呪われた友人《前編》
その男はひどく怯えていた。己の犯してしまった罪に対する報復を、恐れる罪人のように。
あの時、胸は歓喜に打ち震え、己の枯渇したかと思われた創造的意欲は、まるで神に突き動かされるが如く、渦巻き、荒波を立て、心の臓から指先までを駆け巡った。自分はただ従うがままに、「それ」を作っただけだったのだ。
父親の跡を継いだのは、何も強い意志があってのことでは無かった。ただ職人と言う仕事人の性が、己の肌に最も馴染むものだったというだけの事。男は根っからの現実主義者だった。「魂を込める」なんて言葉で言うのは容易いが、まさかこんなことが起こるだなんて、夢にも思わなかったのだ。
「……まさか、人形がひとりでに動きだすなんて!」
男はそこまで言い切ると、震える息を吐いて、額の汗を手拭いで拭った。男の表情は生気が失われ、頬も痩けて、目元には深い隈が刻まれている。年齢よりもずっと老け込んで見えて、女は男を少し哀れに思った。
「まぁ、そんなこともありますよ。皆さんあまり目にしないだけで」
「そんなこと……?こんな恐ろしいことが、あってたまるものか!」
女は首をすくめた。私に言われても、と言った風に。男は我に返ったのか、バツが悪そうに視線を落とし、手拭いの折り目を丁寧に畳み直した。まるで心を落ち着かせために、それが非常に重要だと言わんばかりの手つきで、女は場違いにも少し可笑しく思う。
居間は空気が籠っていて、何処か息苦しく、日当たりも非常に悪かった。古い家のせいか、照明もぼんやりとしていて覇気が無い。男と女はローテーブルを挟んで向かい合って座っていた。女は腰かけていたソファーから身を乗り出して、瞳を爛々と輝かせた。口元は不敵に弧を描いて、男はその表情にどこかぞっとしたものを感じ取って、背筋が寒くなる。
「それで、一体あなたは何をしたんですか?」
その女……粋は、困り果てたように青空を見上げた。綺麗な色だなぁ、とどこか他人事のように思う。吐き出した紫煙は、絡みつく不愉快な厄介事の臭いに、非常によく似ていた。人形を依頼人の希望通り封じたはいいが、仲間がいるのは誤算であった。人形は奪われ、行方は未だ不明。大方、この町に潜んでいる気配は薄くではあるが感じられる。
人形職人の例の男の話は、こうだ。男はある夢を見るようになる。庭の背の高い楠に座る、女の素足が、ゆらゆらと幻が如く揺れる夢。しかしその足はふくらはぎから下側が酷く黒ずんでいて、見ていてとても痛々しい。
男は毎夜その夢を見たが、女はただ木の上でぼんやりとしているだけで、一向に姿を見せることも無い。男はこっそりと木の下に行って、その女を見て、言葉を失うほど驚いた。見たことも無いほど美しい顔立ちに、揺蕩う銀髪、血のように赤い瞳……男はそのアルビノの女に、一瞬で心奪われた。飛び起きるように夢から醒めて、男は今まで無いほどの熱量を持って、その人形を作り上げた。まるで生きているが如く精巧なその人形を見て、男は涙した。己の技術全てを賭けて、心血を注ぎ作り上げたその作品は、これまでの職人人生の結晶といっても差し支えない、素晴らしいものとなったからだ。
男は感謝の意を込めて、良く晴れた日に、庭の楠にしばらくそれを供えることにした。しかし少し目を離した隙に、忽然と人形は姿を消してしまったのだ。無論、人が庭に入り込んだ気配などなく、その場にいるのは男一人だけだった。男は血眼になって人形を探したが、ついぞ見つかることは無かった……。ここまでならいい。しかし、隣町の知人から、その人形を公園で見かけた、と男に連絡があったのだ。男がどれほど人形に入れ込んでいるか知っていたので、見つけた途端直ぐに電話したが、やはり人形はまた、姿を消した。このようなことが二、三続いたらしい。
これは流石に盗人ではなく、人ならざるものが宿ってしまったのではないかという話になり、粋に声が掛かったという訳だ。男は、姿を見られたことに女は怒り、人形に宿ったのではないかと、戦々恐々としていた。まだ何をされたという訳も無く、これ程までに怯えるとは滑稽な、と粋は渇いた心で思う。人間のこういう馬鹿げた考えは、今までにも腐るほど見てきたが、なんとも小説じみた趣きある話に、男が不毛な恐怖心から水を差しているような感じが否めず、個人的には面白くない。粋の極めて勝手な感想である。
その女の妖怪も、自分の供物と思って持ち去っただけだろうに。こうして得体の知らない人間の小娘に追いかけ回され、封じられ……ただただ憐れな限りである。
「茜、瑠璃、」
粋は小さな声でその名前を呼んだ。コンビニの喫煙所には、他に人もおらず、近くに止まっている車が一台あるだけだ。田舎特有のだだっ広い駐車場に、ぼんやりと影のようなもの二つ現れ、粋の元へ辿り着く。
粋の前に姿を表したのは、二人の若い女だった。一方は長い髪を簪ですっきりと纏めた、利発そうな顔立ちの女で、もう一方は、緩く髪の毛を三つ編みにした、知的で寡黙そうな女だ。どちらも見るからに上等な着物を、きっちりと着こなしており美しいが、その両手は血塗れだった。
「 はぁい」
「 何でしょう、主様」
粋は今まさに、二人が雀の羽根を毟って食おうとしているのを見てしまって、溜息を吐いた。どうしてこんなに野蛮になってしまったんだ、と心の中で呟く。
「 遊んでいないで、奴等に怪しい動きがないか調べて。もう封印は破られているはずだ。疑わしき人ならざるものを見かけたら、すぐに報告しろ」
「 はぁい」
「 はい」
粋は煙草の尻を弾いて、煩わしそうに灰を落とした。河原で本でも読みながら、昼寝でもしたい気分だった。なんせ春なのだ。孟浩然の詩のように、暁に贅沢に微睡むも良いが、春の真昼の太陽を浴びながら、呑気に惰眠を貪るのは、より己の性に合っていて最高だろうな、と粋は思う。この季節は温かくて、まだ虫も少ない。寝転んで青草の匂いを嗅ぎながら、そのままうつらうつらとするには最適なのだ。
粋は戯れに、「飛んじゃおーかな」なんて考え始めた。ゆらゆらと彼女の細い指の隙間から、気怠いバニラの甘さが漂う。この女は元々それほど責任感が無く、身軽でいることを喜びとして生きてきた。それなのに、この仕事を続けても増えていくのは、恨みや憎しみ、畏怖といった、嬉しくも無いしがらみばかりである。別にこの依頼が切っ掛けという訳でも無い。粋は少し疲れていた。彼女はいつの間にか、四方が糸で張り巡らされいて、ただただ自分は行く当ても、心休まる地も無いように感じた。ゆっくりと吸殻をステンレスに押し潰しながら、虚しさに胸がささくれる。
「ま、何とかなるか……」
(いざとなれば、旅にでも出よう。貯金はあるし……「 古人も多く旅に死せるあり」と行こう……李白、杜甫、芭蕉、粋……うーん。最高の並びじゃないか)
彼女は無茶苦茶な絵空事を並べてて、一先ずお茶を濁すことに決めた。もちろん全くもって、本気ではない。
それから大きくひとつ伸びをすると、桜の花びらのごとく薄い微笑みを浮かべ、歩き出した。
「何も無くて退屈でしょ?本でも読んだら?」
真澄は少々呆れたように、清に声を掛けた。それも仕方ない。彼女は一日のほとんどを、リビングからぼんやりと窓の外を眺めたり、庭に座り込んで、じっと太陽を浴びたりするばかりで、真澄が何か頼みごとをする時以外は、つまりほぼ何もしていないに等しかったからだ。少し前まではよく出かけていたようだったが、その回数も徐々に減っている。清を追っているらしき若い女を警戒しての事だろうが、真澄はなんだか気になって仕方ない。
「……字はあまり、」
それもそうか、と真澄は返事に窮した。そもそも人間の文字なんて、知らないのが当たり前の存在だったな、と思い返す。ほとんど普通の人間と変わらない見た目でも、自分とは全く違う存在なのだ。ここ数日の生活で妙に馴染み過ぎていただけで。
「 じゃあ、買い物にでも付き合ってよ。気配は誤魔化してあげるからさ」
真澄はジーパンにTシャツといったラフな服、清は薄手のワンピースに、念のため大きめの麦わら帽子を被って、外に出た。清には真澄によって、妖気を隠す魔法をかけてある。真澄は初めてかけた魔法が案外上手くいって、非常に満足していた。よほどの眼識がなければ、清が人間ではないとは見抜けないだろう、と。
二人で取り留めのない話をしながら、スーパーへの道のりを歩いていると、不意に直ぐ側の塀の上に、黒猫がひょいと現れた。清は初めてその姿を見たが、それがリリィであることに直ぐに思い至った。真澄も気が付いて、「 どこほっつき歩いてたんだよ、この間抜け」と憎まれ口を叩いて見せる。
リリィはそれを端から無視して、苦々しげに清の方を睨んだ。
「 いいか、俺は縄張りを譲ったわけじゃねぇからな。勘違いすんな」
真澄はその言葉に若干、面食らった。リリィ、つまり猫の道理など、真澄には知ったことではない。リリィもそれは理解しているはずだ。しかし、清は例外らしい。リリィの邪険な態度は、妖怪として縄張りをハッキリさせるためのものか、それともただの獣の習性から来たものなのか……真澄は少しだけ興味を持った。
「 別にそういうつもりじゃない」
清が珍しく、些か心外そうに眉を顰める。
「 はっ!そうかよ」
「 ……」
黙り込んだ清を見て、何だか子どもの喧嘩みたいだな、と真澄は呑気に思った。とてとて、と塀の上を歩いていたリリィだったが、やがて民家の囲いが途切れ、真澄の肩に飛び移る。リリィは猫としては小柄な方だったので、真澄はふらつくことはなかった。
「 とにかく、とっとと出て行けよ」
ちょいちょい、とリリィは清の方に手を伸ばす。清はちらりとそれを見つめたが、特に何も言葉を返さなかった。しかし、その表情は微かに息苦しげに見える。真澄は、清の稀にある、こういった感情の表出を見るのは、なんだか忍びないと思った。
「 こら、この人でなし。仲良くしなさいよ」
真澄は軽くリリィの頭をはたいた。リリィは寧ろそれを聞いて、「 そりゃ猫だもん」と、居直る。
「 そうだ、」
リリィはくるりと宙返りをすると、あっという間に青年の姿になった。すとん、と軽やかな音を立てて、真澄の目の前に立ち塞がる。真澄はぎょっとして辺りを見回したが、人の姿は他になく、ほっと胸を撫で下ろす。
リリィは片方の手首の調子を確かめるように回しつつ、真澄を軽く見下ろしてこう言った。
「 おい、真澄、小銭よこせ」
「 なんだ、その言い方。……ほんっとふてぶてしいなお前」
真澄は心底呆れて、もはや怒る気も起こらない。清はリリィのことをもはや珍妙な存在として認識し始めたのか、前衛的で難解な映画でも見ているかのような、絶妙な表情を浮かべている。
「 必要なんだよ」
リリィはぶっきらぼうにそう言った。まるで小遣いを強請る反抗期の少年のようである。随分と格好が付かないが、リリィはそもそも人ではないので持っていないのが当たり前で、恥ずかしくもなんとも無いのだろう。
「 人間の金が必要なの?自分でちょろっとバイトしなよ。人に化けられるんだしさ。私が雇おうか?」
真澄はリリィに構わず歩き出した。清もそれに続く。
「 真っ平御免だね」
「 あ、盗むのは無しだぞ?」
リリィは思ったよりしつこかった。普段ならここまで食い下がらない。真澄は何あったのだろうか、と訝しんでリリィを見る。その表情は想像していたよりずっと深刻なものだった。
「 分かってる。急いでるんだ。後で返すから」
「 ……しょうがないな。ほい」
真澄は渋々、千円札を三枚、彼に差し出した。リリィの言う「小銭」がどれくらいの物か、正直よく分からなかったので、取り敢えず多めに渡しておいた。リリィが真澄にあれこれと我儘を言うことはあっても、真剣に「頼む」事など、滅多に無いという事もある。何か事情があるのだろう。三千円もあれば、ここから県庁のある街まで電車で往復しても十分お釣りが来る。真澄はふとある事を思いついて、リリィを呼び止めた。
「 あ、お前バイトなら……」
しかしもうすでにリリィは忽然と姿を消していて、見る影も無い。よっぽど慌てていたのだろうか。にしては清にしっかりと突っ掛かっていたが。
「 もういないし……」
真澄はふと、リリィが無造作に玄関に立てかけていた、深緑色の傘を思い返していた。
その傘は何故か外側ばかり濡れていて、黴が生えないよう、真澄が開いて乾かしておいていた。リリィに尋ねる間もなく、傘は露のように消えていたが。……あの傘の持ち主は、一体誰なのだろう。
切らしていたキッチンペーパーやマスタード、旬の野菜や果物たち……普段よりも重たくなった買い物籠に、カートを使えばよかったな、と真澄はなんだか新鮮な心持の中で思った。ふと主菜のメニューがまだ決まっていなかったことにはたと気付き、真澄は鮮魚コーナーと精肉コーナーの中程で、一度立ち止まった。
そういえば清はどこに行ったのだろうか、と急に気になって、真澄は漫然とした足取りのまま、元来た道を引き返す。
清はお菓子コーナーで、色とりどりの包装が陳列されているのを、立ち止まって漠然と眺めていた。そのどこか、きょとん、とした表情が真澄はなんだか面白く感じてしまう。
「 何か気になるの?」
「あ、……いえ…… 」
清の視線のあった先を辿ると、そこにあったものを見て、あぁ、と真澄は合点がいった。
「 これ、食べたこと無いんじゃない?」
真澄が手に取ったのは、ポップコーンの袋だった。
「 はい」
清は相変わらず真顔ではあったが、少しだけ恥じらうように、その問いに頷いた。真澄は笑いながら、持っている籠に袋を詰め込む。
「 じゃあ、楽しみだね」
「 ……」
清はなにか言葉を言おうとしたが、それは形にも成れないまま、心の内に漂い、小さな渦を巻いた。
真澄はリリィが初めてスーパーに付いてきたときも、人間のお菓子が物珍しくて、釘付けになっていたことを思い出していた。何だか微笑ましかった。二人の性格は正反対だが、二人とも似ている所を一つ上げるとすれば、それは人間に少なからず関心があるという事だろう。好意的であれ、険悪であれ、そういった妖怪や魔物たちは、真澄にとって人間よりもよっぽど親しみやすい友であった。真澄は人間の方が、正直苦手である。……心の奥底で、密かに恐れてさえもいた。
清と買い物を終えて、二人で袋をそれぞれ分け合って持った。リリィは家に帰ったり、帰らなかったりだが、一応三人分の食料を買い足したので、袋はそれなりに重たくなっていた。「 早く帰ろう、」と口にしようとして、後ろから女の声に名前を呼ばれて、真澄は驚き、振り返る。
「 ……真澄ちゃん?……真澄ちゃんだよね……!」
「 ……花………」
そこには真澄と同じ年ほどの華奢な女が立っていた。その声は弱々しくも、真澄を捉えるその瞳は今にも膨れ上がりそうな何かを宿していて、どこか危うげにも見える。
明るい髪色を肩の辺りまで伸ばしており、小さな顔にふわりと大きめに巻いたウェーブが映える、甘く愛らしい印象の女性だった。ライトブラウンを基調にしたフレンチガーリーなワンピースに、小さな足をすっぽりと包み込む茶色のローファーが、小柄なその体に非常によく似合っていた。
花は真澄の隣に立つ清に気付くと、小さく会釈をする。清もそれに倣うように頭を軽く下げたが、視線はそっと花を見つめたままだった。
「元気、そうだね……」
花は話しかけたがいいがなんと声を掛ければいいのか、言葉に迷っている様子だった。真澄は煮え切らない様子で、負い目にも似た躊躇いを、その表情に浮かべる。
「ま、まぁ……」
真澄は視線を彷徨わせた先に、花の襟元の隙間から、極小の煌めきを認めて、僅かに息を呑む。刹那、真澄の脳裏に、忘れかけていた過去の断片たちが駆け巡った。手足から血の気が抜き取られていくような午後の青空、哀しみの知らないパイプオルガンの旋律。記憶の奥底に沈めていた傷心たちが、息を吹き返して花開いていくような心地であった。ほぼ条件反射的なものであったそれらを、ゆっくりと一つ瞬きをして、真澄は機械的に思考から追いやる。そして緩やかに微笑んだ。
「今も純子のおばさんのところにいるの?」
「そうなの」
花はぎこちなくだが、嬉しそうに笑う。真澄はその表情に安堵しながらも、彼女の首元にある、細いネックレスのチェーンを盗み見ずにはいられなかった。
(……まだ、着けているのかな)
何とも言い難い、蟠りを覚えながらも、真澄は花の言葉を、音楽を聴くかの如く、ただ受け止め続けた。清は二人について何も知らなかったが、どことない違和感と、二人の足元に丁重に埋め込まれたような、密やかな緊張感の気配を感じ取る。清は自分がここにいて良いのかどうか、少し悩んだ。しかし何故だろうか、ここで去っては、真澄が逆に困ってしまうような気もしていた。
「こっちで私、アパートを借りたの。結局、純子さんの家にお邪魔することが多いんだけどね。あのね…………真澄ちゃん」
「 何?」
花が意を決したように、もじもじと弄っていた手を胸の前に握り込む。その声は小さいがとても真摯に耳を打つ健気さを帯びていた。
「今更だけど、ちゃんと伝えたかったんだ。あの時は、……ありがとう」
「 ……ううん。元気そうでよかった」
二人はようやく顔を見合わせて弱く笑った。微かに緊張がほどけたような感じがした。そこではたと目についたものに気付き、真澄は手を伸ばす。
「 花、なんか肩に付いて……」
「 っ、だめだ!」
矢のように鋭い声を上げたのは、清だった。真澄はその声の大きさに驚いたが、彼女の指先は、花の肩に付く、不自然な糸の切れ端に、すでに触れてしまう。
真澄は糸の端をしっかりと掴むと、心の内で精霊を呼び寄せた。途端、心臓から指先まで煮え立つような熱が迸る。真澄はそのまま糸を握りしめ、思い切り引っ張り出した。ぎりぎりと強い力で引っ張り合いながら、糸は真澄の手に食い込む。
清はそれを見て、音も無く銀色の長剣を取り出した。曇り一つない美しい刃に、真澄は微かに驚いてそちらを見る。清は花を取り囲む糸の網目を、一筋の閃光を伴って、素早く断ち切った。
花を取り巻いていた蜘蛛の巣のごとき糸は、はらりと崩れ落ちた。美しく無駄のない動きだった。しかし真澄の方は鋭い痛みを腕に感じ、顔を顰めた。消滅する寸前、激しい執着を見せるかのように、硬く鋭くなった糸が、腕をずたずたに引き裂いたのだ。目に見えぬほどの素早さで、光が激しく飛び散って消える。清が切った糸くずたちも同じく抵抗を見せたが、すげなく剣で払われて、清は少し手を切っただけであった。
花は何が起こっているのが見えてはいなかったが、突然真澄の腕に無数の傷が現れ、鮮血が飛び散ったのは目視することができた。現実にあり得ない現象を今まさに目撃してしまい、ただ驚き戦慄するしかない。
「クソッ!」
真澄が悪態をついて、両腕を雑に払った。コンクリートに血の花が散る。花は我に返ったように、慌てて鞄から白のハンカチを取り出すと、傷口をそっと抑えた。見る見るうちに白色が赤色に染まり、真澄はそれを見て、眉根を寄せハンカチを押し除ける。
「これくらい平気だ」
「……真澄ちゃん、……真澄ちゃん……なんで……?」
当惑して上手く口の回らないまま、蒼褪めて狼狽えている花に、真澄は汚れてない方の手のひらで、軽く肩を押した。がさりと持っているビニール袋が音を当てる。
「それより人が集まる前にここを離れよう」
真澄は素早く、先程買ったキッチンペーパーの封を開け、両腕に適当に巻き付けておく。花も片手では大変だろうと結び目を作るのを手伝った。真澄と清も静かに一度目を合わせたが、特に言葉は交わさないままに、急いでスーパーを後にした。