恋する乙女は愛を知らない
社交界で“天使”と称される令嬢がいた。
リリー・エルヴェンス。伯爵家の一人娘にして、どこまでも無垢で、誰に対しても分け隔てない微笑を向ける娘。彼女の存在は、まるで春の陽だまりのように人の心を温め、癒し、そして――狂わせた。
「リリー様、本日もお美しい」
「ご令嬢方の中で、貴女ほど輝かしい方を私は知りません」
そう囁く貴族の子息たちの言葉に、彼女はただ、困ったように微笑むだけだ。
無知ではない。だが、あまりに無垢なのだ。
その微笑をどう受け取るかは、受け取る側の自由。だが――それを“許されている”と勘違いする男は、いつの世にも存在する。
「……またですか」
その日もまた、リリーのもとに花束を携えた一人の若者が現れた。
黄金の髪に碧眼をたたえた美丈夫。侯爵家の子息、ギルベルト・ハルシュタイン。
彼の評判は申し分なかった。剣術・乗馬・学問、どれをとっても秀でており、容姿においては“王子と見紛う”とまで噂された男だ。
だが、ミラ・レイフォードは知っていた。
その男の笑顔の裏に、毒のような執着と所有欲が隠れていることを。
ミラはリリーの背後に立ち、微笑む。だがその眼差しは冷ややかだった。
「ご挨拶ありがとうございます、ギルベルト様。ですが、リリーは今朝から体調を崩しておりまして。いただいたお花は、私がお預かりいたします」
「……そうですか。では、また後日」
不満げに去っていくギルベルトの背を見送りながら、ミラは小さく吐息を漏らした。
リリーを守ること――それが、彼女がこの社交界に立つ唯一の理由だった。
ミラには、リリーの恋路を邪魔するつもりなど毛頭なかった。
リリーが恋をすることは、きっといつか避けられぬ現実だ。
その日が訪れた時、リリーが真に愛し、愛される相手と出会えるなら――それはこの上ない幸福だと、ミラも信じていた。
けれど、今のリリーはあまりに無垢すぎた。
人の好意に疑いを持たず、誰の言葉にも頷いてしまう彼女が、“恋”という名の檻に自ら飛び込んでしまうことを、ミラは恐れていた。
それは、リリーの両親もまた同じだった。
「あなたには、リリーのことを頼みたいのです、ミラ嬢」
かつて、リリーの母である伯爵夫人がそう口にした日のことを、ミラはよく覚えている。
「リリーは、少し人を疑うということを知らなすぎるのです。だから――恋というものに、早く触れすぎてはいけない子なのだと、私たちは思っています」
令嬢らしい分別を持ち、礼儀も完璧なあの夫人が、わずかに眉を下げてそう告げた日のことを。
その役目を引き受けたのは、自分だった。
リリーの傍に立ち、見えない毒から守ること。
彼女の“恋”が、確かな愛に変わるその日まで、本物の感情に出会えるように、心の盾となること。
「……お人好しにも、ほどがあるわね。ほんと」
誰にも聞こえないように小さく呟いて、ミラは夜の庭を見やった。
今宵も月は明るく、地上を照らしていた。
◇
ミラが屋敷の回廊を戻ったのは、深夜をまわった頃だった。
そして翌朝、届けられた一通の手紙が、彼女の机上に置かれていた。
ミラは眉をひそめながら、金の封蝋を剥がす。
差出人はギルベルト=ハルシュタイン。今宵、侯爵家主催の夜会へリリーを招待したいという内容だった。
「“特別な贈り物をご用意しております”……。ふん、どの口が」
まるで恋人への愛の証を差し出すような文面。
世間体を保ちながら、相手に断りづらい“甘い罠”――貴族の男たちが好んで使う古典的な手段だ。
案の定、リリーはその手紙を見て頬を染めていた。
「どうしよう、ミラ……。これ、本当に私に、なのよね?」
声は戸惑いを含みながらも、どこか浮き立っている。
恋という感情に初めて触れた少女が、どう応じるべきかを探っているような、そんな無垢な揺らぎがあった。
「断る理由もないし……せめて、お礼くらいは伝えたいの。あの方、きっと私のことを大切に思ってくれてる……そんな気がして」
ミラは、言葉を失いそうになった。
リリーが信じているのは、“ギルベルトの好意”ではない。“誰かが自分を想ってくれている”という、夢のような観念そのものだ。
「そう……ですか」
喉の奥で、何かがつかえるような感覚を覚えながら、ミラは微笑みを作った。
彼女の前で、決して否定はできない。そういった反発心が、逆に悪影響になることを、ミラは痛いほど知っていた。
リリーはまっすぐな子だ。
疑われるより、否定されることに強く傷つく。
仮に「やめておきなさい」と言えば、きっとリリーは悲しむだろう。
自分の気持ちが誰かに否定されたと――恋をしたことそのものが間違いだったと、そう思い込んでしまうに違いない。
だから、否定はしない。
だが、黙って見過ごすことも、できなかった。
リリーの想いが、本物の恋になる前に。
その想いが、悪意によって穢されてしまう前に。
ミラ自身が、止めなければならない。
そう彼女は誓った。
◇
舞踏会の夜。侯爵家の大広間には、豪奢な絹と香の匂いが満ちていた。
天井から吊るされた水晶のシャンデリアが、百もの燭光を反射して星々のように瞬く。
壁際には楽団が陣取り、軽やかなワルツを奏でていた。貴族たちは笑い、祝杯が交わされ、夜は次第に熱を帯びてゆく。
そして、その中心に――リリーの姿があった。
淡い白薔薇のドレス。透けるような薄桃のリボン。
彼女は、まるでこの世の清らかさを形にしたような存在だった。
誰もが振り返り、誰もが見惚れた。
「リリー様、こちらへ。ご案内いたします」
ギルベルトは、申し分のない笑顔で彼女の手を取った。
リリーは、わずかに戸惑いながらも、その手を拒まなかった。
――少し、鼓動が早い。
ドレスの胸元をそっと押さえながら、彼女は自分の胸に芽生えた感情の正体を探ろうとしていた。
憧れ。畏れ。あるいは、恋。
そのすべてが混ざり合い、はっきりとした輪郭を持たないまま、ふわりと心をくすぐってくる。
「リリー様、今宵の貴女は、本当にお美しい」
ギルベルトの言葉に、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
その頬はほんのりと紅潮し、瞳は揺れていた。
「ありがとう、ございます……。そんな、私なんて……」
謙遜の言葉は口をついて出たが、心の奥には小さな喜びがあった。
これが“恋”なのかもしれない。
そう思ってしまうほど、ギルベルトの所作は洗練され、優しく――まるで夢の中の王子のようだった。
バルコニーの入り口へと、リリーの白いドレスが吸い込まれてゆく。
ミラはその様子を遠くから見届け、グラスを手放す。
彼女は急いでギルベルトの後を追った。
笑い声のざわめきの中に溶け込みながら、誰にも気取られることなく、その気配だけを研ぎ澄ませる。
.
バルコニーの扉に、彼の手がかかった瞬間――
「まあ、お早いこと」
まるで偶然を装うように、ミラはリリーの正面へと滑り出た。
微笑をたたえながらも、その目は一片の揺らぎもない。
「ギルベルト様、まさかリリーを独占なさるおつもりでは?それはさすがに、社交界の礼に反するのではありませんか?」
一瞬の静寂。
ギルベルトはにこやかに笑ったまま、答えない。だが、ミラにはわかった。彼の奥歯がきつく噛み締められていることを。
この男は、今まさに自らの計画が狂い始めていることに気づいたのだ。
ミラの視線が、そっとリリーへと移る。
その横顔は相変わらず美しく、微笑みすら浮かべていた。だが、目がどこか焦点を結んでいない。
頬の紅潮は熱のせいではない。心なしか、言葉も少ない。
ミラは知っていた。リリーは、ワイン一杯程度で顔を赤らめたりしないのだ。
むしろ、貴族の間でも少々知られているほどの“酒豪”だった。
上等な葡萄酒でも、軽口で三杯は飲み干してなお、ケロリとしていたのをミラは何度も見ている。
なのに今夜のリリーは、明らかにおかしい。
視線は泳ぎ、足取りはややふらつき、頬は不自然なほど赤い。
まさか、とミラの心がヒヤリとする。
リリーは、“ワイン以外の何か”を盛られていたのだ。
彼女は一歩、ギルベルトの方へ踏み出す。
その動きは静かだったが、空気が一変するほどの圧があった。
「ギルベルト様」
その声には、微笑すら宿っていない。
社交の場では珍しいほど、はっきりとした“敵意”を帯びた響き。
ギルベルトが、視線だけでミラを捉えた。
「今夜、リリー様にお出しになったワイン――貴方の従者が持ち込んだものですね?」
「ええ。それが何か?」
ごまかすでもなく、自然な態度で彼は答える。
だが、その自然さが逆に、ミラの確信を深めた。
「そう。では、そのワインに何を混ぜたのかも、貴方は当然ご存知なのでしょうね?」
ギルベルトの笑みが、わずかに揺らぐ。
その眉がかすかに動いたことを、ミラは見逃さなかった。
「なにを仰る。侯爵家の蔵の中から、私が選んだだけです。品種も格も申し分のない逸品ですよ?」
そう、当然のように――だが、ミラは静かに首を振った。
「おかしいですね。リリー様は、お酒に強いはずです。それも、少々のことでは顔色ひとつ変えないほどに」
会場の数名が、思い出したように頷く。リリーが“酒豪”として知られているのは、少しだけ有名な話だった。
「けれど今のリリー様は、明らかに様子が違う。既に昏睡に近い状態です。そして何より――この薔薇の香り…私には見覚えがあります」
ミラは、テーブルの上に置かれていた青い薔薇の花束をそっと持ち上げる。
その香りを嗅いだ瞬間、目を細めた。
「これは……温室で育てられている、薫惑草の変種。香りに、微弱な陶酔作用があります。
単体では効果は薄いですが、アルコールと併用すれば――感覚が鈍くなり、思考も鈍る」
「……推測では?」
ギルベルトの声は、もはや先ほどのような余裕を欠いていた。
「ええ、推測です。でも、“彼女を一人きりの個室に連れ込もうとした”という事実が、何より雄弁ではなくて?」
ミラの言葉に、会場の空気がじわじわと変わっていく。
さきほどまで、ギルベルトの品格や所作に惹かれていた令嬢たちの瞳が、警戒と不信に染まっていく。
青年貴族たちの間にも、気まずげな視線が走る。――誰もが気づいていた。
社交界において、若い令嬢を“私室”に誘うという行為が、どのような意味を孕んでいるかを。
「それは……誤解だ。私はただ、リリー様に静かな場所を用意しただけで……!」
ギルベルトが口を開いたときには、すでに彼の声から自信は消えていた。
手の中のワイングラスがかすかに揺れている。
「貴方の“好意”がどれほど立派に装われていても、それが相手の意思を曇らせ、自由を奪おうとするものであるなら――それは、恋ではありませんわ」
ミラの声音は、静かだった。
「そして貴方が狙ったのは、恋を知らぬリリーの“無知”です。それを“優しさ”とすり替えて、自分だけが優位に立とうとした。……まるで、甘言を弄する下賤な狐のように」
「……っ」
ギルベルトの顔が、みるみる紅潮していく。
怒りと羞恥、そして何より“見透かされた”ことへの衝撃。
だが彼は、もう何も言い返せなかった。
会場の片隅では、リリーがゆっくりとミラに寄りかかっていた。
表情にまだ微かな靄はあるが、彼女の瞳がミラを探すように揺れている。
「ミラ……?」
「ここにいるわ、リリー様」
そっと彼女の背を支えながら、ミラは貴族たちに向き直った。
「皆さま。もし私の言が事実でないとお思いなら、どうか今夜の葡萄酒を、どなたかが代わりに召し上がっていただけますか?」
――沈黙。
誰一人として、手を挙げる者はいなかった。
ギルベルトは、まるで立っていることすら重荷に感じるように、その場に立ち尽くしていた。
誰も彼に手を差し伸べない。誰も彼を庇おうとしない。
貴族社会という舞台において、それがすべてを物語っていた。
名誉の失墜。信用の崩壊。
「ごきげんよう、ギルベルト様。どうか、お一人でお帰りくださいませ。今夜は、貴方が夢見た“恋の夜会”とは、少し違ったようですわね」
ギルベルトは、なにも言わなかった。
いや、もはや言える言葉が残っていなかった。
静かに背を向け、ゆっくりと会場を後にするその背に、誰も声をかける者はいなかった。
そして――
ミラは、リリーの肩を優しく抱きながら、もう一度だけ小さく囁いた。
「……本当の恋に出会うその日まで、私があなたを守りますわ」
今夜、乙女の恋は守られた。
そしていつか、その無垢な心が、本当の愛に出会う日まで――
ミラは、その傍に在り続けると、密かに誓った。