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無花果の木《中編》






 彼女は蜷局を巻いて、春の訪れを待っていた。彼女が目覚めて、立ちあがった時、全身には、あちこちを打ち付けられるような痛みが襲ってきて、彼女は驚いた。彼女には体という物が無いのに、痛みはあまりに鮮明だった。そして彼女に向けられている憤怒や憎悪が、見えずとも確かな脅威として、外で待ち受けている事が、彼女には理解できた。今すぐに、ここから飛び出して、逃げ出さないといけない、と彼女は強くそう思った。


 辺りは白く荘厳な光で満ちていて、幸福な金色の粒子が煌めく泡のように立ち上っていた。けれどもそれはこの体の持ち主が至った一つの境地であって、彼女にとっては、幸福はきっと別の所にあった。彼女ははっとして、頭を屈めた。その瞬間、大きな衝撃が走って、外への道が開けた。首が斬り落とされたのだ。彼女は急いで飛び出して、近くの草むらに飛び込んだ。その先には僥倖と言うべきか、木の根元の隙間に入り込んで、眠りこける一匹の蛇がいる。彼女はその蛇に迷うことなく乗り移った。漆黒の、ここらでは珍しい蛇だった。彼女は木の根から抜け出して、自分のいた場所を草むらから覗き込んだ。


 一人の少女が衣服もぼろぼろで、泣きじゃくっている。村人が集まっていて、鬼の形相で暴れ狂う、一人の男を取り押さえていた。男は斧を持っていて、非常に物々しい雰囲気が立ち込めていた。後から理解できた事だが、殺されたのは一人の僧侶で、少女が彼に襲われていた所を見つけ、村の男が斧で嬲り殺しにしたのだ。

 少女の頭上には、美しい真っ赤な椿が咲いていた。女は、あの花はきっと、地面を真っ赤に染めていた、僧侶の血によって、赤く染まってしまったのだろうと思った。とても寒い、冬の事だった。


 彼女は僧侶が反吐が出るほど嫌いだった。女も嫌いだった。無力で何もできず、泣いているしかない。だから「彼女」に出会った時も、いつもと同じように、人間を揶揄って遊んでやろうと、それ位に思っていたのだ。


 珍しく人里に下りて、田畑に肥えた蛙でもいやしないかと、あても無く彷徨っていた。丁度入梅の頃で、雨で冷えた青草を掻き分けるのが気持ちが良く、女は機嫌良く、畦道を突き進んでいた。その時ふと背後に気配を感じて、素早く振り返ろうとして、女は音にならない悲鳴を上げた。尻尾を踏んづけられたのだ。女が相手にすかさず噛み付こうとしたとき、聞いたことも無いような朗らかで優しい声が降り注いだ。


「あぁ、ごめんね!怪我はしてない……?」


 それは目を丸くして驚く、一人の少女だった。少女は読んでいたであろう本を脇に抱え、蛇を恐れることも無く、尻尾に手を伸ばそうとした。女は素早く、すぐ脇にあった、草むらに逃げ込んだ。心臓が早鐘を打っていた。


 蛙の事も忘れて、急ぎ住処に戻った。いつもは落ち着いて、直ぐに眠りに付けるのに、その日はいくら体を丸めても、夜風にあたって星を眺めても、あの少女のことが頭から離れなかった。あの美しい瞳の色は、一体何というのだろう。あの優しい声の色は、一体どこからやってきたのだろう。私が見てきた真っ赤な僧侶の血の色とも、真っ赤な椿の色とも全く違っている。私は春を待たずに目が醒めてしまったけれど、きっとあの子は、春に目覚めたのだろうと思う。そんな気がしていた。


 女は次の日もこっそりと、その場所に向かっていた。少女は何やら両腕に果物を抱えていて、女のことをしきりに呼んでいる。「蛇さん」と呼ぶその声を、女はずっと聴いていたいような気持ちになった。こんなに柔らかな心地になるような呼び方を、女は今まで一度もされたことが無い。けれどあの声を聴いているとどうしても、心がそわそわとして、今すぐにも飛び出して行きたくなってくる。女は上半身を人に化けると、民家の塀の隙間から、少女を呼んだ。


「ねぇ、そんなに何を探しているの?」


 少女は振り返って、女の近くまで駆け寄った。女は少女の顔立ちを、その目に焼き付けるかのように、正面からまじまじと見つめた。少女はその鳶色の美しい目に良く似合う、見目麗しい容姿をしていた。まるで石楠花が咲いたかのような、繊細さと華やかさを兼ね備えており、その丸々とした瞳は、あまりに無垢であった。女は自分を見つめるこの小さな人の子を、とても愛おしく思った。しかしこれは、気に入った玩具を見つけたから感じたことだと、女は心のどこかで、冷めたように思い直す。


「おねぇさん、この辺りで蛇を見なかった?」

「もしかして、それって、黒くて、大きくて……」


 女は塀に隠している蛇の姿で、少女の前に飛び出そうとした。少女を驚かせて、泣かせてやろうと思ったのだ。


「そう!とってもきれいな蛇さんだったの!」


少女は満面の笑みで笑った。女はポカンとした顔で、次の言葉を失った。少女の目はまるで、太陽の光を浴びた朝露のように輝いていた。


「きれい?」

「うん!きれいだし、かっこよかった」


 少女の頬が、興奮で少し色付く。その桃のような瑞々しさに、女は急に、少女に噛み付きたくなった。甘美な衝動が、体の芯から湧き上がってくるような気がした。成程、人の子を喰うなんて悪食な奴らがいるもんだと馬鹿にしていたが、今ならその気持ちが分かるかもしれない、と女は思う。


「ふぅん。私、その蛇の事、知ってるわよ」

「ほんと!?」

「えぇ。友達だもの」

「おねぇさん、すごい!」


 女は抑えきれず、口角が自然に上がっていた。胸の奥から、頭が痺れるような甘美な蜜が溢れ出して、自分の体を巡り、満ちていくような感じがする。信じられない程、気分が良いと思った。こういう事を、人は幸福と呼ぶのだろうか。どんな蛙や鼠や鳥を、食べた時も、こんな気分を味わったことは無い。やっぱり人間は、幸福を知っているんだ。狡賢い生きものだから。


「お願い!蛇さんにね、これ、お見舞いなの!蛇さんに、渡して欲しいの!」


 少女は一生懸命に、自分の持っている籠を、女に差し出した。女はついつい深く考えもせずに、「いいわよ」と返していた。それからはっと我に返り、心の内で舌打ちをする。少女を揶揄うのに絶好の機会を逃してしまった、と。


「ありがとう!」


 少女はまた笑った。女はそれを見るとまた言葉を失ってしまう。女は少しの悔しさにも似た、切なさを感じた。「狡い」と、反射的にそう思った。少女が駆けて、立ち去っていく。女はそれを引き留めようとしたが、出て行ってしまえば、この蛇の下半身を、彼女の目に晒してしまう事に気づいた。そして急に怖くなった。理由は分からなかった。少女の去っていく背中をただ胸の引き裂かれるような思いで呆然と見つめるしかない。この乱雑にもつれた糸のような思いを、女はどうすればいいのか知らない。ふと、少女が振り返って、「ばいばい!おねぇさん」と、屈託なく笑った。照れ臭そうにはにかんだその顔を見て、女はただ、震える息を吐き出していた。

 それが、彼女との出会いだった。







 真澄は正直、気後れせずにはいられなかった。琉夏の家はいかにもといった日本家屋の豪邸だった。屋敷をぐるりと囲う塀を辿り、瓦付きの大きな門をくぐれば、真澄はその家の木々の美しさに目を奪われた。紅葉や椿、梅、松など、様々な種類があちこちに贅沢に見られ、所々に置かれた庭石も選び抜かれていて形も色の深みもとても良い。どの木も見栄えが良く手入れが行き届いており、地面には枯れ葉一枚落ちていなかった。


(お嬢さまだったとは……)


 こんな見ず知らずの占い師なんか家に連れ込んで、本当に大丈夫か?と、真澄は場違いな感じが否めない。


「実は……不思議な現象というのは、庭の木の事なんだ。ある無花果の木が、奇妙な色に変わってしまって。家の者は、その……何か病気にかかったんだろうと……だが私は、なにか嫌な気配を感じていて……」


 瑠夏はどこか自信なさげに、真澄に打ち明けた。その嫌な気配とやらを感じているのは、恐らく彼女だけなのだろう。こんな胡散臭い占い師に、こっそり相談してきたのもそのためか、と真澄は納得した。


「その木は?」

「こちらです」


 琉夏に続いて、家の裏の方に周る。そこには若草色した大ぶりの葉を、優雅に風にそよがせる、一本の無花果の木があった。しかしその実はどれも、林檎のように鮮やかな赤色に変わってしまっている。これはどう見ても、病気などでは無いだろう。真澄が言わんとすることを分かったのか、琉夏は困ったような表情を浮かべる。


「良かった……。あなたには、この実が赤く見えているのですね」

「……と言いますと……」

「他の者には、普通の色にしか見えないようで」


 真澄はそれを聞くと何かに思い当たったのか、木に触れたり、木の周辺をぐるりと一周回って観察したりした。顎に手をやって、何やら考えを巡らせているようである。琉夏はちらと清を盗み見たが、彼女は真澄を静かに見守っているだけで、先程から指一本動かす様子は無い。


「……あの、他に何か変わったことは?」

 真澄に尋ねられ、瑠夏は思い当たる節があったのか、突然、黙り込んでしまった。真澄が不思議に思って瑠夏の表情を見れば、頬が若干、薄い桃色に染まっている。


「……何か?」

「 い、いや、なんでもない……」


 瑠夏は気を取り直したように小さく咳払いして、姿勢を正した。


「 そうだな……実は、妙な物音を家の中でよく聞くようになった。……何かが這いずるような音、だろうか。……けれどその音も、私にしか聴こえないんだ」

「 ……そうですか」


 暫く木を見たい、と真澄が言うので、瑠夏はお茶を淹れに席を外した。無花果の木を眺めながら、清と真澄は、縁側に並んで座った。真澄が思うに、無花果の木にはまじないがかけられた痕跡がある。しかもこれは、妖怪のよく使う術である事を真澄は知っていた。この屋敷には妖怪が出入りしていると見て、間違いない。真澄はまだ新しい妖気があちこちに残っているのを感じ取っていた。


「 清、あんたも感じるか?」

「……気配が一つ。あそこです。こちらを伺っている」

「おお、すごい」


 清は真澄よりも良く「見えている」のか、明確な居場所まで分かるらしい。真澄は素直に感心した。真澄は、魔法を使う事や術を掛けることには長けていたが、気配を察知することや、追跡する事に関しては若干の苦手意識があった。


「見て来ます」


 清はすらりと優美に立ちあがった。真澄が止めようとする前に、あっという間に姿を消してしまう。真澄は彼女は妖怪を見つけたら、どうするつもりなのだろうか、と一抹の不安がよぎった。自分も探しに行こうかと立ち上がろうとして、琉夏が戻ってきたことに気が付く。


「お茶を淹れてきました。……あれ、お連れの方は?」

「ちょっと電話に。すぐ戻ると思いますよ」


 琉夏はお盆から、グラスに入れた麦茶を真澄に手渡した。真澄は内心、茶托に載せた、蓋付きの茶碗なんて出されたらどうしようと思っていたので、このお嬢さまの随分庶民的な感覚に、救われた気持ちであった。真澄は堅苦しいマナーに関して、育ての親も手を焼くほど、覚えが悪かった。


「それにしても、広いお屋敷ですね。由緒ある家柄って感じがします」


 琉夏は真澄の隣に、品の良い所作で正座をする。真澄の言葉を聴いて、嬉しそうに表情を緩めた。


「えぇ……昔、私の祖先に有名な僧侶がいたんです。水不足が多いこの地を、救ったことで知られています」

「へぇ」


 この辺鄙な田舎町になぜか、ある宗派の本山がある。この地に関わりの深い僧侶が、その宗派の開祖だとかなんとか前に聞いたな、と真澄はうっすらと記憶を辿った。


「一族はそれ以降も代々、この地を守り続けようと。私もまだまだ未熟ですが、祖先の名に恥じぬよう、日々勉学と鍛錬に励む日々です」


 琉夏は美しい表情で微笑んだ。真澄は、己とは背負う物が違いすぎるその話に、全く共感も感嘆もできず、ただ曖昧な笑みを返した。真澄は出会ったばかりであったが、彼女は正に石楠花の花、俗人の手に届かぬ所に咲く、高嶺の花だと感じた。理由は簡単だ。あまりにもその眼差しが、あらゆる失意や敗北とは、無縁の所にあったからだ。真澄は普段こう言った考え方はあまり好きではないが、琉夏は生まれながらにして、傑物となり得る風格を持ち合わせているように感じられた。


 真澄は昔、師匠に教わった、老子のこの言葉が思い浮かんだ。『聖人、終に自ら大とせず。 故に能く其の大を成す。』もしも、最善たる「道」というものが本当に在るとすれば、それを歩む人は、万物の何たるかを自然と理解し生きているから、きっとあらゆる事が容易に成し遂げられるのだろう。真に才のある人と言うのは、大事を成そうとするから、成せるのではない。常人とは、そもそもの順序が違っているのだ。彼女はきっと、茶を飲むような気軽さで、輝かしい未来を得られる、類まれなる人だ。真澄は自然と、彼女のその未来が、見てみたいと思った。


「眩しい志ですね。……きっとご先祖様も喜んでいると思いますよ」

「……ふふ、そう言われると、嬉しいものですね」


 真澄はようやく、琉夏の柔らかな物言いに、純粋な敬愛の念を抱けるようになっていた。琉夏に心からの言葉を贈り、それを態度に示さんとする。


「家柄を抜きにしても、あなたは珍しいです。これほどの人はあまりいない」

「え?」


 琉夏は大きく二度、瞬きをする。その表情を見ながら、真澄は微笑んだ。


「とても気が整っていて綺麗なんです。纏うエネルギーも軽やかで良い。きっと毎日鍛錬のおかげでしょうね」

「……そうなんですか?それは喜ばしい事ですね」


 琉夏は流石、僧侶の子孫とあってか、怪しむことも無く、寧ろ嬉しそうであった。真澄はほんの少し、言い淀む。


「ただ……」

「何か……?」


 少しの間、逡巡の色を見せた後、真澄は彼女に何か問いかけようとした。しかし、その時であった。ガタッ、ガタン、と、木を強く打つような音が、どこからか響き渡る。二人はどちらともなく立ち上がり、音のする方へと向かっていった。






 菜の花がびっしりと競い合う川縁のプロムナードで、少女たちは空色や桃色のランドセルを背負い、その細足を逞しく躍動させながら歩く。まるで目に染みるような花たちの、黄色い生気に当てられたようにして。


 麗らかな春の隙間から、女はもう以前のようには、自分は生きてゆくことができないのだと思い知った。それは同じ時を生きるには刹那過ぎて、己の心を注ぐにも小さすぎる器だった。頭では理解していた。それでも、月を追い求めて光に吸い寄せられる羽虫の如く、彼女は少女を見つける度に、傍に行かずにはいられない。


 彼女は生まれながらにして、矛盾を抱えていた。聖なるものと、卑しい物。人間の恐れと、神の愛。彼女の足元には常に、少女の哀しい犠牲が在った。これを因果と片づけるのは容易いが、あえてこれを、彼女の視点から、いつか祝福だと飲み込める日が来るとする。すると愛とは、時に平気な顔して不道理で、その根源は非常に厚かましいように思われる。彼女は、己の言動が非理論的なものであろうが、今更誰に恥じる事も無かった。彼女からすれば、愛以上に恥知らずなものなど、この世には無かったためである。


 その少女の言葉は、強い言霊でも持っているのか、常に取り巻きの童らを頷かせ、一目置かれる力を持っていた。少女たちも少女たちなりの序列があって、彼女はそこでは王に等しかった。しかし彼女は、いささか謙虚すぎて、王たる自覚に少し欠けているように見える。女はそんな風に思いながら、彼らを興味深く見守った。


「るかちゃんは将来、どうするの?」

「るかちゃんは何でもできるから、きっとそうりだいじんになれるよ!」


 「大臣」という言葉に、女はほら、と内心得意げな気持ちでそれを聞いた。彼女は俗世の事はよく分からない。だがきっと、位の高い官職の事だろう。その程度なら分かる。しかし、もしもあんな無垢な子供が君主になってしまえば、天地は驚きひっくり返るだろう。きっと鳳凰も困り果てて、連日空を迷子のまま飛び回る。この世はきっと滅んでしまう。女はその様子を冗談交じりに夢想して、思わず一人口角が上がっていた。


「わたしは将来強くなって、大人になったら、きれいなお嫁さんと結婚したいな」


 少女は凛とした声でそう言った。すると周りの童らが、顔を見合わせてくすくすと笑った。そして口々にこう言った。「るかちゃんは女の子だから、お嫁さんはもらえないよ」「るかちゃんはお嫁さんになる側だよ」と。まるで彼女が、珍しく冗談を言ったような雰囲気だ。しかし女は気付いてしまった。「そうか、そうだよね」と笑って返した少女の瞳が、少し悲しそうな色を帯びていた事に。

 女はこの子の願いを叶えてあげようと思った。「ならば私が、お嫁さんになってあげる」と。これが自分の因果だろうが何だろうが、関係ない。彼女は自分のする事が、小川がきらきらと、銀色に煌めくのに似ていると思えた。初めて、心躍った。生々流転から、彼女は得難い一枝の花を拾い上げたのだ。女は、あの子が喜ぶ様を心に描いてみるだけでも、あちこちに自慢して回りたくなる。私はとても正しい事を見つけたぞ、と。聴いてくれ、初めて、いいことをしたのだ、と。






 広々とした濡れ縁の床板に、無数の棘が突き刺さる。清は軽やかに飛び退いて、それらを容易く躱した。しかし足の着いた所から、黒い靄が噴き出し始める。それらは粘ついていて重く、あっという間に清の足を絡め取った。清は剣を抜こうとするが、頭上から大きな何かが降ってきて、体勢を崩してしまう。ガチャン、と剣が手元から滑り落ちる音がした。黒く禍々しい何者かは、清の体を封じ込めると、そのまま両手の手にものすごい力を掛けて、彼女の白い首を絞め付けた。


「……っ、」

「清!」


 清は真澄の呼ぶ声に、軽く目を見張った。できるだけ首を持ち上げて、思い切り相手の腕に噛みつくと、油断した隙に、腹を思い切り蹴り付ける。


「ぐ、うっ!」


 女の忌々しそうな呻き声が上がった。清はすらりと立ち上がると、剣で邪気を払い、逃げ出そうとする女の尻尾を、思い切り剣で床に突き刺した。


「……ああぁっ!!!」

「ちょ、やり過ぎだって!」


 真澄は慌てて駆け寄って、女の風貌を確かめた。琉夏もそれに追いついて、驚きに目を見張る。彼女も見えているのか、と真澄は密かに片眉を吊り上げる。


「これは……」

「蛇……!?」


 女は鋭い瞳で、真澄たちを睨みつけた。金細工の如く煌めく虹彩に、ナイフで切り裂いたような瞳孔の漆黒が、興奮で膨張する。彼誰時の暗雲の下、漆黒の鱗は余計に生々しく輝き、女の青白い顔はより生気を失ったように蒼く見えた。それは蛇の下半身に、人間の女の上半身を持つ妖怪だった。殺気立つ蛇女の、物凄い形相に、琉夏は僅かにたじろいだ。それを見て、女は彼女に尚更強く、ありったけの憎悪を注いだ。


「その女は私が殺す。邪魔するならお前らも嬲り殺すぞ……!」

「わ、私を……?」


 あまりに身に覚えの無い事だったのか、流石の琉夏も、僅かに動揺を見せていた。清に今にも剣で、全身を引き裂かれそうな状況にも関わらず、女の勢いは留まる処を知らない。


「分かった分かった。ちょっと待って」


 真澄は女の下にしゃがみこんだ。真澄は以前、親しい魔物から、ある話を聞いていた。今から数百年前、人に悪戯をし、盗みを働いていた蛇の妖怪がいた。見かねたこの地に住む僧侶が、その大蛇を退治してしまい、蛇の妖怪は、木の洞に閉じこもってしまう。彼女はこのまま土くれに還るかと思われた。しかしここ数年、突然に姿を見せて戻ってきたかと思うと、懲りずにまた人里に下りているらしい。真澄は確信を持って、彼女に話しかけていた。


「あんた、椿だな。会うのは初めてだな……ここはあんたの縄張りじゃないだろう?一体何してるんだ」


 真澄は椿がどのあたりに住んでいるかは何となく見当が付いていた。真澄の住む所よりずっと西側、更に人里から離れた山の奥地だ。そこから更にずっと標高の高い所に向かえば、真澄と関わりの深い妖魔や仙人が住み着いており、何度か通りがかった事がある。やけに鬱蒼としていて、風通しの悪そうな場所だったと記憶していた。


「あんた……胸糞悪い魔女野郎か。噂には聞いてるわよ。ここらでデカイ面してふんぞり返ってるようだけど、他所者の分際で良い気になるなよな。あんたはどうせ、あのクソババアの……」

「 わかった、わかった」


 真澄は途端にうんざりして、椿をあしらった。それ以上は聞きたくも無い。


「この人を恨む理由は知らないけど、あんたみたいな長生きな物の怪が、なぜこんな若い人間ひとりに拘る?腹が減ったなら蛙でも鼠でも食えばいいだろ」


 真澄の言葉に椿は沈黙する。先程とは打って変わって、もはや瑠夏とは目も合わせようとしない。視界に入れたくないとばかりに、頑なにそっぽを向いていた。


「 ……あんたには関係ないね」

「 目的があるなら、場合によっちゃ話し合いで解決できる」

「 ハッ!話し合いだって?……馬鹿にするな!」


 椿は忌々しげに、顔を歪めると、その身が引き裂かれるのも構わずに、剣から尾を引き抜いた。鮮血が飛び散るとともに、椿は宙に舞い上がる。清の振りかざした一刀も、ひらりと躱し、一頻り狂ったように笑った。


「 ああ、そうさ、私は椿だ!お前の先祖のあの忌々しいクソ坊主に、死ぬより辛い酷い仕打ちを受けた椿だ!!ただ庭の果物を食べただけで!そのせいで私が何百年、木の洞で苦しんだと思ってる!?あんたたちが憎いんだよ!!……これで満足か?」


 寒々とした藍色の空に、黒い尾が幾重にも渦を巻いていた。女の顔は月光から陰となっていて、表情までは分からない。冷ややかな軽蔑を吐き付けて、彼女は身を翻した。


「 待ってくれ!」


瑠夏は蛇女を呼び止めるように、靴も履かぬまま庭へ飛び出す。


「 近寄るな!」

「 危ない!」


 椿は尻尾を一振りすると、いくつもの鋭い棘が、瑠夏に向かって降り注いだ。真澄は素早く、彼女の腕を引っ張って、棘から彼女を退けさせる。

 その内に瓦の上に登っていた清が、椿に相対していた。銀の刀身が、月明かりを鋭利に映し輝いている。


「 どうするつもり?私を殺す?」

「 殺しなどしない……自暴自棄になるな」

「 …………はぁ?あんた、何様だよ……!勝手に分かったような顔して、知ったような口を利くな!」


 激しい閃光が走った。真澄が眩しさに閉じていた瞼を開けば、そこには人間の平均的な身長よりも、一回り大きな蛇が、清の利き腕に深く噛み付き、激しく暴れまわっていた。清は僅かに顔を歪ませながらも、腕ごと椿を振り回し、屋根の瓦は次々と叩き割れ、巨大な尾に払われるがまま、地上には瓦礫の雨が降り注ぐ。真澄はそれを見て青褪めた。屋根の修理って幾らかかるのだろうか。考えたくも無い。


(こいつら血の気が多すぎる……どうにかしないと……)


 真澄はふと、琉夏が姿を消したことに気付いた。一体どこに行ったのかと思うと、彼女が庭の向こうから、颯爽と舞い戻ってくるのが見える。琉夏はその手に大きな弓を持っていた。真澄は言葉を失った。彼女から、まるで白き光が放っているように見えたからだ。


 琉夏は波一つ立たぬ瞳で、屋根の方を見つめると、音も無く弓に矢をつがえた。すらりとした首筋を晒して、弓を天に向かい、構えた。水のように流れる、静謐で美しい所作だった。きりきりと乾いた音を立てながら、弓が大きくしなる。その間にも、彼女の眼差しはぶれのひとつも無く、まるで水上の蓮のように清らかで、無我である。

 涼やかな弦音を立てて、放たれた矢が、まるで天を切り裂くように飛び立つ。無駄のない放物線を描き、瓦を避けると、しっかりと矢は野地板に突き刺さった。矢には縄が括り付けられており、琉夏は弓を置くと、忍者が鉤縄で塀を越えるが如く、縄を頼りに柱を伝って、屋根に登らんとした。真澄は心配になって、思わず口を挟んでしまう。


「大丈夫ですか?落ちません?」

「大丈夫、あの矢は結構丈夫だから」


 琉夏は穏やかに返した。そこで真澄は、琉夏の腰に、木刀が刺さっていることに気付いてしまう。一瞬、眩暈がした。


(木刀で……!?)


 真澄は急ぎ周りを見渡した。手入れの行き届いている屋敷だけあって、都合よく長い棒きれなど落ちてはいない。しかし真澄は運が良いことに、近くに小さな物置小屋があり、そこに一本の箒が立てかけられているのを見た。琉夏はそうしている間にも屋根によじ登り、二人の間に恐れることも無く堂々と割り込んでいた。矢は折れなかったらしい。真澄は小さな小瓶を取り出すと、緑色の液体を、素早く体に吹き付けた。魔女の飛行薬である。箒の柄に腰かけて、それから屋根に飛び上がった。


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