無花果の木《後編》
椿は急に割り込んできた琉夏によって、清から引き剥がされていた。清は驚き、椿は一瞬、金の瞳が揺らいでいた。なにを思ったのか、上半身が女の姿に戻る。どさり、と椿が瓦に体を落とす音がした。琉夏は、悲しみも、憤りも無く、ただ平常な声で彼女の名を呼んだ。
「椿殿、」
椿は我に返ったかのように顔を歪ませた。顎を煽り、露骨に琉夏を見下してみせる。
「あぁ?何?」
「私が気に入らぬなら、その刃は私に向けて然るべきだ。清殿も、下がっていてくれ。」
琉夏は、木刀を腰から抜き、泰然と構えの姿勢を取った。
「……」
清は絶句しているようだった。椿は嘲笑を浮かべ、琉夏の方に向き直る。
「まぁまぁまぁ、あんたみたいな小娘が?私に?勝てるとでも?」
「……分からない。けれど、祖先の功も咎も背負うが、あとに残された者の定めだろう。私は、目を背けたりはしない」
しん、とした沈黙が下りる。真澄は彼女の凛と咲く花のような横顔を、どこか遣る瀬無い気持ちで見つめた。そんな何百年以上も昔の咎など、本当に彼女が背負う道理があるものなのだろうか。
「……ふふ、ははは!ははははは!」
椿は身を捩り笑った。長い黒髪がさらさらと崩れて、彼女の体の上を滑り落ちていく。琉夏は急に笑い出した彼女を呆気に取られたような表情で見ていた。椿は琉夏の元にずるずるとその身を滑らせる。
「おかしい。あなたに私が殺せるの?」
椿は指先で軽く涙を拭い、琉夏にしなだれかかった。琉夏は驚いて身を引こうとしたが、椿は両腕を琉夏の首に回し、彼女を強く抱き寄せた。その表情は恍惚としていて、琉夏を害そうとする気配など微塵も感じられない。寧ろその瞳は甘美な欲望に濡れていた。琉夏は唖然として椿を殴ることもできず、ただ押し返そうと藻掻く。椿は小さく鼻で笑って、「ねぇ」と、琉夏の耳朶に息を吹きかけ、囁いた。
「っ、なにをっ……」
琉夏は顔を紅潮させた。椿が下腹部を白い手で優しく撫で付けたからだ。
「私は貴方の秘密、知ってるのよ」
まるで罪を暴くかのような椿の囁きに、琉夏は途端に顔色を失った。それを見て、椿は耐えられない、といった風に、肩を震わせた。甲高い笑い声が、空に高く響き渡る。
「ふふ、あはは!!毎晩毎晩毎晩、私に誘惑されて、さぞや苦しかったでしょう?鍛錬に打ち込めば打ち込むほど、ここの乱れがより顕著になって、堪らなかったでしょう?」
「き、みが……」
椿は唇に妖艶な笑みを浮かべ、琉夏の首筋に顔を寄せた。蛇の尾が、見る見る内に琉夏に絡みついて、彼女の体を優しく絞め付けていく。
「そうよ。言ったでしょう?……あんたを滅茶苦茶にして、死にたくなるほど恥ずかしい思いをさせた後、ゆっくり殺してあげるって」
琉夏はまるで、彼女に精気を抜き取られていくような心地がした。頭が真っ白になり、言葉さえ、上手く出てこない。椿は口付けできそうな距離で、琉夏に話し続けた。彼女の冷たい吐息を感じながら、琉夏はその美しい金色の瞳が喜びに蕩けるのを、ただ見ているしかできない。
「たまらない誘惑だったでしょう? 良家の成績優秀で何でもできる優等生の良い子ちゃんが、本当は女をやらしい目で見てる変態野郎だなんて、恥ずかしくって誰にも言えなかったものね!!ははは!ふふふ!あはははは!!!」
「……っは、」
椿は散々揶揄って満足したか、琉夏の拘束を解いて、身を離した。琉夏は支えを失いよろめいた。彼女の手から、木刀が滑り落ちる。真澄は彼女の元に飛んで、その腕を掴んだ。瓦の上にそっと足を降ろして、琉夏を支える。独りになった椿を、清は琉夏から守るようにして、剣を振り上げた。
「恥を知れ!」
「恥を知るのは琉夏ちゃんの方でしょっ……!っ!」
目の色を変えて怒る清に、椿は笑みを消した。肩から流れた血が、どくどくと溢れ出している。清はこれまで、椿に深手を負わせることは無かった。流れる血をそっと白い手のひらで確認して、椿は尋ねた。
「……本気で殺り合うつもり?」
真澄は琉夏を連れて、地面に舞い戻った。屋根の上から琉夏が転げ落ちでもしたら、危ないと思ったからだ。それに今は、椿からなるべく離れた所に彼女は居るべきだと思った。なんとか二本の足で立ってはいるものの、呆然としている琉夏の肩を揺さぶって、真澄は正気に戻そうとする。
「琉夏、琉夏、しっかりしろ!」
「……っ!ま、真澄殿……す、すまない…離してくれ……っ」
琉夏は真澄に気付くと、顔を青褪めて後ずさった。彼女のその表情に、真澄は悔しさで胸が詰まった。
「……っ、恥じるようなことじゃない!」
「え……?」
真澄は琉夏を見つめ、力強く言い切った。その表情は、琉夏への激励が切に込められていた。琉夏は思わず目を見開いて、真澄を見る。肩に置かれた真澄の手は、しっかりと琉夏を捕らえて離さなかった。
「あんたが恥じることなんて、ひとつもない……っ!」
琉夏は心に隙間が開いて、僅かに風通しが良くなったように感じられた。真澄に目を奪われたまま、思わず彼女は、小さく頷いていた。真澄は辺りを見渡すと、少し離れた場所に生えた、一本の木を指差した。植物好きだった琉夏の祖父の影響があり、この庭には様々な種類の木が植えてある。
「あれ、ハシバミの木ですか?」
「え、すまない、分からないが……」
琉夏に聞きつつも、真澄は確信を持っていたのだろう。その木に向かうと、彼女は端的に尋ねた。
「一枝貰っても?」
「構いませんが……何を……」
真澄は暗がりの中だったが、ハシバミの木から形の良い枝を見つけ、一枝手折った。
「よし、手伝ってください」
「あ、ああ……」
瑠夏は思わず返事をしつつ、しゃがみこんだ真澄の側でそれを見守るしか無い。真澄は木の枝で、ガリガリと地面に魔法陣を描き出していた。様々な記号や文字を、円の中にすらすらと書き連ねていく。時折手を止めて何か考えながら手を進める様子は、まるで数式を頭の中で組み立てているかのようだった。
ハシバミは、グリム童話に登場した際、蛇を人々から守るように聖母マリアに託された木でもある。また、探し物を見つける際、占いによく用いられた木でもある。真澄はハシバミの木の持つ力を借りて、一時的に椿を閉じ込める結界を作り出そうとしていた。基礎的な陣に、慎重に複雑な要素を書き足していく。真澄がこの陣を初めて使ったのは、リリィを子分しようと追いかけ回していた時である。幼い頃、祖母の魔導書を読み漁っては、リリィを捕らえようと追いかけっこを繰り返していたのだ。結局リリィは捕まらなかったが、そのお陰もあって、真澄は魔法陣が一番の得意分野となった。陣を書き終えると、真澄は枝からハシバミの葉を取り、陣の中に撒き散らす。
「 髪の毛を一本くれます?」
「 え?あぁ……」
瑠夏は長い髪を一本引き抜くと、それを真澄に手渡した。真澄は初めに、ハシバミの枝に息を吹きかけた。すると枝の分かれた先同士が、編み目を作りながら、どんどんと伸びていく。やがて魔法陣をぐるりと囲ったハシバミの冠に、真澄は髪の毛をふっと吹き落とす。瑠夏の薄い色した髪の毛は、さらさらと塵のように消えていった。その時、ぼう、と魔法陣が光り出す。
「 清!投げて!」
はっとした顔で椿がこちらを振り返った。その隙を狙い、清は剣で尻尾の太い部分を串刺しにして、そのまま地面に、思い切り投げ捨てる。彼女は見た目より随分と逞しく、椿は地面に強く身を打ち付けて、陣の中に収まった。逃げ出そうとする椿に、すかさず真澄が杖を取り出す。
「逃さない」
真澄が杖を構えると、陣がより一層強く光り輝いて、旋毛風を引き起こした。椿の黒髪が風に乱れ、暴れ狂う。真澄も風の中、悠々と微笑んだ。
「私に従え」
ハシバミの枝でできた蔓に、椿の体が拘束される。椿は忌々し気に身を震わせた。ハシバミの持つ魔除けの特性が効いているようで、不快そうに眉を顰めている。
「あああっ!!クソ!離せ!!」
「ふぅ、成功した……」
真澄は一つ息を吐くと、おざなりに手を振って、持っていた杖を消した。
「真澄殿……」
琉夏が控えめに真澄に声を掛ける。真澄は任せて、という風に彼女に微笑んだ。
「大丈夫ですよ。おい、お前」
「……っ、どうしようっていうの?煮るなり焼くなり、好きにしなさいよ」
「うーんどうしようか……。契約書にサインすれば、見逃してやる。それか、私の首輪付きのペットになるか、どちらか選びなさい」
椿は激昂した。屈辱に目の前が真っ赤になったようにして、目を吊り上げ、牙をむき出しにして、怒りを剥き出しにする。
「 はぁ!?ふざけるな……!」
「 選びなさい」
真澄はもう一度、繰り返した。椿はとうとう地面に額をぶつけて、悔しさをぶつけるしか無い。両手すら動かせなかったからだ。真澄の術は強固だった。
「 ……っ!クソ!!」
真澄が用意した契約書は、椿が瑠夏に危害を加えられない事、勝手に屋敷に侵入しないことを誓わせるものだった。簡易的なものであれ、契約は契約である。これに逆らえば、椿は多くの妖力を失うことになる。この契約自体が、椿にとって屈辱以外の何物でも無かった。サインをしっかりと確認した真澄は、椿の拘束を解いた。そこに瑠夏がしゃがみこんで、椿におずおずと声を掛ける。
「 もしかして、あなたはあの時の……」
椿は素早く顔を上げた。瑠夏は椿の表情を見て、面食らう。まるで、恐ろしい物でも見てしまったかのような表情を、彼女がしていたからだ。しかしそれは一瞬で、椿はさっと目を逸らすと、煙のように姿を消していなくなってしまった。瑠夏は無意識に、肩の力が抜けてしまう。
「 ……これでもう、ちょっかいは出して来ませんよ。これがあるので」
真澄は瑠夏に、契約書をペラペラとかざしてみせる。
「真澄殿……本当に、ありがとうございました」
瑠夏は少し疲れたような表情をしていた。その中に、なにか引っ掛かっているものがあるような気がして、真澄は少し控えめな態度になる。
「 ……どうしたんですか?」
瑠夏は懐かしそうに遠くを見つめていた。その眼差しは、懐かしさと寂しさを帯びている。鳶色の目が、繊細そうにゆっくりと瞬いた。
「いや、少し……思いだしたんです。幼い頃、本を読みながら帰っていたら、蛇を踏んでしまって。お詫びにイチジクを持っていったんです。その時、もう蛇はいなかったんですが、もしかしたら、あの時の彼女が、さっきの……」
「 ……」
真澄は内心で溜息を吐いていた。
(とすると、幼い頃から目を付けていたのか……)
ここまで人に執着する妖怪なんて、真澄は正直見たことがなかった。本来人と妖怪は、棲み分けが出来ていて、交わることなど有りはしない。その方が互いのためでもあるのだ。生きる時も理も違うものが、共に生きられる訳は無い。
(なんて不毛な片思いだ。どの道、彼女と椿じゃ、寿命も違いすぎる。生きる世界も違うのに……)
琉夏が椿のことが見えたのも、毎夜、椿に迫られたせいだろう。つまり椿の執着が成した事だったのだ。元々霊力のある彼女が、彼女を認識できるようになってしまう程、椿は彼女に付き纏っていたのだろう。無花果の色が見えたのも、椿があのまじないを掛けたからに他ならない。
真澄はふと、清のことが頭に浮かんだ。ここ数日、彼女と過ごした穏やかな時間の事を思い返す。胸の内が、波打ち際に晒されているような気がした。冷たい潮が染みて、しょっぱさが香り立つ。椿の気持ちなど分かりたくはないが、真澄はこの気持ちを、人とか物の怪とかいうくだらない枠に当てはめることを、確かに躊躇ってしまう気持ちがあった。
「 あなたはとても……お強いんですね」
瑠夏は本当に感心しているようだった。真澄は苦笑する。
「 そんな事無いです」
真澄は恐る恐る屋根の事を、話題に出したが、瑠夏は、修理代など良いから、それより謝礼を出させてくれと言って聞かなかった。真澄は断ったが、瑠夏の頑固さに負けて、結局首を縦に振ってしまう。
「 そういえば、あの赤い実は……」
真澄は無花果の木の事を、思い出し、くすりと笑った。
「 あぁ、食べても問題ないですよ。数日で、色も元に戻ります」
「 そうなのですか?」
あっけからんと言う真澄に、瑠夏は目を丸くする。真澄はあの時、無花果の木の根元を靴先で少し掘り返していた。見れば土の中には、たくさんの果実の種が埋まっており、そこで真澄は気づいたのだ。これは供物をたくさん木の根元に植えて、身を甘くするおまじないだ、と。それは本来、魚やら動物の骨を埋めるおまじないである。けれどあの痕跡からすると、兎に角大雑把に赤い実を沢山埋めたものと見える。そのため、無花果の身が、赤くなってしまったのだろう。
実を言うと真澄も幼い頃、知り合いの妖怪に唆されて、このおまじないを試したことがあった。しかし同じように枇杷の実は、血のように赤くなってしまった。あの時、持って帰った枇杷を見て、師匠には随分驚かれたものだ。
その妖怪は大雑把な上に、他人をからかう事も好きだったので、教えてもらったおまじないも、正しいやり方じゃない物が多かった。椿も大方、あの女に騙されたのだろう、と思う。いたずら好きな妖怪だから。
「 ええ。食べてみてください。きっと甘くておいしいですよ」
「それは……」
「 また何かあれば、連絡して」
会話を切り上げ、立ち去ろうとする真澄の腕を、瑠夏は慌てて引き止めた。
「 ……真澄殿!」
「 なんですか?」
瑠夏は朗らかに笑った。小さな花が風に揺れるような、春に相応しい微笑みだった。
「 ……ありがとう。怒ってくれて。……嬉しかった」
「 いえ、どういたしまして」
真澄も笑っていた。瑠夏が一先ず笑えたのなら、それで良い。そう思うと、胸が少しだけ、軽くなったような気がした。
瑠夏の家を出ると、少し先に、清の姿が見えた。椿が去ったであろう山の方を、ぼうっと見つめている。真澄は不思議に思いながらも、清に駆け寄った。
「 またボロボロになっちゃったね……ほら、肩貸すよ」
「 申し訳ない……」
清は、ばつが悪そうな表情を浮かべて俯いていた。真澄はわざと、少し明るい声を出してみせる。
「やっぱり、ついてこないほうが良かったじゃない」
「真澄、……すまない…………」
清は静かに目を伏せ、真澄の手をゆっくりと外させた。清が微かに、首を横に振る。真澄は、胸が少し切なくなって、目を逸らした。二人の間に、別れの気配が漂っているのを、嫌でも感じ取れてしまったからだ。
「 ……あなたはなにも悪くないのに、謝るのはやめてくれない?」
真澄は傷付いたように、そう口にしてしまっていた。沈痛な空気がより鮮明に差し迫り、すぐに後悔の念が押し寄せて来る。
「……違います、私が……ただ、不甲斐ないのです」
真澄は清の言葉を上手く理解は出来なかった。清は本当はどうしたかったというのだろうか。あれ以上の手の打ちようが、真澄にはあるとは思えなかった。清が何を考えているかは知らないが、真澄にはただ一つ確かな事があった。
「…… でも、あなたを見ていると、こっちも少しばかり、素直になれた気がするよ。あんまりにも無鉄砲だからさ」
「 ……そうですか」
清は弱々しく笑った。少しも嬉しくなさそうで、真澄も小さく笑みを零していた。
「じっとして」
「何を……」
真澄は清の腹の傷辺りに、手を添えた。真澄がすっと、傷口を軽く撫でると、清の体の傷が、嘘のように全て消えてしまう。
「……!」
「これ、滅多に使わないようにしてるから、秘密だよ」
清は驚きを隠せなかった。真澄の腕はまだ傷が治っておらず、薄手のアームウォーマーで、包帯を隠していた。自分にも使わないような代物を、どうして己に施したのか、清にはその答えを尋ねることは出来なかった。
「魔女はこんなこともできるのですか?」
「まさか。いい?自分を大事にして。貴方は人助けがしたいと言っていたけれ
ど、犠牲の上の幸福ばかりが最善だと決めつけないでほしい。私は貴方の幸福も、願ってるから。」
真澄の手が清の頬に触れて、離れていく。真澄の指先が、離れる寸前に僅かに惜しむように揺れた事に、清は気付いてしまった。言葉にならないまま、二人は数秒、見つめ合った。清は伝えたい思いが体中に巡り巡って、中毒を起こしそうであった。それでもその唇を動かす事は、彼女には出来なかった。
「……じゃあね。もう変な連中に捕まらないよーに」
真澄が去っていく。清は放心して、地面の一点をただ見つめていた。
「…………私の……幸福……?」
無意識に、その指先は己の脚に向かっていた。月の光で、その表情は一層青白く、孤高に研ぎ澄まされたようであった。遠くでは、夜の虫が金属質な音色で、心細げに鳴いている。清は途方に暮れたように、胸の内で呟いていた。
(そんな……もの、知らない…………)