3.一年前の日
三度目の応接室には、兄の姿はなかった。イヴだけが、暗い朱色のソファに腰掛けている。
いくら義妹になるとはいえ、二人きりと言うのは如何なものだろう。普段は同室に居るはずの使用人さえ、今は扉の外で待機させている。
「兄様ったら、イヴ皇子をお待たせするなんて。すぐ呼びに行かせます」
「いや、いい。レトには別件を頼んでいる」
「そうなのですか? では私を呼んだのは……」
「私だ。今日はレトランテの友人ではなく、皇子として君に話があって来た」
兄の友人であった優しさは消え、厳格な皇太子の視線がベアトリーチェを貫いた。背筋を、畏怖から来る寒気が這う。灯りの下で青みを増した瞳が深い深い海の底の様で。ここに芸術家でもいたのなら、彼の全てを作品として残したがった事だろう。それほどの美しさで、だからこそ、人は畏れを抱く。
指先から体温が下がって行くのを感じながら、それでも目を逸らさずにいたのは、矜持なんて格好いいものではなく、ただの意地だった。
「それは、ここに姉様がいらっしゃらない事に関係していますか」
「それも含め、君の耳に入れておきたい事がある」
彼が皇太子としてここに居るなら、自分はマクシス家の娘として対面すべきだ。つまり彼の婚約者の妹。兄の友人としての距離は、婚約者の妹としては相応しくない。
「アイレッタとの婚約を解消する可能性がある」
想像で終わって欲しかった現実が突き付けられる。驚かなかった訳ではないけれど、取り乱すには耳に届く情報が多過ぎた。
少し目を見張っただけのベアトリーチェに、イヴもその内心を理解した様だった。あぁ、ついに、この日が来てしまったのかと。
「……理由は、お伺いしてもよろしいのでしょうか」
「いずれ説明されるだろうが、今ではない」
「畏まりました」
可能性と言ってはいるが、九割は確定しているのだろう。でなければ、皇太子自ら出向きはしないし、それを『妹』である自分に告げる必要はない。レトランテがこの場に居ない理由にも納得がいった。
「私はお眼鏡にかなった、と言う事でしょうか」
「まだ候補の段階ではあるが……恐らく、君に決まるだろう」
表情一つ自由に歪めないのは『兄の友人』と変わらないはずなのに、ずっと痛く見えるのは、その内に抱える柔い繊細さを知ってるから──なんて感情的な話ではなく、組まれた足の上で、きつく握られた手が見えたから。すぐ、もう片方の手で隠されてしまったけれど。
「とはいえ、所詮は候補だ。婚約解消もまだ可能性であると理解して、他言はせぬように」
「承知しております」
この日、兄の友人と友人の妹であった二人は消えて。
婚約者の妹と、姉の婚約者の皮を被った、『婚約者候補』としての日々が始まった。