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凌霄花の隣に《前編》



 琉夏の別荘を出て、潮風を浴びながら、真澄は駅まで歩いていた。慣れぬ環境で数時間過ごした事だけでなく、右腕に受けた厄介事もあり、ささくれた気持ちで真澄は一杯であった。

(清とも少ししか話せなかったな……)

 一月程ぶりに会ったが、清は変わらず清のままであった。椿に連れ添って来たという事は、山に住む連中とも、割とうまくやれているのだろう。真澄はそう思うと、少々面白くないような気持ちであった。清は幼い事接してきた山の妖怪妖魔たちとは、交わらぬような存在であるはずだと、真澄はどこかで思い込んでいたのかもしれない。この数時間、ずっと立ちっぱなしだった事も相まって、足取りは自然と重くなっていた。早く家に帰って、べた付き始めている化粧を落としたいな、と倦怠感の中で思う。その時、真澄の肩をそっと叩く者があった。真澄は粋に追いつかれたのかと思い渋々振り返ったが、そこにいたのは清だった。真澄はまさか彼女が自分に話しかけて来るとは思わず、驚きと嬉しさが同時に湧き上がってくるのを感じた。清は真澄を静かな瞳で見つめていて、真澄は何を考えているのか分からず少々どぎまぎしつつ尋ねる。

「どうしたの?」

 清はいたって真剣な表情で、真澄のすぐ隣、腕が触れ合うほど近くに立った。清のドレスのチュールが、ふわりと柔らかい花びらのように揺れる。半袖のワンピースドレスのため、清の滑らかな肌が、真澄の二の腕に触れていた。

(ち、近い……)

 真澄は思わず後ずさった。しかし微かに眉を顰めた清によって、腕を絡め取られてしまう。更に距離を縮まった距離に、真澄は驚いて清を見やった。

「送ります」

 清はそう言うと、有無を言わせず、真澄と一緒に歩き出した。颯爽と歩く清の耳元に、涼しげなイヤリングが揺れている。眩しい程白い項が、直ぐ近くにあった。辺りには同じように駅に向かう人や、部活帰りの学生もちらほらいて、真澄は恥ずかしさに顔が熱くなる。女子高生でもないのに仲良く腕を組んで帰るなんて、と思ったのだ。

「ね、ねぇ?逃げないからさ……離して欲しい、かも」

「……」

 真澄は顔を若干赤くして、伏し目がちに言った。そんな真澄の表情を見て何を思ったのか、清の手は静かに下りていく。真澄は解放してくれるのかと思って安堵していたが、清の手は寧ろ離れることなく、油断していた真澄の手を捕らえて、しっかりと握りしめた。真澄は、清の細い指が、自分の指の間に絡みつくのを鮮明に感じ取ってしまう。

「駄目です」

 清は真澄に優しく囁いた。真澄の言葉の出ない様子を見て、小さな白い花が咲くかのように、彼女は微笑んだ。

 いきなり彼女がこんなに距離を詰めて来た理由は分からないが、真澄は今まで清に対して漠然と感じていた何かが、いよいよ無視できない程大きく育ってしまっていに感じる事を改めて自覚してしまった。ただでさえそうであるのに、真澄は彼女を遠ざけたい理由が他にもあって、後ろめたさが倍増するようであった。

「分かった。なんでもあなたの言うとおりにするから。……お願い」

 真澄はわざと、清が身を離したくなるような言い回しを選んでそう言った。案の定清は複雑そうな表情を浮かべ、そっと手を離した。

「……その様なつもりはなかったんです。申し訳無い……」

 真澄はずきりと胸が傷んだ。しかしその痛みにも見ないふりをして、清に微笑みかける。清は結局手を離しはしたが、真澄の側を離れることはしなかった。電車に乗っている時も、真澄の家の最寄り駅に着いてからもずっとそんな調子である。そのため、真澄はもう開き直ってしまおうか、と何度も心が揺らいだ。その度に漬物石を置くが如く、その思いを奥深くに押し込めるのを繰り返す。

 山に着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。真澄の住む家まで山道を登って、玄関にようやく辿り着く。真澄は流石にここで別れるだろう、と清を見た。しかし彼女は一向に、帰る気配がない。真澄はあくまで平静を装って、清に尋ねた。

「……帰りたくないの?」

 清は静かに頷いた。真澄はその仕草がなんだか幼く感じて、少し可笑しかった。困ったような表情を浮かべて、真澄は清を見つめた。彼女は一歩近づいて、真澄の両手をそっと包み込んだ。そしてまるで懇願するかのように、瞳を切なく覗き込む。

「……真澄」

 あと少しで額が触れ合いそうな距離だった。清の美しい顔が目の前にあって、真澄は心が乱れた。心の中で、己の不埒な気持ちをひとつ叱責せざるを得ない。勘違いするな、と自分に言い聞かせる。清の瞳に宿るのは、ひたむきで切実な何かで、そこに他の意図など、含まれてはいないはずだ、と。彼女は純真な人であったからだ。

(清は一体どうしちゃったんだ?)

「お願いです……傍に居させて」

 真澄は思わず顔で手で覆いたくなった。けれど清に掴まれていて動かせず、変な表情を浮かべてしまう。勝手に上がりそうになる口角が憎らしくて、唇を噛み締める。真澄はこれ以上自分が醜態を晒してしまう前にと、ぎこちなく頷いていた。

「いいよ……入って」



 二人ともそれほどお腹がすいていなかったので、夕食はスープで済ませることにした。真澄は遠慮がちに、清へ微笑みかける。

「あのさ……庭からパセリを取ってきてくれる?」

「先程、冷蔵庫にありませんでしたか?」

 真澄はわざとらしく咳ばらいをして、伏し目がちに清に告げる。

「し、新鮮な方が良いからさ」

 清は頷くと、やっと真澄の傍を離れる。真澄はほっとして、まな板を持ち上げ、切っていた野菜を包丁で鍋の中に落とした。お湯の中でオレンジ色や緑色がくるくると舞っている。真澄は無意識に深く息を吐いていた。

「このくらいでいいですか?」

「わっ!……はやくない!?」

 見れば清の手の中には、確かに見栄えの良いパセリが一房ある。真澄は苦笑した。

「夜なのにごめんね、ありがとう」

「いいえ」

 清は気にした風も無く、お皿を二枚取り出した。一緒に住んでいたこともあって、迷いの無い動きである。二人で食事を取った後、片付けも清が手伝って、直ぐに終わってしまう。真澄は自然にバスルームに向かっていた。しかし後ろから付いてくる足音があって、吃驚して振り返る。清の表情はきょとんとしていて、真澄が急に振り返ったことが不思議そうに見える。真澄は一旦、素知らぬ顔をすることにした。そのまま脱衣所に入った真澄と一緒に、清も中に入ろうとする。流石の真澄も恥ずかしさに頬を染め、慌てて清に叫ぶ。

「お風呂は流石に大丈夫だから!」

 真澄はこんなにも他人の言動にどぎまぎしたことが無く、心臓の調子が狂ってしまうのではないかと思われた。

 自室に戻った真澄が眠りに付く時にも、当然、清は部屋についてきた。ベッドに上がった真澄が見れば、清は窓の外を見つめ、何か考え込んでいるように見える。

「……ねぇ、ここで一緒に寝なよ」

 真澄はぽんぽん、と布団を叩いて彼女に呼びかけた。一瞬迷いを見せたような清の表情に、真澄は堪らなくなって、ベッドから下りる。真澄は清のお腹に抱き着くと、そのままベッドの中に彼女を引き摺り込んだ。

「っ!真澄……」

 清が少し焦ったような声を出す。真澄は白々しく寝た振りをして、清に回したままの腕もそのままに、目を閉じた。どきん、どきん、と自分の心臓の音が聞こえてくるような気がした。彼女の体は意外にもしっかりとした体格をしていて、真澄よりも少し大きな背中をしていた。妖怪妖魔の体温は人間よりも低いため、真澄のあたたかな体温に、清は驚きの表情を浮かべていた。

「……おやすみなさい」

 清がふっと微笑む気配がする。真澄もひっそりと笑っていた。さらり、と清が真澄の頭を撫でていくのが、気持ちが良い。清の豊かな巻髪はひんやりと冷たく、軽やかな花の匂いがした。真澄はあっという間に眠りの世界へと落ちて行った。



 リリィは朝方の日課である散歩を終えて、真澄の家に戻った。真澄の作った、猫用の出入り口があるため、真澄を起こす必要も無い。リリィは上機嫌のまま、ドアに通じているリビングに、するりと身を滑らせ入った。そして目に入ったキッチンの光景に、ぎょっとして固まってしまう。そこには寝間着のまま、寝ぼけ眼の真澄と、まるで恋人のような距離感で、キッチンの天板に手を付いて、身を乗り出す清がいた。真澄のハニーブロンドの髪が朝日に照らされ、乱れ毛が真っ白に煌めている。清が顔を寄せ、目を伏せると、真澄は白く細い指でサクランボを摘まみ、清の薄い桜色の唇に、その艶治な果実を押し込んだ。

「おい……」

 リリィの地を這うような呻き声にも、二人は気付かずに「甘い」だの「これは酸っぱい」だのと、サクランボの批評に明け暮れている。リリィは少年の姿になって、つかつかと真澄の目の前まで歩いて行った。

「真澄」

「あぁ、お帰り。リリィは朝ごはんいる?」

「いる。それより、お前……その右腕はなんだ?」

 リリィは顔を顰めて腕組みした。ちらりと清を睨み付け、威嚇をするのも忘れない。清は落ち着き払った眼差しで、リリィを見返した。

「ちょっとねぇ……でもまぁ痛くは無いし」

 真澄はなんてことの無いようにそう言うと、大きな欠伸をひとつする。清はちらりと真澄を見つめたが、何も言う事は無く、手元のサクランボに直ぐに視線を戻していた。

「この間抜け」

 リリィは心底不快そうな顔で真澄を罵った。ふん、と真澄に踵を返すと、ソファの定位置に横たわって、不貞寝を始める。清は内心、この二人の関係性はよく分からないな、と改めて思った。必要以上に関わりすぎないが、ただ傍で暮らしているだけでは無く、力を貸し合う時もある。リリィは真澄の事がどうでも良いような顔をして、真澄に近づく清には、えらく懐疑的で冷淡だ。

 清はもし自分が、誰かの使い魔になったとしたら、きっとその人に自分の全てを捧げるだろうと思う。そして二度と、その人から離れないだろう。それが自分にとっての幸福であると、確信して突き進むだろう。清にとって、リリィは自分とは異なる規範で動いているように見える、不思議な存在であった。



 真澄と清は朝食を終えると、洗濯籠を持って、良く晴れた庭に出た。季節はもうすっかり夏で、梅雨の終わったカラリとした太陽がより燦と輝いている。庭の杉の木には凌霄花が蔦を巻き付け、この季節になると美しい花を咲かせる。透き通った青空を、鮮やかなオレンジが彩る姿が、真澄は大好きだった。この花は他の木に絡みついて花を咲かせるので、静はこの花を見る度、いつも白楽天の詩を持ち出して、真澄に口煩くこう言った。「弱い木に寄りかかって花を咲かせても、嵐が来てしまえば共倒れだ。お前はちゃんと添い遂げる相手を選べよ」と。「妖怪でもないのに、人間に強いも弱いもあるかよ」と、幼い真澄は白けた思いでそれを聞いていた。しかし、今なら少しだけそれが分かるような気がする。静は多分、昔添い遂げたいと想う程に、大切な人がいたのだ。


 真澄は庭の真ん中に布団干しを広げて、清と洗い立てのシーツを干していった。白い洗濯物の眩しさが反射してか、清の表情は益々眩しく、その微笑みはどんな花よりも愛らしく見えた。柔軟剤の良い匂いの中で、庭の草花もいつもより新鮮な生気を纏っているように思える。真澄はいたずら心に、清の頭にシーツを被せようと近寄った。清はさらりと身をかわして、シーツの片側を持ったまま、真澄を避ける。

「あ、逃げたな!」

 真澄は無邪気な笑みを浮かべて、清を追いかけた。清も珍しく、慎ましい笑い声を上げて、庭の中をひらりひらりと舞った。彼女は夏らしい涼し気な色のワンピースを着ていて、彼女の長い髪がふわふわと揺れるのは、まるで美しい精霊が、小鳥たちと戯れるような可憐さがあった。

「捕まえたっ」

 とうとう真澄が追い付いて、青々と茂る草の中に、二人は縺れ合うようにして倒れ込んだ。爽やかな緑の匂いと、人工的な花の香りに包み込まれながら、くすくすと笑い合っていた。湿ったシーツに草の葉がくっついてしまうが、真澄はそんな些末な事などどうでもいいと思える程、気分が良かった。胸の底から込み上げる思いのまま、清の表情をもっとよく見たくて、シーツを掻き分けた。清の微笑みは見れば見るほど美しくて、彼女の癖毛を、真澄は意味も無く撫で付けていた。

(この瞬間が、永遠に続けばいいのに……)

 暫く言葉も無く見つめ合う。穏やかだが、寂し気にも感じられる口調で、清は尋ねた。

「……魔法が使えないのでしょう」

 真澄は手を離して、苦笑した。

「……困った事にね。占いも依頼も、これじゃできないな」

「そうですか……」

 深刻な空気になりすぎないように、真澄は笑った。

「大丈夫だよ。痛くないし、生きてるもの。それだけでも喜ばしい」

 清は何か考え込むように、目を伏せていた。その頬を包み込んで、真澄は清の透き通るような瞳を覗き込んだ。清の額に、真澄の優しい口付けが落とされる。清が長い睫毛を震わせる。真澄は彼女の頭を自分の胸に抱きかかえた。

「このままお昼寝したいな」

 真澄が幸せそうに呟いた。その儚い命の中に、彼女の細い腕が、清の心を在るがままに、抱き締めている。清はこの瞬間までずっと、絡まったままの糸を解けずに放って置く事など、恥ずべき事だと信じ続けていた。

 真澄のあたたかさはまるで、思わず身を留めたくなる、陽だまりのようだと清は思った。



 紫蘭は普段人里に借りた民家に住んでいて、そこで教室も開いている。授業が休みの曜日にだけ、五ノ山にある、本来の住処に紫蘭は戻る。奥深い山々の上を、清を乗せて真澄は飛んだ。日差しは眩しいが、風は心地良い。腰に回された遠慮がちな清の手が可愛らしくて、真澄は自然と微笑んでいた。家の前に降り立つと、清は気を遣ってか、その辺を歩いて来る、と真澄に伝える。真澄は頷いて、家の中に入った。静かな家の廊下を歩いて、居間に入ると、紫蘭は丁度生徒たちの硬筆を添削していたようで、机にはペンや大量の紙が置かれている。

「師匠?」

「真澄。どうしたのですか?」

 紫蘭が首を傾げ、真っ直ぐで艶やかな黒髪が、着物の上を滑り落ちた。紫蘭の顔立ちはこの上なく高雅で、見る者を圧倒させる美しさがあると真澄はいつも思う。少しばつが悪そうな表情を浮かべて、真澄は紫蘭の傍に寄った。

「急に来てすみません。少し、診て欲しくて」

 真澄は畳の上に正座をすると、カーディガンを捲り、紫蘭へ右腕を差し出した。紫蘭は持っていた赤ペンを置くと、その腕を静かに取った。真澄の脈を測って、紫蘭は微かに眉を寄せる。

「その、魔法が使えないみたいで……」

「呪物の類ですね。この手の物は、無理に剥がさない方が良い」

 紫蘭は百足の様子を丁寧に見て、自分の方でも調べてみると真澄に伝えた。真澄は少しほっとして、袖を直した。

「師匠、神崎という名の術師は、聞いたことがありますか?」

 師匠はゆっくりとかぶりを振った。彼女は実際、世を憚って暮らしていた時期が長く、この地の情勢にはそこまで詳しくは無かった。相手が人間となれば猶更だ。

「その人物がこれを?」

「あじさい祭りにいた人間と同じである可能性も高いです。空間術に長けているようでしたから。若い女のようでしたが、それ以上は分かりません。顔を隠していたので……」

「……真澄、無理はしないでくださいね」

 紫蘭は真澄の手を取って、目を伏せた。真澄は視線を彷徨わせ、神妙な面持ちで、紫蘭に尋ねる。その表情には珍しく弱々しい不安が宿っているようでもあった。

「師匠、その、あれは……」

「変わりないですよ。大丈夫です」

 紫蘭の穏やかな声に、少しほっとしたように真澄は息を吐く。しかしその表情は暗いままで、晴れやかとは言い難いものだった。

「もしかしたら、祖母の事と関係あるのでしょうか?」

「……そうかもしれません。まだ、分かりませんが……」

 紫蘭は心を痛めたように、真澄の腕を見つめていた。真澄はその表情を見ていると、これ以上この人を傷つけるのは忍びないと思って、取り留めの無い世間話を持ち掛ける。紫蘭は地に落ちた蝶の亡骸にも真剣に心を痛めて、安らかな眠りを願うような人なのだ。

 真澄はなんとなく、琉夏の事を思い出していた。あの才媛であれば、もし朽ちた蝶を前にしても、胸を痛めずにいられたりするのだろうか、と。師匠よりもずっとずっと若い、ただの人間の子だけれど、だからこそ彼女にはそれが可能かもしれない、と真澄は思った。師匠は恐らく、永く生きても尚、それでも救えなかった者が多すぎて、深く傷ついている。想像してみた琉夏の表情はとても安らかで、その光景はまるで、両の手から溢れて落ちていく存在を、救えなかったと心を痛める事も無く、ただ超然と見つめている釈迦のようであった。




2026.2.1 同人誌発行の折、改稿しました。

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