呪われた友人《中編》
店主は久々の来訪者に大変喜んでいた。彼女は若い物書きの常連客だった。ここの店のコーヒーを時間を見つけては飲みに来ていたのに、ぱたりとそれが途絶えて、密かになにかあったのではないかと心配していたのだ。男が冗談交じりにそれを口にすると、女はさぞかし大儀そうに肩をすくめて見せた。
「仕事が立て込んでいて、来られなかったんですよ、」
「相変わらず忙しそうだね。君は本来、世を憚る詩人然とした、自由闊達な人なのに」
「そうなんですがね、全く……。陶淵明のようにもいきませんし。そうだ、新しい詩集を出したんですよ。よろしければどうぞ」
女は革のポシェットから、一冊の文庫本を取り出した。黄色と赤、青の色彩に、様々な図形が飛び交う、遊び心のある装丁だった。原色を貴重としつつも、モンドリアンの『ブロードウェイ・ブギウギ』を想起させるリズム感のある抽象画で、中々良いデザインだ、と店主は思った。
著者には「 黄木粋」と記されている。粋はくすりと小さく笑った。
「 この会話の流れから、まるでモンドリアンの絵画に似た表紙を差し出すのは、些か可笑しいですね」
「どうしてですか?」
店主は穏やかな表情を浮かべながら、丁寧だが手慣れた手付きでコーヒーを淹れる。粋はそれをカウンターのスツールに腰掛けて、満足そうに眺めた。芳醇な香りに自然と肩の張りも抜けていく。店内は品のある老婦人と、フォーマルな服装をした中年の男性が、それぞれテーブル席に座っていた。会話をしているのは店主と粋の二人だけである。控えめにかけられた音楽は店主の知り合いが作曲したピアノのアルバムだ。粋も聴いたことがあった。
「 大の緑色嫌いで知られていましたから。彼も初めは自然を描き写していたのに」
「 おや、そうなのですか。その話を聞いて、ますますその表紙を気に入りました。あなたらしい難解さに似ていて、とても良い」
男の言葉に、粋はふっと口角を上げる。まるで少年のような軽やかさであった。
「 それは良かった。……そうだ、雪人さん。この辺で人形を見かけたり、拾ったりした人、いない?」
「 人形?」
雪人、と呼ばれた青年は驚いて目を少し見開いた。思い出すのは数日前に訪れたずぶ濡れの青年のことだ。彼は元気だろうか。
「そう。知り合いの人形職人がうっかり失くしちゃって。探しているんです」
「へぇ……」
雪人は彼の妙な言葉が未だに気にかかってはいたが、どの道そのような噂は耳にしていない。素直にその事を告げると、粋は「そうですか」とだけ言って、左程深刻そうでもない。差し出されたコーヒーを、彼女は礼を言って受け取った。のんびりとカップを傾け、黒褐色の液体を味わう。粋はただ、にっこりと微笑んだ。
「やっぱり雪人さんのコーヒーはおいしいね」
「はは、ありがとう」
その時、カラン、と来客を示す音が小さく鳴り響いた。さらりとドアから滑り込んで来たのは、まさに雪人が先程脳裏に思い浮かべていた人物であった。
「……」
青年は店内には目もくれず、真っ直ぐにカウンターまで向かってくる。その堂々として、どこか険のある足音に、粋も顔を上げてそちらを見やった。しかし彼は粋にも一瞥もくれずに、店に入ってから粋の隣に座るまで、一度も雪人から目を離すことはなかった。そんなにまじまじと客から見つめられることもあまり無いので、雪人は内心「 この人は本当に一体何なんだろう」と思う。それは今までにないような、不思議な感覚だった。彼の瞳からはっきりとした表情は読み取れないが、纏う態度からは、芯に挑戦的で傲慢なものがあるようにも思える。
「 ……なにか飲みに来た」
そう言うと、男はポケットから取り出した、くしゃくしゃのお札をしっかりとカウンターに押し付けた。喫茶店に使うには少し多いくらいの額だった。雪人は少し困りつつも、何が良いですか?とメニューを差し出してみる。男は片眉を上げてそれを見ると、メニューを受け取ることもなく「あなたの好きなもので良い」と、だけ返した。
「 分かりました」
粋は視線だけで、「 困るね」という風に雪人を見たが、その表情は楽しんでいるようでもある。雪人は微かに笑い返して、コーヒーを淹れる事にした。
「 あんた、この人に一体何するつもりだ」
いきなり男が粋に向かって放った言葉に、雪人は耳を疑った。
(いや、君の方こそ一体、私のなんなんだ?)
男はカウンターに肘を付きつつ、粋に対して非常に威圧的で、鋭く蔑むような視線を突き刺していた。
「何って?雪人さん、この人知り合い?」
粋は男の冷たい視線を受けつつも、泰然としていた。若い女の子にしては彼女は随分と肝が据わっている、と雪人は思う。
「知り合いというか……顔見知りではあるけど」
言い淀む雪人に、粋は一瞬にして何かを悟ったのか、一気に嘲るような表情で、男を見下した。
「へぇ。知り合いでもないのに、付き纏ってるんだ。つまりストーカーだ」
「違う。……あんたの探し物なら、隣町の小学校近くに現れたらしいぞ。早く行ったらどうだ?」
男は苛立った表情を浮かべながらも、得意げに粋にそう告げた。
「何の話?」
粋は素知らぬ顔で、コーヒーを悠々と飲む。彼はその様子を見て、嘲笑いをもはや隠そうともしない。
「急いだ方がいいんじゃないか。空を飛んで逃げちまうかもしれないぜ?」
「もしかして君さ…………まぁいいか。なんか随分と印象違うし……」
粋はちらりと男を探るように見つめたが、深入りしたくないとばかりにすぐに視線を戻した。
「それで君、本当は何が目的なの?」
粋は面倒くさそうに、軽く溜息を吐いた。
「別に。あんたにとっとと、消えて欲しいだけ」
「……私は雪人さんと友人だよ。雪人さんのことはとても尊敬してるし、仲も良い。君が何を誤解してるのか知らないけどさ」
男はその言葉を聞いて、変な表情を浮かべた。
「友人?」
急に邪気の抜けたような声で男が聞き返すので、粋は呆れて、適当に相槌を打つ。
「そうだよ。ねぇ、雪人さん?」
「もちろん。だけどちょっと待って」
雪人は一つ息を吐いて、二人を見やった。なんだか今の会話を聞いているだけでどっと疲れたような気がしていた。まず、青年に対して雪人はなるべく柔らかい声色で諭すように問いかける。
「君、そういう態度は良くない。彼女は気分を害して当然だよ」
男はただ、雪人の顔をじっと見つめた。雪人はなんだかぞっとしつつも、次に粋に対して緩やかに微笑みかける。
「黄木さんも、ちょっと落ち着いて。彼は少し前に傘を貸してあげたんです。ストーカーじゃありません」
「あら、そうなんですか?まぁ、ストーカーなら私が雪人さんと仲いいことも知ってるでしょうし、こんなに急に、私に突っかかってくるのもおかしな話ですもんね」
粋はわざと嫌味ったらしい態度を取り、口元には冷笑を浮かべていた。男は心底不快そうに、もはや粋を視界にすら入れていない。
「だから言っただろ、早く行け」
「せっかく久しぶりに来られたのに。雪人さん、困ったら直ぐに呼んでください。これ、とっ捕まえて二度と敷居を踏ませないように山奥に捨てておきますから」
にこりと微笑んだ粋の圧に若干戸惑いながらも、雪人は粋に微笑み返した。
「あ、ありがとう……またいつでも来てね。気を付けて」
粋は男にいくつかの事を訊ねてから店を出た。残された雪人は、自分は一体どうしたらいいのだろうと、正直途方に暮れるようだった。男は何も言わず、ただ頬杖をついて、静かに雪人の手元の辺りを見つめ続けている。
青年の冷え冷えとした目元や、くっきりとして濃い眉は、無造作にしっとりとした黒髪がかかって、深い目元になまめかしい影を落としていた。濡れ鼠でない彼はより妖艶で、やけに眼光に迫力がある。雪人は「外見だけは本当に二枚目だな、羨ましい」とこっそり嘆息した。
雪人は手を動かしながら、様々な考えを頭の中に巡らせたが、やはり一向にこの青年には一切覚えが無いし、彼の目的もまるで見当がつかない。
「はい、どうぞ」
「これは……」
雪人が差し出したカップの中身を、男はまるで初めて見るかのように、まじまじと見つめた。
「コーヒーですよ。飲んだことありませんか?」
雪人はもうこの青年に対して、自分はあまり常識というものを適用して考えないようにしよう、と心に決めた。コーヒーをこんなに不思議そうに見るお客さんも、中々に珍しい、というか見たことが無いけれど。
「いや、無い……」
男は慎重にコーヒーの表面を冷ましてから、僅かに口に含む。終止怪訝そうな表情のままだったが、手つきは非常に丁重だ。カップを置くときも、音を立てる事無く、まるで一ミリも欠けては困るかのような手付きである。
雪人は少し微笑ましい気持ちでそれらを見守っていた。
「どうですか?」
「どう、って……苦い」
正直すぎる感想に、雪人は思わず笑ってしまった。
「あの、君は一体……」
「悪い、もう帰る」
雪人が言い切る前に、男が素早く遮った。立ち上がり、踵を返そうとする男を追いかけて、雪人は慌ててカウンターから飛び出した。
「それ、返しておく」
男が指差した方を振り返ると、今まで彼が座っていた場所に、いつの間にか傘とタオルが置いてあった。目を白黒させる雪人を一瞥して、また歩き出そうとした男に、雪人は慌ててその手を取った。男は一気に銅像の如く体を硬直させた。奇妙なことに、今度は男の肌はとてもひんやりと冷気を帯びているかのようだった。男が立ち止まった事から、雪人は安堵に微笑み、男の手のひらに、そっとお札と小銭を何枚か乗せる。
「これ、お釣りです。次は苦くないのを出しますから、また来てくださいね」
「……」
雪人がそっと手を離す。男はなぜか蒼白な顔色をしていた。雪人は体調が悪いのかと思い声を掛けようとしたが、男はお金をポケットに仕舞うと、あっという間に店を出て行ってしまう。
「 嘘だろうなぁ」
粋は笑いながら、そう呟いた。狭い路地だった。目の前には二人の着物の女が立って粋を凝視している。本人は気にすることも無く、のんびりと背中側の塀により掛かり、スマホに何か文字を打ち込んでいた。
「 主様、実は……」
「 うん。聴こえていたよ。けれど彼が私に罠を仕掛けていたとしたら、もし一般人に何かあったらまずいし。……茜、見てきてくれる?あ、あとあの女の子も一応様子を見ておいて」
ジーンズの尻ポケットにスマホを押し込みながら、粋は単調にそう言った。腕組みをして、有無を言わせぬ迫力がある。呼ばれた方の簪を指した女は、もう一人とは対象的に、感情的だった。明らかに落胆した声を上げる。
「 えー!私も狩りに……」
「 だめ、前の依頼で活躍しただろう?今度は藍の番。……後でご褒美をあげるから」
粋は茜の耳元で密やかに囁いた。一気に彼女の頬は薄紅色に染まる。
「 ……はい、分かりました」
「 じゃあ藍、行くよ」
「 はい」
粋が目配せすると、藍は一つ頷いて、西の方角、山の中腹辺りを指差した。粋は微笑んで、機嫌良く歩き出す。今日の晩御飯は唐揚げかな、と心の内に呟いた。
花はいてもたっても居られないような気持ちであった。
(真澄ちゃん……本当に大丈夫かな……)
思い返すのは、急ぎ帰った、真澄の家でのことだ。真澄は自分の怪我を治すより先に、花にいくつかのことを手短に告げた。
「いいか、花。あんたは呪われかけてる」
「えっ?」
花は、既に内臓がやすりで削られたかのような心地であったのに、その言葉を聞いて、自分の血が青くなってしまったのではないかと思う程の恐ろしさを感じた。真澄はそれを見てか、しかと花の淡色の瞳を捉える。
「でも大丈夫だ。呪いは不安や悲しみ、憎しみによって膨れ上がる……これから暫くの間、なるべく心を平静に保ち続けて。その間に、私がなんとかする」
「な、なんとかって……」
真澄はふっと目を閉じた。花は驚きに息を呑んだ。真澄が花を、まるでガラスに触るが如く丁重に抱き締めたからだ。一瞬、震えた花に、手のひらがそっと背中に添えられた。真澄の息遣いが近くなる。懐かしく、涼やかで甘い、彼女だけの香りがする。その中に、錆びた鉄の匂いも混じっていた。
二人は共に過ごした高校時代も、ついぞその手に触れることも無かった。花はなんだか泣きたいような気持ちになってしまって、睫毛を伏せた。
「ごめんね……ごめん。今度は、私が守るから」
花は何も言うことができなかった。正直、真澄が何に謝っているのかが、花には分からなかったからだ。流れ込んでくる感情はただただ海に浮かぶ小船のように侘しく、物悲しい潮の香りがした。ふっと離された体に顔を上げると、黙ってそれを見守っていた、清の姿が花の目にも入る。花は慌てて俯いて、小さく身を縮めた。
「……さっきの何か真澄ちゃんを切ったものが、呪い?」
「いや、さっきのは……まぁ、気にしないで。もう消えたから」
「ユメちゃん、……ユメちゃん?」
花は自分を呼ぶ声に引き戻され、慌てて辺りを見返した。年齢の幅広い男たち数人が、自分を様々な表情で見つめていて、色とりどりの色彩が目の前で飛び交っている。花は目が回りそうだ、と錆びたように軋んで上手く動かない脳味噌で思った。耳に流れ込んでくる音は混沌としており、誰が放ったものかすら分からない。
「ちょっと、大丈夫?」
隣に座っていた男性が、さりげなく花の太ももに触れた。花は途端に心臓がバクバクと狂ったように暴れ初め、目頭が勝手に熱くなった。それを押し込めるように平静を装って、ぎこちなくではあったが、微笑んで見せる。
「だ、大丈夫です!えっと、ごめんなさい。ドリンクですか?」
「あぁ。これと同じのと……」
注文を聞いて、テーブル席からカウンターに戻る。花は密かに深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。しかしすぐに手首を掴まれ、吃驚して顔を見上げる。
「純子さん……」
そこには雇い主であり、このスナックのママである純子が立っていた。くっきりと描かれた鋭い眉は、いかにも気の強そうな潔さで、唇もそれに負けじと鮮やかで濃いが、それが寧ろ彼女らしく、非常に凛と美しい。紺色に金の菖蒲が咲き乱れる、気品のある着物をきっちりと着こなし、艶やかに結われた髪の毛も、一本の乱れがない。花は困り眉で「どうしたんですか?」と尋ねようとした。けれど今にも雷が降ってきそうな恐ろしい形相で睨まれ、急いで口を閉ざした。
「ユメ、ちょっと来な。エミ、悪いけど花の代わりにあそこに入っておくれ」
「はーい!」
声を掛けられた他のスタッフは、客にバレない程度に、不機嫌そうに花をちらりと冷たく睨み付ける。花は自分の心臓が、二重にも三重にも、きゅっと縮まったような感じがした。純子は笑顔でカウンターの客に断りを入れてから、花を店の裏に連れ出した。純子が煙草に火を付け、花はただ黙ってそれを見ているしかない。純子は苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべ、紫煙を吐き出した。
「ここはお友達と来たファミレスじゃないんだよ。ちゃんと仕事をしてもらわないと困る」
「はい……」
花はその言葉にさっと青褪めた。心苦しさと自己嫌悪で、胸中は泥に溺れてしまうようであり、それを見てますます純子は苛立ちを隠せない。煙草の灰を乱雑に落とし、花に問いかける。
「また何をぐちぐち思い悩んでるんだい。じめじめしたナメクジになっちまうよ」
「す、すみません……」
「はぁ……」
純子は深い溜め息を吐いた。しかしそれはどこか柔らかさを微かに含んだものであった。花は恐る恐る、打ち明けた。
「真澄ちゃんに、会ったんです。元気そうでした……」
「そうかい。あんたを拾って暫く経つけど、あの馬鹿たれ、全くここに顔出しやしないだから」
純子はその名前を聞いて、顔を顰めた。苛立たし気に勢い良く煙草を吸い込み、彼女の持つ小さな棒切れは、見る見るうちに短くなっていった。花は弱々しく微笑む。
「真澄ちゃん、恥ずかしがり屋だから……」
「で、どうしたんだい」
「いえ、……ただ少し、昔のことを思い出して……」
花は重苦しい表情で俯いた。純子は途端に、猫の死骸でも見たかのような憐れみとも拒絶ともつかない表情を浮かべてしまう。
「……それならいいけどね。あんた、マリのことなら気にするんじゃないよ。ウチは本来、指名もバックも無いのに。あの子はただあんたに当たってうさ晴らそうとしてるだけさ。自分の悪い所も見ないでね」
「……はい」
純子の経営するスナックは、スタッフ同士の競争を防ぐために、基本時給制であった。仕事の姿勢が評価されれば、給料が上がっていくシステムで、純子らしい、店全体の雰囲気を重視する価値観がよく表れている。
しかし先日店を辞めたマリは、ある客にとても入れ込んでおり、些細なことをきっかけに、花は彼女に目を付けられてしまったのだ。マリは他のスタッフにも何か言い含めていたらしく、彼女が辞めたことへの非難も、何故か花に集まっていた。純子は口出しすることはなかったが、花が肩身の狭い思いを抱えながら、働いているのではないかと、内心気がかりであったのだ。
「……もっとしゃんとしな。あんたは本当はここにいるべきじゃない。分かってるだろ?」
純子は花を知れば知るほど、彼女はこの世界では潰れてしまうだろう、と焦燥感ばかりが募った。しかしそれを面に出すことは決して無かった。
純子にはママとして、他の女の子たちも平等に守ってやらなけばならないという想いがあったからだ。店の女の子たちはどんな客にも愛想良く話ができて、男の人に触られようが、嫌な顔せず笑っていられる子たちばかりだ。けれどそれは、それが彼女たちの生き延びる術だというだけで、どんな扱いを受けようと平気だという訳では全く無い。純子は彼女たちもまた、裸足で茨のような世界を歩くしかなかった子たちばかりだと知っていた。
守ってやりたいと思っているし、幸せに生きな、と願っている。それでも純子は、その気高い性が仇となって、ただ奮い立たせて叱責するしか、花を助ける術を知らなかった。純子は花を引き受けたことを、未だに少し後悔していた。
「……心が擦り減っちまう前に、男でも作って、とっととここを出ていきな。いいね?」
「……はい」
純子は煙草を磨り潰すと、両手をはたいて気持ちを切り替えた。お客さんを待たせているので、早く戻らねばならない。
「さぁ、今日はもう帰んな。……あたしゃ今夜は、馬鹿みたいに辛いものが食べたいんだ」
「……え?」
花はきょとんとして純子を見つめ返した。純子は振り返らず、ぶっきらぼうに一言告げる。
「麻婆豆腐、作っといてくれ。」
「……はい!」
花は嬉々として頷いた。胸元のネックレスが少し動いて、冷たい部分が素肌に触れる。花は目を閉じて、服越しにネックレストップを握り締めた。先ほど感じた、心に染み渡っていくような、じんわりとあたたかい感覚。それが小さな花を咲かせて、草原が広がっていくように綺麗だったことを噛み締める。
店の中の笑い声や話し声が、ドア越しに聞こえる。外は暗くなり始めていたが、春の温かな風が吹いていた。見上げると、西の空に、星が弱く輝き始めている。しかし田舎といえど、この町で星はあまり見られない事を、花は知っていた。大きなパチンコ屋ができてしまったためだ。
(…………けれど、きっと掻き消されてしまった多くの小さな光たちも、本当は見えないだけで、遠い遠い場所で、今でもきっと煌々と燃え続けているんだ。)
花はじっと星空を見つめた。こうしていると少しだけ星が大きく見えるような気がして、花は落ち着くのだ。先程、真澄が花にかけてくれた魔法を思い返す。キラキラとして、とっても優しくて、綺麗だった。
「だから、きっと……きっと大丈夫。見守ってくれているから、大丈夫だよ…………」
(……私のマリア様も、きっと……)
小さな娘の声は、誰にも聞こえること無く、ただ慰めを繰り返していた。
四方が塞がれたようで、何処にも逃げ場所もない人生だけれど、上を見ればまだ、星々が煌めいている。
(あの術は多分、呪い返しだ。糸を解こうとしたから、私にも攻撃してきたんだろう。でも、誰がそんなことを?)
「真澄」
名前を呼ばれて、驚いて顔を上げた。清に名前を呼ばれることは滅多にないので、真澄はその度に、なんだか貴重なものを受け取ったような気持ちになる。
「 もういいのではないでしょうか」
真澄ははたと、自分の腕を見下ろした。傷が深い部分に、ガーゼを押し当てて止血していたのだった。真澄は救急箱から新しいガーゼを取り出して、大きめの長方形に切った。それを包帯で押さえながら、片手で苦心して巻こうとする真澄に、清が静かに手を添える。
「私がやります」
「あぁ……ありがとう」
清は白い帯を解いて、端から丁寧に巻き直していった。その指は細長く、関節の目立たないすらりとした輪郭をしていた。けれどその指先を彩る桜色は、意外にもしっかりと大きい、縦長の形をしており、爪先は綺麗に切り揃えられている。
真澄は包帯の軽い感触が肌に擦れて、なんだかこそばゆかった。何しろ清の手つきはあまりに緩慢で、まるで刀の柄糸を巻く職人の如き丹念さである。真澄にはそれがあまりに大げさに感じられて、余計に可笑しかった。
「くすぐったい」
真澄が込み上げるものを押さえきれずに、小さな笑い声を上げると、清は驚いて真澄を見る。思わず、といった風に手元が止まって、真澄はそれを揶揄った。
「ほら、手が止まってるよ。止めちゃうの?」
「……もう少しきつくします」
真澄は訳も無く、なんだか楽しくなってきて、くすくすと笑う。
俯いて少しきまりが悪そうな清の顔が目の前にあって、吸い込まれるようにその面差しを見つめていた。
伏せられた睫毛は驚くほど量も多く長い。その中に飾られたルビー色だった瞳は、今は控えめなブラウン色に変わっていて、毅然として手元を映している。
真澄は少し惜しく思う。あの綺麗な柘榴のような輝きを、もう一度見てみたかった。それでも清の明るい髪が描く大らかな曲線や、真澄より少し体格の良い肩を眺めているだけでも、視覚的な満足感は十分にある。清は本当に美人だった。
「ねぇ、それじゃあ血が止まっちゃうよ。少し優しくして?」
真澄はわざとらしくしなをつくってそう言った。清の表情は変わらなかったが、手元は驚いた亀のように固まってしまっている。真澄が促すがまま、ゆっくりと動き出した指先が肌にかすめて、真澄はまた、耐えるように笑い声を零す。どうしてこんなにくすぐったいのか、不思議であった。もう片方の腕に差し掛かっても彼女はずっとそんな調子であった。一方で清の表情は、海に立つ、さざ波を見ているかのように静かであった。
「……真澄、」
清がとうとうお手上げだ、という風に声を上げる。真澄は謝って、背筋を伸ばして表情を正した。けれど直ぐにまた肩を震わせ始めてしまう。それを見ていると、思わず清もつられて、笑ってしまっていた。
包帯の端をテープで留めて、清の手が離れていく。清は手当てを終えた真澄の手のひらを見つめて、尋ねた。
「危険だと分かっていたのに、触ったんですか」
真澄は小さく肩をすくめる。
「油断してたんだ。本来あんな強力な術とは縁遠い、普通の子のだもの」
確かにあの娘に、糸は見えていないようだったな、と清は思い返す。
「彼女にかけられた呪いは、その道の人間の仕業だと見ていいだろう。素人じゃ、こんな目に映るくらい強力な現象は起こせない……」
「少なくとも二人以上の人物が、この呪いに関わっている」
真澄は頷いた。呪いに長けた人物と、花に呪い返しの術を掛けた何者かだ。花を恨む人物が、術者とは別の人物とも考えられる。真澄はまず、花を呪った人物が今どうなっているのか確認する必要があるな、と思った。
この呪いが正確にどんなものかは分からないが、もし呪い返しが既に術者に成功していた場合、その矛先は花に向かうだろう。花は仕事があるからと、すでに帰ってしまっていた。真澄は、簡易的な守護の魔法をかけておいたものの、引き留めておくべきだったかもしれない、と苦く思う。
「清。私は出かけてくるからちょっと……」
その時、二人は顔を見合わせた。簡素な玄関のチャイムが、家の中に鳴り響いたからだ。
「隠れて」
家主を待つ間もなく、鍵のかけていないドアを、ガチャと開ける音がした。真澄は舌打ちをして、足早に廊下に出る。
「ごめんください」
鈴の鳴るような、女の声であった。玄関の三和土に、ぼうと浮かび上がる着物の女の姿がある。三つ編みを片側に垂らした、青白い顔の女だった。真澄が口を開くより先に、女は首をゆっくりと傾げて口を開く。まるで操り人形のような動きだった。
「人形、拾いませんでした?」
「いえ?知りませんね」
間髪入れずにそう返す真澄に、女は視線だけで真澄を上から下までを、まるで検分するかのように見つめた。その視線は真澄の腕辺りに留まり、じっと動かなくなる。
「……」
真澄はズボンに隠し差している杖を、いつでも取り出せるように警戒を緩めなかった。その時、ガシャン!と、大きな音がして、真澄は驚き、思わず振り返った。リビングの方からだった。
直ぐに女の方を見返すと、女は口元に深い笑みを湛えていて、その目は人間の瞳をしていなかった。作り物の、伽藍洞なただの穴だ。
「あんた……人間じゃないな」
真澄は躊躇も無しに、杖を振りかざした。突如凄まじい豪風が、杖の先から吹き出した。女は突風を正面から受け止めてしまい、玄関のドアに激しく背中を打ち付けて、そのまま外にまで吹き飛ばされる。
真澄がリビングに入ると、フローリングの上で揉み合っている、二人の女が見えた。一方は清で、もう一方は顔にどこか見覚えのある、若い女だった。
女は清に乗り掛かり、長くしっかりとした槍で、清の腹をぶっすりと貫いている。清は本来の銀髪赤眼の姿に戻っていて、背中には初めて見る白く大きな翼があった。それが広くはないリビングの床の上を、苦しげに何度も引っ掻いている。近くには振り倒されたであろう椅子が倒れていた。清の翼は良く見ればなぜか今そうなった訳では無さそうなほどボロボロで、羽根は欠けており、動きもどこかぎこちなかった。女は清にぞっとするような冷たい微笑みを向けており、清の苦痛に歪んだ顔にも、同情の欠片すら浮かべることは無い。
「 匂いを消そうとしたって無駄だよ。とっても鼻の良い、ペットを飼っているからね」
「……っ!」
「依代を渡しなさい」
鳥肌の立つような音を立てながら、女が腹の傷口を広げるように得物を弄ぶ。清は苦痛に顔を歪めた。
「ちょっとちょっと待って、」
真澄は突如現れた謎の女に声を掛けるが、背後から突然、別の女の細い腕で首を締め上げられ、言葉を失う。先ほど吹き飛ばした着物の女だった。ガラスのように冷ややかな女の腕は力がとても強く、直ぐにでも真澄の細い首をへし折ってしまえそうだった。
「主様の邪魔をするな」
「うるさいな、っ」
真澄は着物の女の腹を肘で殴りつけ、少し腕の力が緩んだ隙に、目の前にあるテーブルクロスを、杖を使って引っ張り上げた。机の上にあったグラスや花瓶が転がり落ちて、いくつかが音を立てて砕け散る。テーブルクロスは宙に舞いながら、くるくると身を捩って、細い縄状に変わった。真澄は着物の女に杖を奪われそうになるが、それをひらりと躱して、女をあっという間に即席の縄で縛りあげた。
それを見た、もう一人の女が動きを止める。真澄は冷酷なその瞳を前にしても、少しも怯むことはなかった。女に軽く口角を上げて見せる。
「私の女に手を出すな」
静かだが威圧感のある声で、女はそう言った。真澄はしっかりと、縛り上げた着物の女に杖の先を向けている。
「じゃあ離してあげてよ。その子がなにしたって言うのさ。花の呪い返しも……あれはあんたがしたの?」
「どうして?」
女が小馬鹿にしたように笑う。真澄は指先を擦り合わせるように指を鳴らした。乾いた音を立てて、杖を持っていない左手に、火が灯る。青白い焔はあっという間に燃え盛り、真澄は手のひらを、意図を持って翳した。焔が照らしたのは、部屋中に無数に張り巡らされた、目に見えぬ糸だった。それらが浮かび上がって、今にも真澄や清の首を切りつけそうな息苦しい緊迫感で煌めく。
「この糸、止めてくれる?」
真澄はピン、と張られた糸に、青い焔を近づけた。