無花果の木《前編》
太陽も登りきらない、青褪めた、空や草花がまだ眠っている頃。道着を着た女は、屋敷の縁側でただ黙して、独り只管打坐に打ち込まんとしていた。女の髪は高い位置で結われ、艶やかに白の上衣を滑り落ちて、凛と伸ばされた背筋が、彼女の洗練された精神を表しているようである。細い鼻筋や薄い桜色の唇が涼やかで美しい顔立ちをしているが、その表情はどこか苦し気で、眉間には微かに皺が寄せられていた。
女は雑念を柳のように受け流し、呼吸に専念することにただ努める。やがて女の心象に、一筋の光明が見えたかと思われた時だ。肉体の位置覚が飽和したかのように、万象に溶け合っていたはずの素肌に、ゆらりと触れたモノがあった。女は驚き目を開けそうになったが、直ぐにそれが己の心の魔のような何かであると察して、より深く息をすることで心を落ち着ける。そのモノは段々と明確な意図を持って、彼女の腕や足を撫で付け始める。ぼんやりと光る靄のようなそれは、やがて女の青白い手へと変わる。しかし、悪魔マーラの誘惑に耐える仏陀の如く、女はそれを歯牙にもかけなかった。青白い手はまるで女を恋人の如く優しく甘美な手付きで誘う。
次第にその手は大胆になり、女の首筋を撫でたかと思うと、しっかりと合わせられた衿の隙間に、手を差し込まんとした。女は急いで目を開けた。その感覚が、あまりにも生々しかったためだ。しかし目の前にはいつもと変わらぬ屋敷の塀や、植えられた木々、先ほどまで稽古に使っていた巻藁などが目に映るだけで、人の気配は一つも無い。
女はため息を吐いて、前髪を掻き上げた。そうして、己の弱さを心の内で叱責した。鳶色に透き通った瞳が、物憂げに揺れる。困惑と恥辱が、女の胸底に尾を引いていた。
(どうして、あんな夢ばかり……)
猫は日向ぼっこが好きだった。かの人の優しさに似ていて、とても温かくて気持ちが良いからだ。柔らかい若草色の芝の上をいたずらに転がっていると、真澄が庭の端に作った畑の傍にまで行き着く。そこには多種多様な植物が植えられており、中にはリリィにとっては、危険な代物も平気であった。それらを穏やかな日差しを浴びながら、ぼんやりと眺めて見る。丁度目の前にあったのは、真澄が百合根を収穫したくて植えた、ヤマユリだ。随分と背丈が伸びて、葉が生い茂っている。蕾を付けるのも、すぐ先であろう。
(百合の花……)
リリィはぼんやりと、それを見た。自分の付けた、リリィという仮の名は、以前、百合の花を意味する外国語を、真澄が教えてくれたのを覚えていたからだった。真澄には似合わないと笑われたが、リリィは「リ」という響きが気に入っただけであって、別に深い意味は無いと、言い張っている。リリィはふと、先日飲んだ黒い液体のことを思いだして、少しだけ、感傷的な気持ちになった。この花も、猫にとっては毒のある植物だった。
(毒には慣れてると思ってたのにな)
「ふぎゃっ!」
突然掴まれたしっぽに、リリィは驚いて飛び起きた。こんな無礼な振る舞いをする奴は、あいつしかいない、と。見れば、真澄がにやにやとした表情で屈み込んでいた。出会った頃はまだ、泣き虫なクソガキだった癖に、全く生意気になったもんだ、とリリィは面白くない気持ちで鼻を鳴らした。
「おい、もう毒は抜けたのか?」
「まぁな。お前なんだあのリビング、滅茶苦茶だったぞ。窓ガラスも割れてたし」
「もう直したよ。お前がぼろぼろにしたソファもな。ほんと散々だった」
真澄はリリィの隣に胡坐をかいて座り込んだ。真澄にじろりと睨まれて、リリィは何となく身の危険を感じ、素早く少年の姿になった。真澄の隣に、素知らぬ顔で寝転ぶ。空が明るい空色をしていて、のんびりと雲が横切った。山の中に家があるため、鳥の声があちこちから絶えず聞こえてくる。千年経っても自然は変わらず暢気なもんだ、とリリィは思った。
「ほらよ、これ」
ついでに、とでもいう風に、リリィは真澄の手のひらを出させ、お札と小銭を何枚か載せた。真澄は、はなから全額返ってくるとは思っていなかったので、少し意外に思う。
「もういいのか?」
「あ?」
リリィは視線だけで真澄をチラリと見た。
「会いたい人でもいたんじゃないの」
「いや。……まさか」
リリィは薄ら笑いを浮かべて、そう言った。ならいいけど、と真澄は適当にその辺の雑草を弄り始める。リリィはそれを見つつ、少年特有の少し高い声で真澄に問いかけた。
「それよりお前、あの野郎、いつまで俺の縄張りに置いとくつもりだよ」
「私の、家だ!」
真澄の主張もさらりと受け流して、リリィはうんざりしたように目を閉じた。
「獣臭くてしょーがねぇんだよ。勘弁してくれ」
(……獣? ……精霊の類ではないのか?)
真澄は揶揄うように笑った。リリィはそれを聞いて、鬱陶しそうに眉を顰める。
「やっぱり、獣的な本能?」
「馬鹿。お前ちょっと、仲良くし過ぎなんだよ。攫われても知らねーぞ」
「攫われる?……どこに?」
「あそこに」
リリィが腕を上げ、指差したのは空だった。透き通っていて、まるで果ての無いように見える青空。全く揶揄っている様子は無く、真澄は困惑して、リリィと空を何度か交互に見やった。
「……マジで言ってるのか?」
リリィはこれ以上話すことは無い、という風に軽く両手を上げて、そのまま昼寝を始めた。そよ風が吹き付けて、少年の前髪と戯れる。真澄はなんだかすっきりしない気持ちのまま、立ちあがってその場を後にする。たった一度だけ目にした、清の傷だらけの翼が、脳裏に浮かび上がっていた。
夕刻、真澄は清と二人で、街中の商店街を歩いていた。真澄は時折ここに来て、路上占いを行っていた。実際の所は、一日数人見れればいい方で、大して宣伝効果を期待しての事ではない。占いの練習のついでに、小銭稼ぎもできたらいいな、位の感じだ。そのくらいの心構えの方が、時化た日でも、そこまで心が痛まない。真澄はそう考えていたが、実は外れ知らずの彼女の占いは、密かにファンが付いている。真澄は常に神出鬼没で、SNSもしていないので、地元では見かけたら運が良い占い師として、占い好きの間では、そこそこ有名になりつつあった。真澄には預かり知らぬ話である。
いつも店の閉まっている時間に、気前よく店前を貸してくれる雑貨屋の店主がいて、真澄はその場所に向かった。真澄は清が付いて来るとは思っておらず、しつこいかもしれないとは思いつつも、もう一度清に尋ねた。
「傷はもういいの?」
「……この位、一晩で治る」
「ふぅん……」
真澄はしばし考えてから、清の腹を指で軽くつついた。清は少しだけ息を呑んで、身をさっと後ろにやる。真澄はそれを見て小さく笑った。
「嘘つき。そんなに私が心配な訳?」
真澄はわざと拗ねるような口調でそう言った。
「……私がいながら……」
「……なに?」
清はなぜか、非常に哀傷に満ちた表情を浮かべて、真澄の頬に手を伸ばした。清の表情は、あまりに神秘的で優しかった。彼女の心、その純真すぎる温情のような何かは、拒絶するのが躊躇われる程柔い。真澄はあっという間に、その心に包まれてしまっていた。今まで抱いたことの無いような、胸のざわめきを感じて、真澄は落ち着かない気持ちになる。しかし胸のどこかで、自分はこれを何処かで一度、知っているような気もしていた。
清は結局、真澄の頬に触れること無く、躊躇うように手を下ろす。
「 怪我をさせた……だから……」
「 気にしなくていいのに。あなた、目に見えない奴らの中でも……変わってる」
真澄はつい、思うままを口にしていた。清は何か口にしようとしたが、言葉に困ったようにただ微笑んだ。
「まぁ……そこまで言うなら、今日は普通に占いをするだけだし。そばで座ってなよ」
「……えぇ」
真澄は丁度戸締りをしていた店主に挨拶をしてから、テーブルや道具の準備を始めた。といっても、折り畳みのテーブルに布を被せて、それっぽく、「占い」の看板を出せば完成だ。今日はタロットやオラクルカードを使うので、後はもうカードをケースから出しておけばいい。今日は清の分も椅子を持ってきていたので、二人で並んで座る。清はタロットに興味津々で、真澄もお客を待っている間に丁度いいと、まずは大アルカナという、強い意味を持つカードから、一枚ずつ説明していった。清は、ただ聴いているだけでなく、質問にも意欲的だった。聞き手が良いと、話して楽しいものだな、と真澄は気分が良くなる。
「真澄は占いは独学で習ったのですか?」
感心したように清が尋ねた。真澄はゆっくりとかぶりを振って、微笑んだまま答えた。
「いや、占いの師匠がいる。あの人本当にすごくて、元々は易や算命学……中国の占いをやってたんだけど、西洋の占いにも詳しくて、なんでも知ってるんだ」
真澄は師匠の艶やかな長い黒髪や、雪のように白い肌を思い浮かべる。本当に賢くて美しい、完璧な人で、真澄は彼女が大好きだった。師匠は植物の名前や難しい文字、目に見えない者たちのことまで、なんでも知っていた。
「尊敬しているんですね」
「まぁ、育ての親のようなものだしね……あ、お客さんかな?」
見ると若い女が近づいてくるのが見える。清は静かに頷いた。その瞳には、密やかな光が、静かに煌めいていたが、真澄はその事に気付くことは無かった。
琉夏は駅に向かう道で、声を掛けられて振り返った。そこには大学の後輩たちがいて、皆一様に、琉夏が所属する弓道サークルの女子部員たちだった。琉夏は緩く微笑んで、どうしたの?と声を掛ける。
「琉夏先輩、よかったら、お茶しに……」
「あ、ずるい!私も!」
一番初めに手を上げた女の子が、他の子たちに次々に小突かれる。彼女たちは恥じらいながらも、琉夏に対しての熱っぽい視線を顕著に、その瞳にチラつかせていた。琉夏はスポーツ推薦を使わず、地元一の偏差値の大学に首席で合格した。勿論彼女の大学は、弓道に力を入れている訳では無い。それにもかかわらず、未だ琉夏は、大会で優勝を総なめにしており、弓道界でも期待の星であった。琉夏の所属するサークルは非常に緩く、練習も週に一度程度のものだ。しかし琉夏が毎日自主練に道場に現れるため、突然練習に熱心になり始めた、彼女たちのような部員たちも少なくない。琉夏は性格も明朗、容姿端麗で文武両道という、絵にかいたような才媛であった。
「はは、ごめん、今日は……」
そういう琉夏も、彼女たちの押しの強さには、毎回少し戸惑っていた。琉夏が少し迷っていると取ったのか、慌てて後輩の一人が、商店街の方を指差して琉夏の注意を引いた。
「先輩、見てください!占いですって!やってみます?」
「馬鹿、琉夏先輩があんな怪しそうな物する訳ないでしょ」
見ると二人の女が、小さなテーブルの上にカードを広げ、何やら楽し気に話している。どちらも髪の毛が明るく、綺麗に整えられており、身なりも清潔で、同世代位の若者に見える。しかし確かに、机の前面に張られた「占い」の文字は、いかにも怪しげな感じであった。恐らく筆で描いたのだろうが、字があまり類を見ない程うねり踊っていて、おどろおどろしさを醸し出している。琉夏は少し興味を惹かれた。
「あの人、たまーにあそこにいるよね」
「ほんと?当たるのかな?」
後輩たちはくすくすと笑い合いながら、好き勝手なことを言い合った。琉夏はそれを微笑ましい気持ちで見ながらも、心の内でこの子たちと今日はここで別れることに決める。
「ごめん、今日は用事があるから、気をつけて帰って」
琉夏は丁寧に一人一人に、別れの挨拶をした。それに満足したのか、後輩たちは大人しくそれぞれの家路に散らばった。かわいい後輩たちに緩く手を振って、それを見送る。琉夏は彼女たちの姿が見えなくなってから、占い師のいる方へと足を進めた。
彼女たちは双方ともに容姿が整っていた。一見友人のようだが、姉妹にも見えなくはない。琉夏は近づく程、二人の関係が少し気になった。二人は非常に打ち解けていて、相槌を打っている方の女性は特に、深い思いやりに満ちた表情を浮かべており、相手を大切な存在と思っていることが見て取れた。
その女性は明るいホワイトブロンドの髪色をしており、緩やかに巻かれたロングヘアーに、物静かそうな顔立ちをしている清廉な美女だった。服装も気品のあるシンプルなワンピースで、涼し気な翠色が彼女の雰囲気に良く似合っている。
対してもう一人の方は、ハニーブロンドの髪色をした、鋭い横長の目元が美しい、近寄りがたい雰囲気のある美女だ。服装は大胆に肩を出したオフショルダーの黒色のトップスに、膝に大きく穴の開いた、ダメージジーンズを履いている。気まぐれな野良猫が人間になったら、彼女のような容姿をしているのかもしれない、と琉夏は感じた。
琉夏が話しかけようとしたときには、向こうもこちらに気付いて、会話を切り上げていた。座っている位置からして、猫のような彼女が占い師だろうと検討を付ける。
「あなた、占い師……か?」
琉夏はおずおずと尋ねた。
「は?はい……そうですけど」
彼女は少々訝し気に眉を顰めた。琉夏は慌てて、弁明するように、続ける。
「いや、あの、もしかしたら不思議な現象の類にも、詳しいのではないかと思って」
「不思議な現象?」
「例えば……呪いとか……?」
琉夏は話しかけたのは失敗だったかもしれないな、と思い始めていた。考えれば分かる話だが、占い師とはいえ、幽霊や呪いといった物にまで精通しているとは限らない。彼女も困っているし、謝罪して立ち去ることにする。
「すまない、変な事を言った。忘れてくれ」
「……いや、話を聴きますよ」
彼女は立ち上がって、琉夏に視線を合わせた。薄く微笑んだ彼女に、琉夏もほっとして笑みを零した。
「ありがとう。私は佐伯琉夏。琉夏でいい」
「なら、私は真澄で。よろしく」
「あぁ。よろしく頼む」
二人は自然に握手を交わしていた。
「そちらの方も占いを?」
琉夏に尋ねられ、真澄は少し思案してから、面の皮を厚くしてこう言った。
「えー、いや、この子は……助手です」
「清といいます」
「そうか。よろしく、清」
清の会釈に丁寧に返してから、琉夏は本題に入った。真澄は少し話を聴いてから、実際に家に連れて行ってもらえないか彼女に尋ねた。琉夏は驚きながらも、それを承諾した。