれていました。

 のり子は思わず息を呑み、開けた窓の縁をぎゅっと掴みました。

 目の前に広がる夜の景色は、あきらかに、そして静かに、のり子の方に向かって傾いていたのです。

 電柱は斜めに空を指し、向かいの家々の屋根も、まるで彼女に深々とお辞儀をするように傾いています。足元から続くはずの道路は、ゆるやかな下り坂の滑り台となって、遠い夜空の果てへと吸い込まれるように伸びていました。

 そこには音の一つもありませんでした。

 一番弱い重力が世界をそっと書き換えてしまったような、濃密で、それでいてひどく透明な静寂が満ちていました。

 のり子は、自分の心から伸びたあの「板」が、今この瞬間に宇宙の屋根を滑り降りてくる星の記憶を、自分の手元へと運んできているのだと確信しました。

 空気が微かに震え、傾いた世界の斜面を、光の粒子がさらさらと流れ込んできます。

「え……? これって、私が力を込めて、心の中で下に押したからなの……? まさかね……」

 のり子は信じられない思いで、自分の胸の下に両手を添えました。

 そして、もう一度確かめるように、そこにあるはずの見えない「板」の端を、さっきよりもずっと強く、思いきり下へ押し下げるしぐさをしてみました。


 その瞬間、世界はさらに深呼吸をするように、のり子の方へと角度を深めました。

 電柱の影が長く伸び、街の灯りがとろりとした蜜のように、彼女の窓辺に向かって流れ込んできます。

 その奇跡のような静けさを切り裂いたのは、あまりにも不似合いな叫び声でした。

「あああああ〜! とめてええええ〜〜〜!!」

 夜空の向こう、傾いた坂道の頂上から、何かが猛烈な勢いでこちらに向かって転がってきました。「よけてえええ〜!」という絶叫とともに、それはのり子の開けた窓へ一直線に飛び込んできました。

「わわっ!」

 のり子が間一髪で身をかわすと、その影は部屋の奥にある本棚に激しい音を立てて激突しました。

 ドガシャーン!!

「あうっ……いててて……」

 本棚の隅で、頭を抱えて悶えている小さな影がありました。


 のり子は最初はとてもびっくりしましたけれど、だんだん心がワクワクしてきました。これってもしかして、冒険の始まりなのでしょうか。

 よく見ると、その侵入者はどう見ても人間ではありません。光を透かすような不思議な肌、大きすぎる瞳。それは間違いなく、宇宙人でした。

 のり子はうれしくなって、そっと歩み寄り、話しかけました。

「こんにちは。私はのり子。あなたはだれですか? たんこぶ、大丈夫?」

「……えっ? きみ、驚かないの? 怖くないの?」

「だっておっちょこちょいなんだもん。で、あなたの名前は?」

「僕はポポコ。ハレー彗星の通り道、みずがめ座エータ流星群からやってきたんだ。……それにしても、本当に驚かないの?」

「なんで? 冒険の始まりでしょ? それで、宇宙船はどこ?」

「宇宙船なら、ほら、あそこの電柱の横に止まってるよ。急な斜面で踏ん張るのが大変なんだから」

「乗せてよ! すぐ出発なの? パジャマのままでいいかな?」

 矢継ぎ早に質問を繰り出すのり子のあまりの平然さに、ポポコは言葉を失いました。

「え……? ええっ!? ちょっと待って。なんで話がそんなにトントン拍子に冒険になるのさ! そもそも、きみが変な重力の傾斜を作ったから、僕はこのダストトレイルの滑り台から落っこちてきたんだよ!」

 のり子は期待に目を輝かせながら、迷うことなく窓の外へと足を踏み出しました。


 ポポコは呆れたようなしぐさをしながら、光る斜面をのぼり、宇宙船にたどりつくと扉を開けました。

「ちょっと、待って……」

 言いかけるポポコを追い越して、のり子は脱兎のごとく宇宙船に乗り込みました。そして、真っ先に操縦席と思われる椅子にどっかと座り込みます。

「ポポコ、はやく乗り込んで出発するよ。はやく扉を閉めて!」

 背後でポポコが扉を閉めるカチャンという音が響いた、その瞬間でした。ポポコがシートに座るよりも早く、のり子は操縦桿の横にある一番大きなレバーを鷲掴みにしました。

「きっとこれね。こういうのは勘と気合いだわ!」

 のり子は不敵な笑みを浮かべると、一気にレバーを下に引き下げました。

「のり子号、行くわよ! 発進!!」

「ちょ、やめてええええええ〜〜〜〜!!」

 ポポコの悲鳴が船内に響き渡ります。ドタン、バタンとはでに床を転げ回るポポコをよそに、銀色の船体は強烈な光を放ちました。

「のり子号ってなんだよお〜〜〜! ちょっと、待ってよお〜〜!!」

 ポポコは涙目です。激突したときのたんこぶが、さっきよりさらに赤く腫れあがっていました。


「そっちのレバーだけは、絶対やめてってばあああ〜〜!!」

 ポポコは転がりながら必死に叫び、震える指で隣のレバーを指差しました。

 のり子は一度手を止め、そのレバーをじっと見つめました。

 沈黙が流れます。ポポコは一瞬だけ安堵の息を漏らそうとしました。

 まさに、その時でした。

 のり子は、さらにもう一つの、赤い色をしたものものしいレバーに目を留めました。

「ねえ、こっちの赤い、なんだかものものしいレバーはなんなの?」

「……えっ。あ、それは、超加速推進機だよ」

 ポポコはついうっかり答えてから、しまったという顔をして、あわてて両手で口をふさぎました。

 のり子の瞳に、不敵な満面の笑みが浮かびます。彼女はその赤いレバーに、ゆっくりと手をかけました。

「お願いだから、やめてよ。まさかそれを……!」

 ポポコが言い終わらないうちに、のり子は一気にそのレバーを引き下げました。

 キィィィィィン!!

 船体がビリビリと激しく震え、窓の外の星たちが真っ白な光の矢となって後ろへ流れ去っていきます。

「ぎゃああああああああ!!!」

 宇宙船を突き抜けるような絶叫。椅子に座っていなかったポポコは、すさまじい加速の勢いで、後ろの壁にぺったりとはりつけられてしまいました。


 それから、どれくらいの時間が経ったのでしょうか。加速が落ち着き、のり子は窓の外を見て声を上げました。

「わあ……見て、ポポコ。地球があんなに小さいよ。ところで、いい加減に座ったら?」

 壁にお餅のようにくっついたまま、ポポコは消え入りそうな声でつぶやきました。

「……もう……僕の船なのに……なんで船長がきみなのさ……」

 ポポコはやっとの思いで壁から剥がれ落ち、ふらふらと座席に滑り込みました。

 のり子は計器類をキリッと見据えると、熟練の船長のような声で命じました。

「進路、みずがめ座エータの方角へ。太陽公転面で、ハレー軌道との交点までベクトルを合わせろ。見かけの方角は、みずがめ座エータ星。実際の目標は、その裏側に伸びているハレー彗星の足跡だわ。船首を合わせろ。座標は太陽中心基準、地球軌道とダストトレイルの交差点を指定!」

 あまりに正確な指示に、ポポコは目を丸くして、のり子を二度見しました。

「……えっ? きみ、なんでそんなに詳しいのさ?」

「お父さんに教えてもらったの。宇宙の道しるべなんだって」

 のり子の誇らしげな答えを聞いて、ポポコはもう完全に降参したというように、深いため息をつきました。

「……お父さんにね。分かったよ、もう。あきらめて座標を設定するよ」


 のり子号は、光速の約十分の一、秒速三万キロメートルという驚くべき速さで、ハレー彗星の塵の帯、ダストトレイルの中へと突き進んでいきました。

 ポポコが必死に叫びます。

「速すぎるって! いくらこの中がスカスカだと言っても、部分的には密度が濃いところもあるんだから! 小さい欠片でも、これだけの速さで宇宙船に衝突したら……!」

 のり子は窓の外を流れる星の海に見惚れたまま、「え? なに?」と、のんきに聞き返しました。

 しかし、彼女の操縦は完璧でした。のり子の流れるような操縦桿捌きは、まるで最初からこの船の一部であったかのように滑らかです。迫りくる見えない危険を次々とかわしていくその姿は、パジャマ姿であることを忘れさせるほど凛々しいものでした。


 窓の外では、宇宙船のすぐそばをかすめていく塵の欠片たちが、凄まじいエネルギーで摩擦を起こし、宝石のようにまばゆい光の軌跡を幾筋も描き出していました。青、白、そして鮮やかな橙色。色とりどりの光の筋が、のり子の瞳を美しく照らしています。

 その横で、ポポコはあまりの恐怖に気を失いそうになっていました。

 急激な重力の変化と恐怖で、ポポコの大きな瞳からは、本当の涙が後から後から溢れ出し、船内を不思議な水玉となって漂っています。

「……もう、いやだぁ……誰か止めてよぉ……」

 ポポコの声は震え、窓の外を流れる美しい光など目に入る余裕もありません。のり子の天才的な操縦だけが、この暴走する宇宙船の唯一の頼みの綱となっていました。


 ポポコの泣き声が船内に響く中、のり子は操縦席のさらに奥、真っ黒で警告シールがあるレバーに目を留めました。

「ねえ、ポポコ。あの黒いレバー、なに?」

「……ひっ! それは絶対にダメ! 『緊急跳躍装置』だよ! ハレー彗星の核まで一瞬で飛べるけど、制御不能で、帰ってこれなくなるかもしれないんだから!!」

 のり子の瞳が、いつもの不敵な笑みで輝きました。

「ふーん……つまり、ハレー彗星まで一瞬で行けるってことね?」

「待って待って待ってええええ!! のり子さぁぁぁん!!!」

 ポポコの絶叫を華麗に無視して、のり子は両手で黒いレバーを力いっぱい引き下げました。

 ――キィィィィィィィン!!!

 船体が激しく震え、視界が真っ白に染まりました。星々の光が一瞬で線になり、宇宙そのものがねじ曲がるような感覚が二人を襲います。


 次の瞬間――。

「わあ……!」

 のり子は息を呑みました。

 目の前に、巨大な雪と岩と光の塊が浮かんでいました。ハレー彗星の本体。青白く輝く核の周りを、無数の塵が渦を巻きながら舞っています。まるで宇宙に浮かぶ巨大な雪の城のようでした。時折、表面から白いガスが噴き出し、長い尾を夜空に描いています。


 のり子は操縦桿を静かに押し込み、銀色の船体をその輝く核へと向けました。窓の外では、吹き出すガスの激しい流れが、まるで巨大な翼のように左右に広がっています。

「ねえ、ポポコ。せっかくだから、あのハレー彗星に着陸してみようか?」

 のり子が事も無げに言うと、ポポコは文字通り真っ青になって聞き返しました。

「……えっ!? ちゃ、着陸!? のり子さん、さすがに無茶だよ。しないよね? 冗談だよね……?」

「のり子さん……本当に、本当に行くの!? もう、僕の心臓が止まっちゃうよぉ!」

 ポポコは座席の端をぎゅっと掴み、大きな瞳を涙で潤ませながら叫びました。けれど、のり子の瞳には、目の前に迫る真っ白な大地の輝きだけが映っていたのです。


 のり子は不敵に微笑むと、操縦桿を限界まで前に倒しました。

「全速力、発進!!」

 銀色の船体は、凄まじい加速と共にハレー彗星の巨大な核へと真っ直ぐに突き進みます。

「ぶつかる〜とめて〜〜!!」

 ポポコが椅子にしがみつき、目を剥いて絶叫しました。真っ白な氷の壁が視界を埋め尽くし、激突まであと数メートルという、その時でした。

 のり子は鮮やかな手捌きで機首を反転させると、全ての噴射口から光を放ち、強烈な逆噴射をかけました。

 キィィィィィン!!

 凄まじい衝撃と共に宇宙船は一気にその場に静止し、まるで雪の上に舞い降りる羽根のように、音もなく静かに着陸しました。


 ポポコは、死にそうな青い顔をさらに青くして、魂が口から抜けかけたような姿で座席に張り付いています。

 船体は静かに落ち着き、辺りは一瞬にして、深い静寂に包まれました。

 のり子は立ち上がり、宇宙船の出口へ歩きかけましたが、ふと足を止めました。

「ねえ、ポポコ。宇宙服はどこ? このまま寝巻きで外に出たら、凍りついちゃうわよね?」

 ポポコは、ようやく正気を取り戻したように跳ね上がりました。

「そ、そうだよ! そこの壁の引き出しにあるけど……本当に、本当に出るつもりなの!? のり子さん、待ってよ!」

 のり子はポポコの忠告を軽やかに受け流しながら、差し出された透明で柔らかな宇宙服を素早く身に纏いました。

 のり子は宇宙船の扉をゆっくりと開けました。


 外の景色は、見たこともない光景が広がっていました。地面は、真っ白な雪と、何億年もかけて凍りついた古い氷の欠片で埋め尽くされていました。頭上を見上げれば、そこには地球で見るよりもずっと大きく、そして近くに、燃えるような太陽の光が彗星のガスを透かして輝いています。

 彼女が地面に一歩を踏み出すと、足元から柔らかな青い光が波紋のように広がっていきました。

「すごい……。ねえ、見てポポコ! 氷の鏡の中に、何か映ってる!」


 のり子が指差した足元の氷には、不思議な光景が浮かび上がっていました。それは、七十六年前、この彗星が前回地球を訪れた時の記憶でした。

 そこには、まだ子供だった頃のお父さんが、今と同じように望遠鏡を覗き込み、夜空に輝くハレー彗星を見上げて笑っている姿がありました。

「お父さん……。お父さんが見ていた光が、ここでずっと待っていてくれたんだね」


 その時でした。足元の氷が激しく震え始め、遠くの裂け目からガスが噴き出す不気味な音が地響きとなって伝わってきました。

「のり子さん、危ない! ガスが噴き出す兆候だよ! このままじゃ巻き込まれる、早く船内に戻って!!」

 ポポコの必死の警告を聞き、のり子は素早く、それでいて冷静な足取りで宇宙船へと駆け戻りました。

 のり子は船内に戻ると、手早く宇宙服を脱ぎ、それを丸めてポポコに手渡しました。

「ポポコ、これ片付けておいて」

 ポポコが「えっ、あ、うん……」とそれを受け取り、壁の引き出しに仕舞おうとして頭を突っ込み、宇宙服を押し込んでいる、その瞬間でした。

 のり子はポポコが座るのを待たず、操縦席に飛び乗ってあの黒いレバーを掴んだのです。


「乗組員は座席に座ってシートベルトをお願いします」

 のり子は至極冷静な声で、船内に放送を入れました。

 ポポコはまだ壁際で、棚の中に勢い余って頭を突っ込んでしまい、足をじたばたとさせている最中で、座席にたどり着く間もありませんでした。

「えっ!? ちょっと、待ってぇぇぇぇ!!」

 顔面蒼白になったポポコが叫びましたが、のり子の手は既にレバーを引き下げていました。

 ――キィィィィィィィン!!!

 空間がねじ曲がり、視界が真っ白な光に包まれました。のり子の胸の板は、正確に地球の、あの小さな家を指し示していました。


 次の瞬間――。

「なにしてるの、ポポコ。ほら、地球に着いたよ」

 のり子が可笑しそうに笑う声が聞こえました。光が静かに収まり、のり子は操縦席から立ち上がり、宇宙船の扉を開けました。

「お父さんが教えてくれた、ずっと昔に地球に来た彗星……」


 その言葉を胸に、のり子は勢いよく一歩、外へ足を踏み出しました。

 どすん!

「……いたっ!」

 のり子は、硬い床の衝撃で飛び起きました。宇宙船から降りたはずが、なぜかベッドから転げ落ちていたのです。

 のり子は痛むお尻をさすりながら、きょろきょろと辺りを見回して目を覚ましました。

「あれ……?」

 部屋は明るく、カーテンの隙間から柔らかな朝日が差し込んでいます。枕元の時計は、朝の七時、もう起きる時間を指していました。

 のり子は夢見心地のまま、自分の胸のあたりにそっと手を当てました。そこには、あの彗星の核で瞬いた、柔らかな青い光の温もりが、今も確かに残っているような気がしました。



 一方その頃。

 のり子を部屋に残すと、ポポコは震える手で操縦桿を握り直し、全速力で母艦へと逃げ帰りました。宇宙船の扉が閉まる音さえ、今のポポコには安堵の響きに聞こえるほどでした。

 母艦の奥深く、冷たい光に満ちた司令室では、巨大な瞳を持つ上司の宇宙人が待ち構えていました。

「どうだった、地球の様子は。我々が征服するための手掛かりはどうだ? 人間の特徴はどうだったのだ?」

 上司の問いかけに、ポポコはガタガタと膝を震わせながら、青ざめた顔で答えました。

「……人間は、人間は危険すぎます! 地球の侵略なんて、絶対にやめた方が良いです。あんな恐ろしい生き物、見たことがありません!」

 上司は不思議そうに首を傾げました。ポポコは、のり子のあの不敵な笑みと、警告シールがある黒いレバーを引き下げた時の光景を思い出し、必死に言葉を続けました。

「彼らの判断力、そして操縦能力は、我々を遥かに凌駕していました。おそらく、想像もつかないような高度な技術力と精神力を持っているに違いありません。僕の船を、あんな風に扱うなんて……!」

 ポポコはぶるぶる震えながら、涙目で訴えました。


 すると、上司の宇宙人は、鋭い光をその瞳に宿して頷きました。

「ほう……。そうか、それならば、侵略するよりも仲間にした方がよさそうだな」

 ポポコは一瞬、耳を疑いました。

 上司はポポコの肩を力強く叩き、非情な命令を下しました。

「ポポコよ、手柄だぞ。もう一度地球に行って、その接触した人間を我が軍の特別顧問として連れてくるのだ! 今すぐにだ!」

「え? ……ええっ!? ぜ、絶対に嫌です! 無理です、死んじゃいます! ぎゃあああああああ~~~~!!」

 ポポコの悲鳴が母艦の通路に虚しく響き渡ります。


 地球の静かな朝。のり子がそんな宇宙の騒動など知る由もなく、新しい一日の始まりです。その遥か彼方の出来事でした。



   おしまい

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