呪われた友人《後編》
人は「弱さ」というものをその人の選んだ道によって推し量っているように思えることがしばしばある。その道が歩くのに容易かったかどうかなど、他人に理解できるはずなのに。目に見えぬ地理、地形を、違う場所からやってきた人々によって、無遠慮に品定めされることを、どうして平気だと笑えるだろうか。花はそういった視線に晒される事を、いつも耐え難く思った。「スナックで働く、頭の悪く、会話すらまともにできない、世間知らずの女」、それが彼女だ。彼らが抱く自分の像が、自分の体よりはるか大きく膨れ上がっていく。それは太陽さえも覆い隠してしまうほど巨大な曇天で、いつか自分の身を圧し潰してしまうのではないかと思われた。
例え己にとって最善の選択をしてきたからといって、それが他人を納得させる道理があるものだとは限らない。人々には刷り込みのように、正当化が課されている。それはまるで呪いのようだ、と花は感じた。花は、「一体どうして、平気なのだろうか」と漠然と浮かび上がる有象無象に問う。「一体どうして私は間違い続けるのだろうか」と哀しむ。蓋をしても漏れ出てくる臭気のように、私はいくら取り繕っても仕様がない、と花はやりきれなかった。
真澄ならば、こんな時、何を思うのだろうか、とふっと思った。彼女は唯一、花の「弱さ」というものを、正面から見つめても、花を「一人の人間」として、変わることなく見続けてくれた人だった。けれど花の中の真澄は、ただ冷淡な横顔でどこか遠くを見つめていて、その答えは上手く得られない。
(呪い……って、真澄ちゃん言ってたけど、結局あれは何だったんだろう?)
真澄の腕を切り裂いた無数の風のような何かを思い返す。もし本当に呪いがあったとして、花は自分を呪って、一体何になるのだろう、と思う。ただただ真澄に申し訳なく、胸が詰まるようだった。加えて花はぼんやりと、一つ気になっていることがあった。それは真澄の隣に立っていた、初めて見る女の人の事だ。顔はぼんやりとしていて思い出せないが、彼女を彩る、爽やかな黄緑色や、透き通った水色の光たちが、まるで空気の美しい森林のようだったことは覚えている。加えて彼女の芯の部分は、すらりとした銀製の真っ直ぐな刃のようで、背中の大きくて立派な翼からは、軽やかな白い羽根が、ひらひらと落ちて、まるで美しい戦士のような人だった。全身に、柔らかな花びらのような優しい感触を纏っていて、とても優しそうだった事も、今でも易々と思い返すことができた。
(でも、あれは……何だろう?澄んだ川のように綺麗だけど……一瞬見えた、どす黒い、焼け焦げた木のような、何か……怖いもの……)
花には、他の人の、「感じている事」や「考えている事」が見えていた。それらは人によって、非常に様々な色や形、音などになって、花の視界に現れる。人の多い場所では、あまりの情報量の嵐に目が回り、視界も埋め尽くされ、歩くことさえ儘ならない事が常だった。これらを人の魂の色だとかオーラだとか、生霊なんて呼ぶ人もいるかもしれないが、彼女はそう呼んで一括りにしてしまう事には強い違和感があった。彼女にとってそれは、ただ目に見える、生々しい現実そのものであり、人の容姿や振る舞いよりも先に、世界を判断する情報であったというだけだからだ。そういう花の特殊な世界との関わり方を、傍から見た純子が腹立たしく思っていることを知りつつも、彼女は自分の感覚を、二の次にする事ができない。それはある意味仕方の無い事だった。純子から見れば、花はやけにぼうっとしていて、自分の世界に閉じ籠もって周りを見ようとしない、困った子だったが、花にとってそれらを打ち捨てるという事は、生きていくこと自体を投げ出す事に等しかったからだ。
夕方の僅かに気怠い、脹ら脛を引き摺るようにして、田畑の中に住宅やアパートが点在する中を、のっぺりと引き伸ばされた平らな道を歩く。駅や学校、大きな寺の本山など、人の集まる場所から離れてしまえば、この町はとても静かで、人通りも少ない。花が歩く、西の方角には隣町との境に沿うようにしてなだらかな山々が連なっている。その合間にすっぽりと沈んで行く火の色が、山の黒々とした輪郭を縁取るように、橙色の滲んだ帯を作っていて、なんとももの淋しい感じがする。
ふと、花の長く伸びる影の後ろに、コンクリートを硬く鳴らす足音が迫っていることに気づき、花は道の端に寄った。しかしその足音は何だか妙な感じがして、花は少し怖くなる。振り返ろうかと思っている内に、有無を言わせぬといった風な、甲高い女の声に花は捕まった。
「ちょっと、あんたでしょ?あんたなんでしょ!?」
花は聞き覚えのあるその声に振り返った。それは以前、客を取られたと難癖をつけてきたスナックの女、マリだった。マリは明るい茶髪に染めたロングヘアーを振り乱し、怒りに顔を歪ませ、今にも花に噛みついてきそうな勢いだった。
「マリ、ちゃん……?」
驚いて目を見開く花に、マリは我を忘れたかのように、その胸倉を掴み上げて、花を激しく揺さぶった。次々に耳が劈くような高い声で、罵詈雑言を花に投げかけるが、花には真っ赤な渦が勢いよく自分に襲い掛かり、黒ずんだ瘴気のような悍ましい靄のような何かがマリから次々と吹き出す様子ばかりが見えて、何が起こっているのかがさっぱり分からない。おまけに体を揺さぶられているせいで頭がぐらぐらとして、眩暈までしてくる。覚束ない視界の中でやっと、花は女の姿を垣間見た。マリは部屋着のまま飛び出してきたような恰好をしていて、腕や足が剥き出しになっていた。しかしその四肢は見るも無残な傷跡でズタズタになっていて、マリの白い肌は、目も当てられないような有様である。花は愕然とした。マリの傷ほど惨い有様ではないが、真澄の腕の傷と、あまりにそっくりだったからだ。
「あんたが……あんたがやったんでしょ!?私の腕、私の足をかえしてよ!!!」
女はもはや泣いているのか怒っているのか分からないような様子で、すっかり半狂乱になっていた。花はついに殴られでもするのだろうかと、ぎゅっと硬く目を瞑った。
「待って!私は何も知らな……っ!」
突然、女の動きがぴたりと止まった。花が恐る恐る目を開けると、そのままずるずると力が抜けたようにして、女が崩れ落ちる。花はそれを受け止めるような形になってしまい、一緒に地面に座り込んだ。女は意識を失っていた。顔を上げるとそこには真澄と、これまた花の知らない女がたっていた。真澄はマリを花から引き剥がすと、仰向けにひっくり返した。
「ま、真澄ちゃん……!」
花はどっと安心感が押し寄せてきて、真澄に抱き着いた。ぴーぴーと泣く花に呆れて、真澄はただ眉根を寄せる。
「鼻水付くでしょ、離れて」
「っ、ひどい……!」
真澄は暫くマリの様子を確かめた後、淡泊に呟いた。
「あんた、ほんとに惨いことするな」
「そう?人を呪ったのに」
もう一人の女は腕組みをしつつ、飄々と返した。花は口も出せずに、二人を交互に見やった。
「……女の子だぞ。可哀相に」
真澄はマリの肌をするりと肌を撫でた。すると無惨だった切傷が、随分と薄くなる。それを見た女が、ヒュウ、と口笛を吹いた。
「すごい」
真澄はそれを無視して、マリの服のポケットを探った。
「……真澄ちゃん、泥棒するの?」
花は少しだけ心配になって尋ねた。
「馬鹿、違うよ。この子、知り合い?」
「うん。スナックで働いてる子……前にちょっとあって……」
真澄はそれを聞いて、益々不審に思った。呪いをかけたのはこの子だったとしたら、それは少しおかしい。ポケットには、急いで部屋を飛び出してきたのか、やはり何もない。
(やっぱり、普通の子みたいだな……魔力も霊力もさほど無いし)
ふと真澄は、女の付けていた腕輪が目に留まった。シルバーのブレスレットのようだが、真っ黒な煤が付いたように汚れてしまっている。真澄は慎重にそれを取り上げた。
(身代わり、か……)
しかしそのブレスレッドは、取り上げて間もなくして、脆く崩れ落ち、さらさらと風に散ってしまう。もうとっくに、役目を果たし終えていたようだ。真澄は何の手掛かりも得られなかったことに落胆した。一方で真澄と現れた若い女……粋は、上機嫌に花に話しかけていた。
「やぁ」
「あなたは……?」
花は警戒心を滲ませて、粋の方を見た。あれ、なんだか目が合わないなと不思議に思いつつも、粋はうっそりと微笑んだ。花は段々と警戒を超えて、怯えたような表情をしているが、粋は特に気にした様子も無い。まぁこういう感じの子なのかな、などと暢気に考えていた。
「探しものは見つかった?」
「……あなたが見つけてくれたんですか?」
「え?」
花はぱっと顔を上げて、粋を見た。粋は思わず、その無垢な瞳の色に、驚いて見入ってしまう。けれどその瞳は、慌てて我に返った花によって、俯いて隠れてしまう。
「す、すいません……」
粋は気を取り直して、花に微笑みかけた。近くなった距離に、花は怖気づいて後ずさった。
「ところでさ、かわいいね。ライン交換しようよ?」
「おい、やめろ。」
真澄がさっとその間に割り込んだ。花はこっそり、ほっとして息を吐く。真澄は花と軽く肩を組んで、そのまま歩き出す。
「あ、ちょっと……」
「送ってくよ。おい、今日見聞きしたことは互いに忘れた……それでいいな?あんたはその女、なんとかしろよ。」
自分で蒔いた種なんだから、と言外に含まれている事は粋にも直ぐに分かった。
「……はぁ、」
粋は肩を落とした。それにしても、である。せっかくまた会えたのに、つくづく最近ツキがないな、と、自分の運を呪った。
「主様、良いのですか」
「まぁ、人形はあっさり回収できたし。依頼主は満足するでしょ。後は様子見だね……それにしても、あれが噂の魔女か……」
粋は二人の後ろ姿を見つめた。その表情を見て、藍は小さく肩をすくめたが、主に気付かれることはなかった。
「真澄ちゃん、どうして私のいる場所が分かったの?」
花が不思議そうに訊ねると、真澄はあっさりと肩を離した。ポケットに手を突っ込んで、足元の小石を蹴り付ける。いつもと変わらない真澄の様子に、花は思わずふっと笑った。
「大したことじゃないよ。それよりさ、あの女に近づくなよ。あいつめっちゃ性格悪いぞ」
思い切り顔を顰めた真澄に、花は戸惑った。真澄がこういう風に花に対して忠告するのも、中々珍しかった。
「…………知り合いなの?」
「いや、全然。さっきいきなり家に押しかけてきて私の家荒らしていったんだよ。最悪」
花は先ほどみた女性の姿を思い返そうとするが、やはりうまくいかなかった。けれど彼女はやけに堂々としていて、悪事とは無縁そうだったけどなぁ、なんて思った。「ある意味、すごく怖い人ではあったけれど。決めつけちゃ良くないよね」などと、花は心の内で呟く。
「……真澄ちゃん、なにかしちゃったんじゃないの?」
「はぁ!?してないよ!」
真澄はぐるりと振り返って、花を見た。まったく不本意そうな表情を浮かべている。真澄の色素が薄く、柔らかそうな髪が靡く。暗くなった辺りを、鼻白むような、お粗末な街灯が照らしていた。僅かに逆光になった真澄が、慎ましい星空を背負っている。頭の後ろに回された腕には、包帯が巻き付けられていて、花は何と言えばいいか分からない、切なさを感じた。
「悪い人じゃないかもしれないし……」
「あっそ」
真澄はつまらなさそうにそっぽを向いた。
「もう……」
真澄が話しかけても返事をしなくなってしまい、花は少し微笑んで、真澄の隣に駆け寄った。
「……ありがとう。真澄ちゃん、大好きだよ」
「……」
真澄は何も言わず、そっぽを向いた。
(不器用なんだから……)
花はくすりと笑った。首元のネックレスが、少し軽くなったように感じて、不思議だった。
家に帰って真澄は、暴れ回る一匹の黒猫を見つけて、思わず後ずさった。
ぶち破った玄関のドアは適当に直しておいたが、床には割れたグラスやぐちゃぐちゃのテーブルクロス、清の流した血や白い羽が散乱していて、ただでさえ目も当てられない。幸いリビングのソファは何事も無く無事だった。しかしそこには、今度はリリィが苦し気に、腹を押さえながら、呻き声を上げ続けている。ソファのカバーが、爪でズタズタになってしまっている。真澄は傍に座って、リリィの様子を覗き込んだ。
「なんでそんなにのたうち回ってるんだよ。変なものでも広い食いした?」
「コーヒー……」
リリィが息も絶え絶えに呟く。真澄は驚き声を上げた。
「コーヒー!?馬鹿!あれは猫には毒だよ!」
「うるせぇ……黙れ……」
リリィはそこそこ長生きの妖怪のため、一口位なら、何とかなるとでも思ったのだろう。真澄は仕方なく、解毒剤に薬草でも煎じてやろう、と立ち上がった。床にこびり付いている清の血だけは、先に魔法で綺麗に掃除しておく。対してリリィは、猫の姿のまま、コーヒーを二度と飲まないことを強く心に誓っていた。
(あんなくそ不味い泥水……くそっ……最悪だ……気絶するかと思った……)
「そろそろ本当に耄碌したんじゃないか?ここらのボス猫にうっかり刺されないように気を付けなよ。あんた案外、箱入り猫なんだから」
「ハッ、まさか。俺は世界一恐ろしい人食い猫だっつの。いいか?お前の事だって今すぐにでもな……」
「はいはい、知ってるよ」
真澄が薬を飲ませると、リリィはすぐに眠ってしまった。散々苦しみ暴れて、疲れていたのだろう。
真澄は音を立てず静かに、自室のドアを開けた。ベッドには清がピクリとも動かずに眠っている。真澄はベッドの淵に腰かけて、清の寝顔をじっと見つめた。今は本来の姿に戻っているが、あの大きな翼は背中に生えていない。銀色の髪が、窓から差す月の光に照らされて、闇夜に浮かび上がる月来香のように美しい。端正な顔立ちも、人に化けている時よりもより現実離れして優れていた。人形という依代が無くても姿を保てているという事は、元々そこそこ力のある妖怪妖魔の類なのだろう。それにしても人形そっくりな容姿をしている。清が人形を真似ていたのではなく、人形が清を真似ていたのか、と真澄は思う。それにしても、わざわざ人間の作った人形に入るなんて、妖怪たちの考えることはつくづく分からないな、と真澄は思った。清が妖怪かどうかも、正直謎だが。
ふと、清がゆっくりと瞼を開けた。真澄は少しだけ驚き、部屋に入らなければ良かったな、と思う。しかしそんなことはおくびにも出さず、平静を装って清に話しかけた。
「なんだ、起きていたの」
想像していたより冷たい声になってしまって、真澄は自分でも驚いた。清が謝りそうな気配を感じて、慌ててそれを遮る。
「謝るのはよして。そういうの疲れるし。……あの女は満足して帰ったよ。だから安心してゆっくり休んで。出ていくのも傷が治ったらでいいからさ」
「……」
清は微かに眉を顰めて、体を起こそうと身じろぎした。真澄は慌ててそれを押し留める。
「動いたらダメだって」
真澄は清の上に覆いかぶさって、ベッドにしっかりと、清を縫い付けるようにする。清が体の力を抜いたことを確認し、ふっと手を離そうとして、真澄は思いがけず息を忘れた。清の血のように赤い瞳が、驚くほど近くにあったからだ。腹の傷を手当てをしたときは、何も思わなかったはずなのに、清の透き通るような肌を、鼻先が触れあいそうな程の距離で見てしまい、真澄は不自然に固まってしまう。清も目を見開いて、真澄を見つめていた。
「……真澄」
清に名前を呼ばれて、背中に痺れるような感覚が走った。真澄はこれは駄目だ!と速やかに体を離した。部屋を出ようとする真澄を清は静かに呼び止める。
「これでは、あなたのベッドを……」
「書斎で寝る。寝心地良いソファーがあるから、気にしないで。……おやすみ」
清は一つゆっくりと瞬きをした。真澄が部屋を出る直前、小さな声で「おやすみ」と、返される。真澄は暫くドアの前にもたれかかり、何か考え込んでいた。やがて緩慢な仕草で顔を上げて、廊下を歩き出す。真澄の心臓は、いつもより早い鼓動を打っていて、ひんやりとした夜の空気に当たっても、暫くの間、落ち着くことはなかった。まるで自分の心臓から、小人が飛び出そうとして、しきりに壁を叩いているかのようだった。
真澄はただ、小さく、ひとつ笑った。
2026.2.1 同人誌発行の折、改稿しました。




