星のケーキ《中編》
リリィは独り、困り果てていた。青年に化けた彼は、黒のシャツにジーンズを着て、手には小さなケーキの箱を一つ持っていた。リリィは先程から、ドアから店の中を覗き込み、辺りをうろついては、またドアの前に戻る、という動作を繰り返している。十分程そうしていたものの、そろそろあきらめて帰ろうと踵を返した時、彼に声を掛ける人がいた。重たそうな買い物袋を片手に提げて、リリィを見つけ、喜びに表情を緩めている。
「どうしたんだい?私もすごく会いたかったから、嬉しいよ」
「……」
リリィは人間を見つけた野良猫の如く、ぴしりと固まった。雪人が首を少し傾げる。リリィは切れ長の目を見開いて、暫く息を詰めていたが、雪人に持っていた箱を押し付けると、すぐさま走り出していく。
「あ、まっ……」
雪人が片手を上げた瞬間、ビニール袋が裂ける音が小さく鳴り響いた。床にペットボトルや野菜、果物などが転がって、四方に散らばっていく。リリィは振り返って、少し迷った後、自分の近くにまでやってきたトマトを一つ拾い上げた。雪人が困り顔でリリィを見上げる。
「はは、ごめん。入れすぎたみたいだ。ここのスーパーの袋は、あんまり頑丈じゃないのを忘れていた」
「俺が持つ」
リリィは床の物を拾い集め、腕の中に器用にそれらを積み上げていった。雪人はリリィの渡した小さな箱と、拾った洗剤を一つ、もう片方の手に持っているだけになってしまい、少々きまりが悪い。
「ありがとう」
リリィはただ肩をすくめて見せた。雪人は裏口から家に入り、二階の居住スペースに彼を通した。小さな1LDKの部屋で、リビングの向こうに見える和室は、本棚と本で埋め尽くされている。静かで、日当たりの穏やかな部屋だった。リリィは居間のテーブルに腕の中の物を置くと、今すぐにも帰りたそうな気配を見せた。雪人はすかさず、彼に話しかける。
「助かったよ。今日はどうして店の前に?」
「真澄にケーキを持って行けって。……この間は手当てなんてさせて、悪かったな」
「星乃さんが?気にしなくていいのに。私の方こそ、助けてもらったのに、何も……」
雪人は二人に気を遣わせてしまったように感じ、リリィも何か思う事があったのか、黙り込んでしまう。二人の間に微妙な空気が流れて、雪人はこれではいけない、とどんよりとしたものを振り払うように、少し明るい声を出した。
「よかったら、一緒に食べないか?丁度二つ入っているみたいだし」
「俺でいいのか?」
リリィは腕組みした姿勢で、雪人をちらりと見返した。雪人は頷いた。
「今日は少し時間があるんだ。君さえよければ、囲碁も教えるよ」
「分かった」
リリィが意外にも素直に頷いて、雪人は少しほっとした。彼は本当に、猫のように気まぐれだな、と思う。机の上の物を片付けてから、雪人は皿の上にケーキを取り分けた。瑞々しい苺の乗った、シンプルなショートケーキだった。甘酸っぱい匂いと、優しい生クリームの匂いが香り立つ。雪人はリリィがコーヒーが苦手だろうから、飲み物を何にしようかと尋ねた。しかし「耐性はついた」と、あまりに真剣な顔でリリィは返すので、少し悩んでから、ミルクと砂糖を多めに入れたカフェオレを彼に差し出すことにした。
「そういえば、星乃さんとは仲が良いのかい?」
「最悪だ。いつか痛い目見せてやろうと思ってる」
「は、はは……」
リリィは一口食べて満足したのか、フォークを進めもせず、雪人を熱心に見つめてばかりいた。初めは気にしないようにして、ケーキを味わっていた雪人も、段々と意識が削がれて、リリィの方を見る。リリィは悪戯っぽく微笑んでいて、雪人は思わず苦笑した。
「どうしてそんなに見つめるんだ?」
「見ていたいから」
あまりに飾らない言葉に、雪人は言葉に詰まった。リリィはとても穏やかな微笑みのまま、何か眩しくて優しいものを見つけたかのような顔をしている。雪人は彼から見た自分が、まるで自分ではない何者かのように感じ、居心地が悪くなった。
「そ、そういえば、星乃さんの猫は帰ってきた?」
「あぁ。心配ない」
「その、君の傷の方は……」
「もうなんともない。気にしないで」
雪人はほっとした。リリィは足を組んで、背もたれに身を任せた。薄く唇に笑みをたたえて、楽しげに呟いた。
「これ、願いが叶うケーキって言われてるらしいぜ」
「え、本当に?」
「あぁ。星の精霊が作った砂糖で作ったからな……あなたなら、このケーキに何を願う?」
リリィの口調は冗談交じりの物だった。意外とメルヘンな事も考えるのだな、と雪人は笑って、それに答えていた。
「うーん、なんだろうね。……健康になりたい、とか?」
「……どこか悪いのか?」
リリィが口元から笑みを消して、雪人を見る。慌てて、雪人は手を振ってみせた。
「いやいや、元気だよ。ただ、私は少し忘れっぽいみたいで。たまに老後が心配になるんだ」
リリィは何か言いかけるが、結局口を閉ざし、一口、カフェオレを飲み込んだ。雪人は手を合わせて、いつの間にか食べ終わっていたリリィの皿も片づけに立ち上がる。
「そっちの本棚が置いてある部屋に、碁盤があるんだ。先に座ってていいよ」
リリィは頷いて、隣の和室に向かった。雪人は彼といるとどうも少し緊張するな、と苦笑いして、皿洗いを済ませる。そしてはっと、ある事に気付き、慌てて手を拭いて、和室の方に向かった。
「あっ……」
雪人は部屋の床を見つめ、肩を落とした。しかしすぐにリリィの姿を認め、その光景がとても綺麗で、そちらに目が奪われてしまう。雪人の自室には奥側に腰窓があって、そこにリリィは座っていた。窓から降り注ぐ陽光を、リリィの黒髪が柔らかく受け止めていて、肌はその白色に洗われたかのように滑らかである。静穏とした瞳は伏せられ、一枚の小さな紙切れに落とされていた。リリィは雪人に気付くと、腰窓からさっと足を下ろした。
「悪い。けど、字はさほど読めないから安心してくれ」
リリィは立ち上がり、雪人に紙切れを返した。雪人は緩やかに微笑んで見せる。
「いや、片づけるのを忘れていた私が悪い。散らかっていてすまない」
床には字を書き付けられた紙切れがいくつも落ちていた。雪人はそれを両手で掬い上げると、部屋の真ん中に置かれていた、瑠璃色の壺の中に紙を落としていった。
「これは何を書いていたんだ?」
「え?」
リリィはごく普通の口調で雪人に尋ねた。冗談ではなく、本当に検討もつかないようだった。雪人は彼は外国人であるという説が、ふと思い浮かぶ。しかし既にある説には及ばないな、と直ぐに頭の隅に追いやっていた。
「和歌や俳句だよ。この壺がいっぱいになるくらい、作りたくてね」
「ふぅん」
リリィは空返事をひとつすると、紙を一緒に片づけ始める。
「……変だと思わないのか?」
「別に。夜中に弓で花火を打ち上げて、一人で喜んでる奴の方がずっと変だ」
「それはそれで、楽しそうだね」
雪人は、「もしかして、星乃さんはそんな変わった事もしているのか?」と、内心驚いた。想像してみると、確かに星乃さんが生き生きとしていそうな光景で、頬が緩む。リリィはなんだかんだ、星乃さんと夜中に遊ぶほど仲が良いのかもしれないし、……きっと、彼は天邪鬼なだけで、彼女の事が好きなのだろう。雪人はそう結論付ける事にした。
リリィに囲碁を教えてみると、彼はとても覚えが早く、頭の回転も速かった。簡単な詰碁をいくつか出題してみると、これも直ぐに応えてしまって、雪人はどんどんと楽しくなってくる。初めはゆっくり教えるつもりだったのが、早くも対局をしてみよう、と彼に持ち掛けてしまっていた。リリィは打ち筋も竹を割ったようにきっぱりとしていて、性格がよく出ているように思えた。雪人の力量との差を心得ているためか、無理な勝負も決して仕掛けてこない。
「攻めの姿勢も大事だよ」
雪人は彼を少し揶揄うように言った。リリィは軽く鼻を鳴らして、拗ねたような表情をしていた。腕を付いて、盤上から目を離さず、戦略を立て続けている様にも見える。
「では、私から行こうか?」
雪人が仕掛けるが、リリィは柳のようにさらりと衝突を避けて、あっさりと陣地を譲ってしまう。雪人は呆れて、段々と、彼は勝つ気が無いのか?と思えてくる。リリィの黒石は雪人にされるがままで、ほとんどが死に石になってしまっていた。
「あぁ、これはまずいな」
リリィは満足げに呟いた。雪人の白石が陣地を広げている方が、自分にはありがたいとでも言うような口ぶりで、あまりにわざとらしい。
「全く君は……」
「悪かった。俺はあなたを接待するには、まだ早かったよ」
リリィが両手を上げて、降参のポーズをとる。
「負けました、だよ」
雪人はわざと真面目くさってそう言った。リリィは目を見開いた後、自然と口角を上げて、微笑んでいた。
「負けました」
リリィの恭し気なお辞儀と、胸に添えられた敬服のポーズに、二人は顔を見合わせて笑っていた。
「君は筋が良いね。よく考えて打てているから、きっと上達も早いよ」
「俺は別に……一度やってみたかっただけだ」
リリィは途端に、複雑そうな顔をして呟いた。雪人は眉を下げ、慌ててこう言っていた。
「そんな寂しいことを言わないで。楽しくなかったかな?」
雪人は自分で言っておきながら、少し恥ずかしくなった。雪人は遠慮がちな性格だったため、浮かれて、口を滑らせてしまったように感じたのだ。
「まさか。あなたが、……」
「……私が?」
リリィは途中で我に返ったように、ゆっくりと言葉を呑み込んだ。
「いや、本当にただ、石を打っているだけだったな」
「一体囲碁を何だと思っていたんだ?」
雪人は苦笑した。リリィはただ、「楽しい事」とだけ、素っ気なく返した。雪人は囲碁が好きだったので、その答えをとても気に入った。
「じゃあ、また私と打ってくれ。きっと段々、楽しくなっていくよ」
「分かったよ。俺は絶望的らしいけど、良いのか?」
リリィは首に手を回して、きまりが悪そうな顔で、雪人をちらりと見た。雪人は眉を吊り上げて、不平を口にしていた。
「そんな事、誰に言われたんだ?君はこんなに賢いし、センスも良いのに」
「……秘密」
リリィは意地悪そうに、一つ笑った。
そこは小さな海岸のある町で、真澄の町からも電車で三駅ほどの、それほど遠くない場所にあった。無人駅の改札を出れば、穏やかな田舎道は車通りもほとんど無く、海が近いためか、吸い込む空気は仄かに潮の香りがする。送って貰った地図を頼りに目的地に着くと、そこには海のすぐ側に面した、白く大きな洋館が立っていた。迫り出した庇から伸びるようにして設えられた優雅なアーチや、鮮やかなブルーの屋根、細やかな柱やバルコニーの欄干の装飾など、見れば見るほど、非の打ち所がない、美しく豪勢な外観をしている。真澄は恐る恐る前を歩いていた貴婦人たちについて行き、大きな玄関の入り口に向かっていた。
(しまった……もう、帰りたい……)
真澄は琉夏がお金持ちのお嬢様だという事を、完全に失念していた。こんな田舎者丸出しの手作りケーキなんて、貰っても困るだけだろう。真澄は小さく縮こまって、ケーキの入っている紙袋を後ろ手に隠しつつ、貴婦人たちと一緒に、建物の中に通された。
つるつるとした大理石の床を踏みしめ、玄関に入ると、既に中はたくさんの人で賑わっていた。真澄と同世代位の人から、年配の方たちまで、幅広い層が招待されているようであった。真澄は運営係らしき男に声を掛けられ、招待状を見せる。男はさっと真澄の身なりを視線で確認して、にっこりと微笑み、パンフレットを手渡した。真澄は内心居たたまれない気持ちでいっぱいであった。周りの人たちは見る限り、顔立ちの美醜に関係なく、振る舞いに気品が漂っていて、人そのものが垢抜けている人ばかりであった。自分の、唯一「結構良いはず」と思って着て来た、深めのラベンダー色のワンピーズドレスも、なんだか心許無く感じて来る。
真澄が広間に向かうか迷っている間に、上の方から声を掛けられて、そちらを見やった。玄関の目の前には、重厚な造りの階段があり、そこに敷かれた臙脂色の絨毯を踏みしめながら、こちらに軽く手を振っている人がいる。その人物は、シンプルな白のパンツドレスを身に付けていて、群衆の中でも、一際眩しく輝いて見えた。ストレートなラインが美しいデザインのドレスで、腰元が締まっており、すらりとした長い足は、高いヒールによって更に洗練さを増していた。彼女が動く度、背中の長い髪が揺れて、まるで真澄は、こちらに百合の花が歩いて来るかのように感じられた。
「琉夏さん……」
「来てくれてありがとう!うれしいよ」
琉夏は自然と真澄の手を取って、握手をした。柔らかな彼女の手のひらの温度に、真澄も安堵して、ようやく微笑みを見せる。
「いえ、こちらこそ。……誘ってくれて、ありがとう」
「こんにちは、また会ったね」
安心感を噛み締めている間に、琉夏の後ろから、女が一人ひょいと姿を現す。真澄は目を丸くして、彼女をその人物を見た。
「おんみょ……」
「黄木粋です。よろしく~」
真澄の言葉を遮るようにして、粋は無理やり真澄の手を取って、握手をする。真澄は苦い顔をしつつ、それに応じた。
「……星乃真澄です。この間はどうも」
琉夏は不思議そうに二人のやりとりを見た後、粋に問いかけた。
「先輩も、真澄殿とお知合いだったのですか?」
(先輩!?)
真澄は胸の内で驚きを隠せなかった。粋は平気で適当な事を抜かしている。
「そうそう、落とし物拾ってくれて、仲良くなったんだよね~」
「世間は狭いですね。真澄殿、黄木さんは、詩壇で今最も、注目を浴びている詩人なんですよ」
「はぁ……詩人……?」
真澄は、陰陽師と詩人の兼業なんて聞いたことも無かった。ただでさえ胡散臭い粋への印象が、益々奇妙な物へと変わってしまう。一体どんな生活を送ったら詩人と陰陽師で飯が食えるようになるんだ、と真澄は思った。自分も占い師というそこそこ珍しい職業についている事は完全に棚に上げてしまっている。
「ええ。黄木さんは大学の先輩で、私に声を掛けてくれて、親しくなったのです」
「もう卒業しちゃったけどね。こんな美人がいるなら、留年も悪くなかったかも」
「また、ご冗談を」
真澄は粋の事を白い目で見た。琉夏はそんな視線に気付くことも無く、真澄の荷物をさらりと受け取って、エスコートする。
「荷物を置く場所を案内しますよ」
「あ、……」
「あれ、これはもしかして……」
琉夏が手元の紙袋を見て、表情を綻ばせる。真澄は急に恥ずかしくなって、頬が赤くなるのを感じた。
「あ、いや、その……場にそぐわない物を、持ってきてしまったので、これは見なかったことに……」
粋は真澄の言葉を途中で遮って、口を挟んだ。その表情は楽しそうでもあった。
「えー?もったいないじゃない。後で三人で食べようよ。内輪で楽しめば問題ないでしょう。ね?琉夏ちゃん」
「えぇ。……真澄殿、わざわざ、ありがとうございます。これはこっそり別の部屋で冷やしていきましょう」
悪戯っぽく琉夏が耳元で囁いた。密やかな香水の匂いがして、真澄は恥じらいつつ頷いた。正直さっさと帰りたかったが、真澄はパーティが一段落して、琉夏とケーキを食べられるまで、人の来ない場所でも見つけて時間を潰そう、と思った。琉夏が誰かに呼び出されたので、真澄も退散しようとしたが、肩を粋に引き寄せられ、腕の中に閉じ込められる。軽やかでかつ、自然な仕草だった。まるで恋人のような近い距離感になり、真澄はうげ、と心の内で呟く。
「どこに行くの」
「……付いて来るなよ」
真澄は眉を顰め彼女を押し退けようとする。真澄は粋の事を疑っていた。花と一緒にいたとはいえ、真澄たちを襲った者の仲間でないという証拠も無い。粋は面白そうに冷たい笑みを浮かべ、更に真澄を強く抱き寄せ、囁いた。
「巧妙に隠そうとしているけれど、術を使ったような気配が建物に僅かに残ってる。気付いているでしょ?」
「だから何だよ」
「また例の術師が来てるんじゃない?」
真澄は呆れたように溜息を吐いた。べりべりと、粋の腕を無理やり自分から引き剥がす。
「そんなわけないだろ。なに言ってんだ」
「そう?忠告してあげているのに」
「……なんなんだよあんた、しつこいな」
真澄は粋からどうやって逃げようかと彼女の背後をさっと見渡した。そこで人影の中に、長い黒髪の女の後ろ姿を見つける。真澄の視線に気付いて、粋も後ろを振り返る。
「どうしたの?」
「いや……別に」
その後も粋は暫く真澄に付き纏ったが、知り合いに声を掛けられている間に、そっと真澄は逃げ出すことに成功した。ふらふらと屋敷の中を歩き回り、豪勢なシャンデリアの照明や、飾られた厚塗りの油絵などを物珍しく眺め見る。そのまま突き当りの階段を上がり、二階に入りかけて、真澄は足を止めた。一階の広間が会場となっているため、人気も無く、廊下はしんと静まり返っている。しかし真澄から見て一番奥の部屋の前には、一人の女が立っていた。その女は全身を黒いコートで覆っており、フードを被り、顔も隠していた。細身な体格や、足元の黒いハイヒールが、女性に見えるというだけで、本当にそうかは分からない。真澄は息を潜めて、彼女の行動を見守った。
コートから、彼女の白い手が伸びて、ドアノブに触れる。その上には何か文字のようなものが小さく光っているのが見えるが、真澄からは遠くてよく見えない。女はカチ、カチ、と音を立てながら、ドアノブを何度か左右に捻ると、するりと扉の中に体を滑り込ませた。女がドアを閉めたのを確認して、真澄もそっとそのドアに向かう。一見何の変哲も無いドアだが、手のひらを翳し、気配を探ると、高度な空間術がかけられている事が分かる。普通にドアを開けても、恐らく中には誰の姿も無いだろう。真澄は少し迷ってから、ドアノブに手をかけ、僅かに魔力を注いだ。
(なんだこれ……ラテン語……か?)
浮かび上がってきた金の文字に、真澄は目を細めた。知っている単語を読み取って、何とか解読を試みようとするが、文字は随分と形の崩れた書式で、簡単に読むことができない。ドアノブを回すと、一部だけ文字が変化する所から見て、正しい文章にすればいいのだろう。真澄はかろうじて文の中から、それらしき単語をいくつか見つけ出した。
(……白の……弓……勝利……?)
なんのこっちゃ、と手を離そうとしたとき、その手にそっと添えられた、美しい女の手があった。
「手を離してはいけない」
耳元で、そっと囁く声がする。真澄は驚いて、素早く顔を上げた。
「清……」
清は柔らかに微笑んだ。人に化けた清は、会場に潜り込んでいたのだろうか。髪の毛を大人びたシニヨンに纏めており、耳元には星のように煌めくイヤリングが揺れていた。清の透明感のある顔立ちにとても良く似合っていて、美しい。真澄は思わず、その笑顔に照れ臭く微笑み返していた。
「……私の言う通りに」
「うん」
真澄の手を、清の少しひんやりとした手がきゅっと握る。自分の首筋あたりに清の顔があって、真澄は自分が汗を掻いていないか、少し心配になった。清が優しく真澄の手ごとドアノブを回して、カチ、と小さな音が鳴る。組み合わせた単語が合っていたのだ。金の文字が消えて、また別の文章が現れる。
(大剣、天秤……かな……)
真澄は暫くじっと文章と睨めっこを続けていたが、やがて諦める。清の淀みのない動きによって、真澄の手の中で、次々に文章が組み上がっていくのは、不思議な感覚だった。清の真剣な瞳が伏せられ、頬に影を落としているのをそっと盗み見る。ふっと清が視線を上げて、目が合ってしまう。真澄はさらりと視線を戻した。こっそりと、じんわり胸に広がった再会の喜びを、噛み締めるように小さく笑っていた。清にされるがままだった右手から、彼女の手のひらがそっと離れていく。
「どうして分かったの?」
「こちらからは手元がよく見えていたので」
清は真澄とは反対側の階段から登ってきたらしい。真澄はそっとドアノブを開けて、部屋の中を覗いた。すると薄暗い部屋の奥から、微かな呻き声と抵抗して暴れているような、切羽詰まった物音が聴こえてくる。真澄は迷いなく部屋の中に飛び込んだ。
2026.2.1 同人誌発行の折、改稿しました。




