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魔女と惚れ薬《後編》




「このジュースはどちらかが飲まなければ成立しない。もし本当に迷ったら、相手が飲むのを止めるか、自分が飲むのを止めたらいいよ」


 早苗は魔女の言葉を、先ほどから何度も頭の中で反芻していた。手の中には魔女から手渡された、一本のボトルがある。中味は透き通るピンク色の液体で満たされていて、キラキラと金色の粉末が揺蕩う、美しい飲み物だった。


 魔女は噂に聞いていたよりも、情の厚そうな人柄をしていた。不安そうに惚れ薬入りのボトルを受け取る早苗に、魔女は優しく声を掛けてくれたのだ。


「大丈夫。上手くいく魔法をかけたから。ね?……もし、上手くいかなかったら、私を恨めばいいよ」


(けど、本当に効くのかしら……今更だけど、魔法だなんて……)


 早苗はいざ、この薬を使うとなると、一気に不安が押し寄せてきて、決めたはずの決心もぐらぐらと揺らぎつつあった。しかし、「魔法」などという不確かなものであったとしても、何かに縋っていないと、心が圧し潰されそうだった。


(これがあれば、あの人の心を繋ぎ止められるかもしれない)


 しかし、本当にそれでいいのだろうか?もしこれを飲んだ後、また彼の心が離れるようなことがあれば?


(私はまた、「魔法」に縋りつく?それでもまた不安になったら?……今度こそ私は……どうすればいい?)


 女の心はあちこちに行ったり来たりと、堂々巡りを繰り返していた。思考が纏まらず、呼吸もなんだか息苦しくなってくる。


「た、ただいま……」


「……っ!お、おかえりなさい……」


 早苗は驚いて、男の顔を見る。帰ってきたことにも気づかないくらい、思い悩んでいたらしい。慌てて手元の物を隠そうとしたが、男の視界にしっかりと映っているため、今更遅い。


「それは?」


「こ、これは……頂き物で……一緒に飲む?気分じゃなかったら、全然いいのよ?」


 早苗はつい早口になってしまい、男の顔を恐る恐る覗き見た。男はゆっくりと首を横に振る。なんだかこうして正面から目が合うのも、久しぶりのような気がした。男はいつも仕事で帰りも遅く、疲れているだろうと早苗も気を利かせて話しかけないことが常だった。初めは互いに気を遣い合っていただけなのに、いつの間に、こうして関係がよそよそしく変わってしまったのだろう。早苗は途端に、悲しみが胸に迫ってきた。


「いや、丁度いい。……実はちょっと、話があるんだ」


 そのローズジュースはとても不思議な飲み物だった。グラスに注ぐと、金色の粉がまるで生きているかのようにくるくると回転し、ピンク色は見る角度によって、青や黄色にも光って見えた。


「綺麗だね」


 静かに囁く男の声に、女は頷いた。正直いてもたってもいられずに、今すぐどうにかなってしまいそうだった。本当にこれを飲むのかどうか、まだ決めかねているのに、彼を騙して、これを飲ませようとしているのに、自責の念からだろうか、グラスを持つ手が震えていた。


「乾杯」


 薄く微笑んでグラスを持つ男は、女の様子に気付いていないようだった。女は男の微笑みに一瞬目を奪われた。ばらばらと宝石にこびりついていた何かが剥がれ落ちて、美しい光がチラついたような気がした。彼女は自分に向けられる、彼のこういった表情が、とても好きだったのだ。


「っあ、……」


 女が止める間もなく、男はローズジュースに口を付けていた。


 その瞬間、眩い光が、グラスから次々と飛び出していた。その光は色とりどりで、七色に光り輝き、部屋中をあっという間に埋め尽くす。二人は目を丸くして言葉を失ってそれを見た。


 金色のラメが降り注いで、見たことも無い文様を描く、美しい絵になっていく。幼い子供が、どこからか歌を歌っていた。その声は一人ではなく、次々と歌声は重なって、荘厳な旋律を紡いでいく。繊細で優しいその声色は、まるで神から使わされた天使たちの歌のようだった。そのメロディは温かく、次々と咲く花のように美しかった。異国の言葉なのか、内容は分からない。部屋を見渡すと、飛び出していった七色の光が部屋をメリーゴーランドのようにゆったりと旋回していて、その中に子どもの影のような朧げなシルエットが見え隠れしていた。


 早苗は思わず感動に目を潤ませた。そう、言葉は分からなくても、この子どもたちは明らかに、二人に対して、祝福と幸福を歌っていたからだ。二人で挙げた結婚式のことを思いだしていた。そこにいる誰もが、二人の輝かしい未来、二人のいつまでも変わらない幸せを願っていた。会場は人々の笑顔と、瑞々しい花たちで溢れ返り、早苗と男は、何度も幸せを確かめるように、顔を見合わせてただ笑った。


 早苗の考えを見抜いたかのように、部屋の床には見たことも無いような美しい花々が咲き乱れ、天井からはひらひらと花びらの雨が降り出した。


 それらをうっとりと眺めていると、ピンク色の優しい光が二つ、蛍のように二人の間を飛び回った。音楽に合わせて、ゆったりと舞い続けている。早苗と男……太一は、顔を見合わせて、思わず吹き出した。太一の差し出した手を取って、早苗は二つの光と、共に踊った。言葉にならない幸福が心から指先まで満ちていって、涙が零れ落ちた。妖精たちの優しく温かい心は、二人の縮こまっていた心を、あっという間に溶かしてしまったのだ。


 その時間は数分のことだったが、二人にはとても長い時間のようにも感じた。幻影は静かに消えて行って、音楽ももう聴こえない。二人はただ言葉も無く、目を閉じて動かなかった。そうして握った手の温もりが壊れずにここにあることを、いつまでも確かめ合っていた。








 青年は顔を上げた。窓ガラスに叩きつけられる雨音が、急に強まった気がしたからだ。そして、店の外にずぶ濡れの一人の青年が立っていることに気付いた。驚いて、洗っていた食器を置いて、ドアに向かった。店はもう閉店時間で、丁度片づけをしていたのだ。タオルでも借りに来たのかな、と予想して、ドアを開ける。カラン、とドアベルの音が、して、外の雨の音がより強くなる。


 こんなお客さんいったっけな、と店主は首を傾げた。青年はシンプルなワイシャツに黒いパンツといういたって普通の服装だったが、手足がとても長く、すらりとしていて、まるでモデルさんみたいだな、と店主は思う。濡れた黒髪の張り付く顔も、彫りの深い、鼻筋のはっきりとした顔立ちで、猫のように吊り目がちの瞳が印象的だった。


「……あの、大丈夫ですか?」


 何も言わない男に店主である青年はおずおずと尋ねる。黒髪の男は少し目を見張って、店主から目を逸らした。閉店時間に店に訪ねてくるような人にしては、随分と人見知りだな、と店主はますます不思議に思う。


「タオル、持ってきますね」


「いや、いい」


 店の奥に引っ込もうとする店主の腕を、男が強く握る。その力は強く、少々驚く。手のひらの温度は雨の中を歩いていたと思えないほど熱かった。


「あの、熱があるんじゃ……」


「ここに胡散臭い、妙な若い女は来たか?人形について訊き回っている」


 男の有無を言わせない様子に、店主は不審に思いつつも、尋ねた。


「人形って?」


「包帯でぐるぐる巻きにされた怪しい人形だ」


「いえ、そんな話は特に……」


 言いながらも店主は、あなたも十分怪しいけれど、と心の中で書き足した。男はそれを聞いて満足したのか、静かに手を離す。


「その女があんたに妙なことを色々聞いてきても、何も話すなよ。絶対に相手にするな……突然押しかけて、悪かった」


 颯爽と立ち去ろうとする男に、店主は慌ててそれを止める。


「待ってください、流石に傘を貸しますよ」


 その申し出に、男は不機嫌そうに言葉を返した。


「もう遅い、どっちみち濡れる」


 店主は聞かなかった振りをして、急いで店の奥から、タオルと傘を持ってきた。差し出されたそれに、男は困ったように、視線を泳がせた。


「あんたのは……」


「私は二階に住んでますし。大丈夫です」


 店主は微笑んで、男の手にそれを押し付けた。


「気を付けて。雨の日は滑りやすいですから」


 男は店を出て、暫く途方に暮れたように傘を見た。店の中を見ると、店主は食器洗いに戻ったようだ。ガラス越しに目が合って、柔らかく微笑まれる。男は慌てて視線を逸らした。


「……どうやって開くんだ、これ」


 結局男は傘を使わず、隣家に生えていたヤツデの葉に目をやると、それをちぎって、タオルが濡れないように被せると、雨の中を歩き出した。








「……騙してたんですね」


 その言葉に真澄は申し訳なさそうに頬を掻いた。言葉とは裏腹に、再び真澄の家を訪れた早苗の表情は、とても柔らかく、憑き物が落ちたように穏やかだった。


「いやほんとに……申し訳な……」


「ごめんなさい」


 真澄が謝ろうとする前に、早苗が頭を下げて、真澄はぎょっとする。慌てて顔を上げるように言うが、早苗はそのまま、言葉を続けた。


「無理なことを言って困らせてしまって、ほんとうにごめんなさい。……それなのに、ここまで心を尽くしてくれて、私、わたし……」


 早苗の声が震え始めて、真澄は優しくその肩に触れた。真澄は心の内である種の感動を覚えていた。今までは、真澄が魔法を使えることを不気味に思ったり、それを利用しようと擦り寄ってくる人間ばかりだった。しかしこんな風に、真澄の想いを理解し、尊重しようとしてくれる人に、出会えることもあるのだ。言われるがままに、人の心を支配するような薬を作らなくて本当に良かった、と真澄は思った。


「私こそ、結果的に色々と嘘をついてしまって、ごめんなさい……」


 早苗はボロボロと涙を零した。けれどその瞳は、幸福に満たされていて、美しかった。


「すごく、すごく、綺麗でした……私、あの夜の事、決して忘れないと思います」


 真澄はその言葉を聞けて、ようやく笑った。


「お礼なら妖精たちに言ってください。私は何もしていませんから」


 清とつくったフルーツケーキは、妖精たちの仕事をねぎらうものだ。こんな頼みごとを今どきしてくる人間がまだいることに、妖精たちはとても驚いていたが、それが真澄だと知ると、喜んで引き受けてくれた。定期的に贈り物をしていて良かった、と真澄はほっとしたものだ。


「いえ。魔女さんは本当に、すごいです。私は、間違っていました……」


 元々こういう性格なのか、早苗がまた思い悩みそうな気配を察知し、真澄は慌てて早苗の肩を軽く叩いた。


「顔を上げてください。あなたは魔法よりずっとすごいことをしたんですよ。胸を張ってください」


 緩く微笑んだ真澄の表情は、今にもウインクしそうな感じにお茶目だった。早苗は目を瞬かせる。


「え?」


 真澄は早苗に感謝の気持ちも込めて、言葉を伝えた。それは嘘偽りの無い、心からのものだった。


「あなたはもう一度、人を愛することができたんです。……これは本当にすごいことですよ」


「……っ、ありがとうございます……ありがとう、優しい、魔女さん……」


 庭に咲く薔薇たちを優しく温める皐月の日差しの中、二人は心を通じ合わせたこと、その類まれなる喜びをただ、分かち合っていた。







 花は先ほどから上がったままの息も構わずに、町中を駆けまわっていた。走り続けて、息が苦しくて、心臓が張り裂けそうだったが、それよりもずっと大切な物があったからだ。


(どこだろう、どこに落としちゃったんだろう……私の……あの子からもらった……大切な……)


 駅も普段通る道も、お店の中も一通り見たが、見つからない。このまま見つからなかったらどうしよう、と思うと、悲しみや焦りで頭がいっぱいになる。花は一度立ち止まって、息を整えようとした。突然立ち止まった花に驚いたのか、曲がり角から現れた人とぶつかりそうになる。


「っ、ごめんなさ……!」


「君……」


 花は顔を上げて、不思議に思った。ぶつかりそうになったのは若い女で、花より少し年上に見えるが、会ったことは一度も無い。しかし女の方は花を見て、何か気になることがあるようで、妙な感じがする。

 

花ははっとして、慌てて俯いた。怯えた様子の花に、女は驚いて、すっと身を引いた。


「いや、……気を付けて」


 花はぺこりとお辞儀をすると、そのまま駆けて行った。きょろきょろと、道路に視線を落としながら、探し物を続けている。女はその後ろ姿を見つつ、暫くの間思案した。


(ふむ……かわいそうに……)


 女は花の容姿を再び思い返した。顔も体も小さく、全体的に痩せていて、幸の薄そうな女の子だった。しかしよく見ると非常に可愛らしい顔立ちをしていて、両の多い睫毛や、甘い形をした目……柔らかそうに巻かれた明るい髪の毛は、「お姫様」という言葉が良く似合う。女は薄く笑った。


(気にしてたらキリ無いけど……かわいかったしなぁ……)


 女が人差し指を立てると、しゅるしゅると音を立てて、その指に細い糸が集まってくる。その糸は透明で、触れれば切れてしまいそうなほどの硬さを持っていた。


(サービスしとこ♡)


 女が花の後ろ姿を指差す。無数の糸が彼女に飛び出して、彼女の周りに円を描く。糸は複雑に絡み合い、精巧な網目模様を作り上げると、そのまま消え失せる。花は一切気付くことなく、女から遠ざかっていく。



(君に祝福がありますように……なんて、ね)


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