あじさい祭り《後編》
雪人は花の名前を呼びながら、真澄たちとは反対の、入り口の方へ足を運んでいた。腕の中の黒猫はすでに腕を抜け出していて、雪人の前を歩いていた。辺りを警戒するように、慎重に見渡している。本当に賢い猫らしい、と雪人は感心した。暫く歩いていると、蚊の鳴くような小さな声が聞こえた。それはどんどん大きくなって、やがて子供の泣き声だと分かるまでになる。その頃には蹲って泣きじゃくる、一人の少年が見えていた。猫は雪人のズボンの襟を噛んで、それ以上先に進ませようとしない。雪人はあまりに必死なその様子を見て少し嫌な予感が胸によぎった。しかし子供が泣いているのに、声を掛けない訳にはいかない。雪人は少しだけ距離を取ったまま、子供に話しかけた。
「……どうしたの?大丈夫?」
黒猫は裾を引っ張るのをやめて、雪人の前に立った。まるで守るようなその仕草に、雪人は目を見張る。しかし顔を上げた子供の顔に、更に驚き、声を失った。
「……水……水がほしいよ……」
その子供の顔は、まるで老人のように皺だらけで干乾びており、目はくり抜かれたように真っ黒な虚が大きく二つ並んでいるだけだった。表情は苦痛に歪み、喉には無数に爪で掻きむしった跡が見える。肌は異常なほど青みがかっていて、生気というものがまるで無い。
(これはどう見ても人じゃない……っ!)
雪人は思わず青褪め、後ずさった。それを見てか、子供の鬼はよろよろと立ち上がり、言葉にならない呻き声を出しながら雪人に近付いていく。
「ちょうだい……ちょうだい……よ……」
返事をしない雪人に、段々と鬼は苛立ちを見せ始める。もはや人ではありえないほど吊り上がった眉を更に歪めさせて、鬼は悲痛な叫び声を上げた。
「水を寄越せっ!!!」
鬼が鋭い爪を翳して雪人に向かって襲いかかる。鬼は信じられない素早い身のこなしであった。一秒も経たず、雪人はその刃が自分に届くことを悟り、腕で顔を覆った。
どさり、と全身に重い物が伸し掛かってくるのが分かった。背中を強く地面に打ち付けてしまい、雪人は痛みに顔を顰める。しかし、雪人に落ちてきたものは、子供にしては随分と大きく、自分より少し体格の良い、成人男性程の重量があった。雪人は自分以外の息遣いを目の前に感じて、やっと理解した。何者かに押し倒され、その中に閉じ込められている。
鬼は怒り狂う声を上げながら、暴れ回っているようだった。しかし雪人は何処にも痛みが無い。恐る恐る腕を避けると、そこにはあの、名前も知らぬ青年の顔があった。雪人は愕然として言葉を失った。黒髪の青年は雪人を庇っているせいで、背中に乗った鬼に、背中をずたずたに切り裂かれていたのだ。
「……あ、っ………」
言葉にならない声を上げた雪人に、青年が伏せていた瞳を上げて、彼を見る。その瞳は、とても静かな色をしていた。青年は痛みを感じていないかのように、微かに衝撃に息を詰めているだけであった。雪人は張り裂けられるような痛みによく似た想いが、胸中にどっと込み上げてくる。青年はそっと雪人の頭を腕で抱え込んで、飛び散る鮮血からすらも、彼を守ろうとした。
「やめて、くれ……」
リリィは何も言わなかった。雪人はまるで自分が痛め付けられているかのように、顔を歪め、悲しみにあえいだ。必死にリリィの身体から抜け出そうと藻掻く。
「やめてくれ!」
リリィはより一層、強く彼を抱きしめた。背中はもう、目も当てられないほど悲惨な事になっているだろうな、とリリィは思う。絶え間なく引き裂かれ続ける背中は、肉がぼろぼろになり、傷口がまるで焼けたように熱くなっていた。
リリィは、餓鬼の怒り、泣きじゃくるような声に密かに眉を顰め、そっと雪人の耳を塞いだ。雪人は庇われる事が辛いのだろうと、リリィには分かっていた。しかし「 この人の前で、仮にも子供の姿をした者を殺す事はできない」という思いが、リリィにはあった。雪人はとても子供が好きであった。この人は心がとても優しいから、きっとすごく悲しんでしまう。リリィはこの人を悲しませることをしたくはなかった。この程度なら、自分は死ぬ事もない。そう思っての事だった。
「君は、どうして……」
雪人の震える声に、リリィはただ、微笑むしかなかった。言葉にしようがない想いは、体中を毒のように回って、血液にまで溶けて無くなってしまったのだと思う。リリィは長い時間を生き過ぎて、どんな言葉も言い訳がましくなってしまう事を、何よりも嫌った。
「いいんだ……俺は、いいんだよ」
雪人は聞こえていただろうか。分からないが、彼はその目から、呆然としたように、一筋の涙を流した。リリィはその涙の美しさに見惚れて、痛みも忘れて雪人の表情に見入った。
ふと思えば、吐息も掛かりそうな距離だった事に、リリィは思い当たる。彼の睫毛の長さや、透き通るような瞳の色が、こんなにも直ぐ近くにある。きめ細やかな肌は、触ればとても滑らかそうで、リリィはできるだけ顔を離した。しかし何時までもこうしてはいられない。リリィはこの場がどんどんと餓鬼の発する邪気に蝕まれていくのを感じていた。鬼はあまり知能が高くないらしく、今でもリリィの背中に夢中だが、雪人が邪気をこれ以上吸い込むのも避けたい。
リリィは背中の餓鬼をひっつかんで遠くにぶん投げると、ぼろぼろになった黒のワイシャツを脱いで、なるべくきれいな面を雪人の顔に被せた。彼の耳元の辺りに、リリィは囁いた。
「絶対に、目を開けないで」
雪人の答えも聞かず、リリィは立ち上がった。体制を直し、襲い掛かって来た餓鬼の腕を掴み、ぶら下げる。鬼は滅茶滅茶に腕や足を振り回し、鋭い爪がリリィの剥き出しの肌に、いくつもの傷を作っていった。リリィは鬼の姿を、まるで目を焼き付けるかのように、静かに見つめていた。
「……悪い」
リリィは鬼に呟いて、青褪めた喉笛に思い切り噛み付いた。大きく鋭くなったリリィの凶悪な牙によって、皮膚から骨まで噛み砕かれ、鬼は耳も塞ぎたくなるような甲高い悲鳴を上げた。鮮血が噴き出して、リリィの顔や、上半身を真っ赤に染め上げる。ピクリとも動かなくなったその体を抱えると、リリィは紫陽花の木の傍に亡骸を横たえた。リリィは鬼の前髪を指先で掻き分けて、こめかみに刻印のようなものを確認する。
(やはり、操られていたのか……?)
リリィはこういった術に詳しくないのでよく分からないが、今まで出会った餓鬼はあそこまで藻掻き苦しんではいなかったはずだった。
ばさ、と布の落ちるような音がして、リリィは振り返る。雪人は体を起こし、リリィの姿を目に入れると、慌てて駆け寄って行った。
「け、怪我を……」
狼狽えて、血塗れのリリィを見る雪人に、リリィは僅かに顔を顰めた。血を浴びていることを忘れていたのだ。リリィはワイシャツを受け取ると、おざなりに血を擦り取った。見れば雪人の服も少し汚れていたが、顔は綺麗なままだった。言った通りにしてくれたのだな、とリリィは内心安堵した。
「この子は……」
「鬼だよ。だけどこいつは多分、傀儡だ。術をかけられて、苦しんでいた」
「……そうか」
雪人はそれ以上は聞かなかった。悲しげな手つきで、鬼の眼球の無い目に触れ、瞼を閉じさせる。リリィは食い入るようにその光景を見つめていたが、やがて目を逸らし、物憂げに俯いてしまう。
「悲しいか?」
「……え?」
リリィは問い掛けてから、しまった、という風に目を泳がせた。気まずそうに、「 いや、悪い……」と直ぐに雪人に謝る。雪人はリリィが初めて、自分の感情を重んじる素振りを見せたように思えた。雪人は頭を振って、リリィに弱々しく微笑んだ。
「……私こそ、何もできず、本当に申し訳ない。……助けてくれて、ありがとう」
「別に、何も……」
素っ気無く目を逸らすリリィを、雪人は微笑ましく見つめた。しかし、ふとある事を思い出して、雪人は心配そうに眉尻を下げた。雪人が辺りを見渡しているのを不思議に思い、リリィは微かに首を傾げる。
「君、黒猫は見たかい?……ついさっきまで、一緒にいたはずなんだけど……」
「………………知らない」
ふと、糸が邪気に当てられたかのように、黒く濁り、光を失った。リリィに何かあったのだ。
「見に行きましょう」
師匠の言葉に頷き、真澄は駆け出した。すると今までじっとしていた紫陽花たちが、次々に飛び出して、真澄たちを行かせまいとする。バサバサバサ、と絶え間なく、目の前に緑や青が現れる。真澄は苛立ち紛れに花や枝を掻き分けたが、その量はどんどん増えていき、まるで泥にはまったかのように前に進めなくなってゆく。
「クソ!」
真澄は悪態をつき、足を振り上げて、目の前の紫陽花を踏んづけた。パキ、と乾いた音が立つ。真澄は、こんなにも現実そっくりな幻影を見せられている事自体、こちらをおちょくって楽しんでいるような感じがして、腹立たしかった。
もはや小道ですら無い中を、師匠と真澄は紫陽花の枝や葉を避けながら、進んで行った。
(早くしないと、リリィが……)
真澄は一向に、ここから出られる方法を、見つけ出せずにいた。真澄はもしリリィに何かあったらと思うと、珍しく狼狽えて、不安になってしまう。リリィは真澄が独りぼっちにならないように、幼い頃から傍にいてくれた、大切な友達だった。
何かあると口癖のように、「俺は世界で一番恐ろしくて強い化け猫だ」と彼は言う。けれどそれが、幼い真澄のために付いた嘘だったことを真澄は知っていた。彼は本当は、喧嘩なんて滅多にしないような、体の小さな黒猫だった。
「真澄、」
紫蘭はそっと、真澄の肩に手を置いた。真澄が紫蘭の方を見ると、彼女は真澄の乱れた髪の毛を、そっと耳にかけて、撫で付けた。その優しい手付きに甘えられることもできず、真澄はただただ自分が不甲斐なく思う。まだまだ理性的とは程遠い己の心に対して、恥ずかしさを覚えた。紫蘭はそんな真澄の事も見透かしているかのように、こう言った。
「大丈夫。あなたならできますよ。……もう一度、周りを落ち着いて見てみて」
真澄は一つ深呼吸すると、真剣な表情で頷いた。
この幻影の空間は、雑木林から向こう側には行けないように作られていた。試しに真澄が紫陽花の垣根を飛び越えても、反対側の垣根から、戻ってきてしまうだけだった。
真澄が調べた時、小道の両脇をいくら探っても、そこは作り物のようにぺったりと平たく、つるつるとしていた。実際の形はもちろん、リアルな紫陽花や土の感触だが、幻影の土台、つまり真澄たちを閉じ込めている空間術の構造は、無機質な直方体が元になっていると、真澄は推測していた。まるで真澄たちは、誰かが作った工作の迷路に、そのまま放り込まれたビー玉のようであった。
そこまで考えて、真澄は何かに気付いたように、はたと空を見上げた。真澄たちの動きに対して紫陽花が急に反応したという事は、真澄たちを見ている誰かが、本当にいるのではないか?と思い至ったのだ。
(まさかな……)
真澄は杖を出すと、背伸びして、空を素早く切り裂いた。なにも無いはずの場所に、切れ目が生じ、膜のようなものが風に靡いて、柔らかな膨らみを見せる。裂けた向こう側から、眩しい光が差し込んだ。その瞬間、幻影はぱっと消え去った。辺りを見渡すと、不気味さの無い、いたって普通な、元の紫陽花の小道に戻っている。
真澄はほっと息を吐いた。しかし、真澄の気持ちは暗いままだった。これ程精巧な術を使える人間が、もし天井も、完全に封じていたとしたら、果たして自分に破れただろうか、と思ってしまったのだ。
紫蘭と真澄は急いで糸を辿り、無事、傷だらけのリリィと、疲れた表情をした雪人との合流を果たした。雪人は真澄に真っ先に、黒猫を逃がしてしまったことを何度も謝った。真澄は白い目でリリィを見たが、素知らぬ顔をして彼は目を逸らすだけだった。「 いつもすぐ戻ってくるから大丈夫ですよ」と、真澄は雪人を慰めておく。
「花はそっちにもいなかったんですか?」
「そう、だね……」
「……おい、」
リリィは真澄の肩を叩いた。意味ありげな視線に促され、真澄も雑木林の方を見れば、少し離れた所に、人影がちらりと覗く。真澄は服が汚れるのも構わず、紫陽花の垣根を分け入り、飛び越えて、そこまで走った。相手に逃げられるかと思ったが、その人物は、飄々とした笑みを浮かべ、真澄に手を振った。
「あら、魔女ちゃんだ」
「あんた、エセ陰陽師の……」
「エセじゃないよ。ひどいな」
粋は苦笑いして、真澄を手招いた。見れば木の裏側に花がいる。うつらうつらと、眠りこけていたようで、真澄を見て驚き目を擦る。
「真澄ちゃん」
「あんたが花を攫ったのか?」
真澄は花を庇い、粋を睨み付けた。
「違う、違う。吸い込まれかけている人がいたから引っ張り出してみたら、この子だったんだよ。君こそ何やらかしたの。無関係な子を巻き込んで……」
「私が訊きたい。……花、本当なのか?」
訝しげな表情をする真澄に、花が頷く。
「この人……えっと、粋さんが……具合が悪くなっていたのも、治してくれたの。だから、大丈夫だよ」
真澄は何となく納得できなかったが、一先ず、花が歩けることを確認して、紫蘭たちの所へ戻った。真澄が戻ると、直ぐにでも帰ろうとしていたリリィが、両脇を二人に抱えられて、渋い顔で固まっている所だった。血塗れで上半身を露出しているリリィに真澄は顔を顰め、そっと花の前に立ち、彼女の視界からそれを隠した。手当てや服の着替えをするために、ここから一番近い紫蘭の家に、雪人の車で向かう。
真澄は後部座席で、リリィと花の真ん中に座った。リリィの方を見ると、彼は座席に背もたれもできず、不機嫌そうに頬杖を付いて、窓の外を見つめている。真澄はこっそり、背中の傷を和らげてやった。リリィが真澄に、他の人には聴こえない音量で耳打ちする。
「……あの二人、そうなのか?」
「はぁ?」
真澄は、なんで今そんなことを聞くのかと、呆れ返った。
「知らないけど。ただの囲碁友だちじゃない?……いや、分かんないけどさ」
「どっちだよ」
返事の煮え切らない真澄に、苛々とリリィは膝を揺すった。その様子を見て、真澄は、今まで師匠を避け続けていたくせに、なんで急に?とリリィを怪しむ。
「……………まさかお前……分不相応過ぎるぞ」
真澄は顔を顰めた。リリィを案じて、至極真剣な顔で、彼を諭す。それを聞いて、リリィは顔を引き攣らせた。
「悪いことは言わないから止めとけよ……お前みたいな尊大で、口汚い、不愛想な男……絶望的だって」
「……殺すぞお前」
地を這うようなリリィの低い声に、びくりと花が肩を跳ね上げる。もはや内緒話の声量を越えていた。雪人はなんの話をしているのだろうと何となくミラー越しにちらりと様子を伺っていた。彼の背中の怪我を案じていたためだ。そのため、急に恐ろしい形相で、真澄に怒りを剥き出しにしたリリィを目にしてしまい、内心ぎょっとする。真澄はしかし平然と、対等な態度で彼とやり取りをしていて、リリィもいつもより表情がころころと変わり、感情豊かに見えた。二人はそれなりに親しい間柄なのか、とすぐに理解する。
雪人は意外だった。雪人にとってリリィは神出鬼没な謎の存在であり、彼にも私生活や人間関係がある事など、考えも及ばなかったからだ。雪人は始まりこそ奇妙だったが、彼との関係は良きものにしたいなと、漠然と思い始めていた。
真澄と紫蘭がリリィの服や包帯を買いに行っている間、花は紫蘭のベッドで休ませてもらうことにした。邪気に中てられたせいか、横たわると直ぐに、昏々と眠ってしまう。雪人はペットボトルの水を側においてやり、静かな足取りで居間に戻った。
リリィは居間の縁側に座り、静かに座禅を組んでいた。雪人は一瞬声を掛けるのをためらってから、彼に背中の血を拭くよう申し出る。見れば、傷は早くも塞がりかけていて、血も止まっていた。不思議に思いつつも、雪人は慎重に背中に触れる。
夥しい数の切り傷を見ていると、雪人は何度も彼に、どうして庇ったりしたのか、その理由を問い詰めたくなった。けれど彼が頑なに口を閉ざしている事を、暴こうとするのも不躾な気がして、気が引けてしまう。
彼が突然現れた理由を、何となく雪人は察していた。確証は無かったが、先程、正に鬼という存在を目撃してしまった上では、あり得ない話でもないと思える。
もし、彼が人ではないとすれば……雪人が正体を暴こうとすれば、彼は恩返ししようとした鶴のように、姿を消して二度と会えなくなってしまうかもしれない。それだけは避けたいと思った。リリィは目を閉じているはいるが、あまりにじっと動かない。この家に男物の服はないので、雪人はバスタオルをかけて、彼の身体が冷えないようにしておいた。雪人はリリィの隣に座り、彼の表情をそっと覗き込む。
「……責任を感じているんだ。もし何かできることがあれば、何でも言ってほしい。君の力になりたいから」
リリィはゆっくりと瞼を上げ、雪人と目を合わせた。
「……遠慮しておく」
雪人は苦い笑みを零した。そう言われるような気がしていたのだ。
「なら、言い方を変えるよ。私は……君と、仲良くなりたいんだ」
「……仲良く……」
リリィは漫然と呟いた。雪人は頷く。
「そう。君はとても素敵だから、友人になりたいと思ったんだ。君は嫌かい?」
リリィは氷のような表情のまま、雪人を見つめ返していた。雪人はパンドラの箱を開けてしまうかもしれない、と思いつつ、彼を遠ざけることは出来なかった。彼なりの真心に、自分も応えてみせたかったのだ。
「………………いやだ」
「そう……」
雪人は落胆した。リリィは俯き、暫く黙り込んだ。何かを考えこんでいるようで、組んでいた手の指を無造作に弄んでいる。少し緊張も感じられる仕草だった。
「なぁ…………囲碁って、何をするんだ?」
「囲碁?いいよ。今度の休みにでも、一緒にやろう。教えてあげる」
雪人は優しく微笑んだ。リリィは一瞬ためらいを見せたが、静かに頷いて見せる。
「そういえば、今更だけど……君の名前は?」
「あなたの好きに呼んで」
一瞬戸惑ってから、雪人は真澄が彼を呼んでいた名前を思い出す。珍しい響きの名前だから、印象に残っていた。
「じゃあ……リリィでいいのか?」
「……うん」
リリィは寂し気に微笑んだ。切なさや懐かしさを含んだ、温かな色だった。雪人は訳も分からぬまま、自分がまた、知らず知らずのうちに彼を傷付けてしまったように感じ、胸がつきりと痛んだ。
もしかしたら自分は、出会ってはいけない人と、相見えたのかもしれない。雪人は直感的にそう思った。
(彼は恐らく、私が知り得ない私の事も、知っている……)
膝の上に置かれた雪人の手は、僅かに震えていた。リリィの眼差しは、どこまでも、己を見透かしているようで、雪人は少し、恐ろしくもあった。
2026.2.1 同人誌発行の折、改稿しました。




