1.役者交代
公爵家の娘に生まれた以上、いつか恋の無い結婚をする覚悟はあった。
むしろ自分は幸運だ。既に初めての恋が叶わぬものだと知っているのだから。失恋と言うにはお粗末だが、恋を知り、恋を枯らせた事は、恋の影も形も知らぬまま嫁がされるよりもずっと良い。いつか契りを結ぶ相手とは、恋ではなくとも愛を育めたら良いなんて、穏やかな気持ちで覚悟を決める事が出来た。
どれだけ遅くとも十八には婚約相手が決まる。制度や規則として定められている訳ではないが、生れる前から結婚相手が決まっていた時代を経て、現在は学生を終えるまでに婚約するという流れが定番となっている。
だから自分も、慕う相手ではなく定められた相手と愛を誓うのだと、分かっていた。
そしてそれが、 姉の“元”婚約者である事も。
「ベアトリーチェ・マクシスとの婚約を発表する」
冷静に自分との婚約を告げたのは、イヴ・アストレア・ライーシュカ。
我が国の皇太子であり、兄の親友であり、ついさっきまで、姉の婚約者であった人。
「ビーチェ、こちらへ」
「はい、お兄様」
兄に手を引かれ、イヴの隣へと導かれる。兄も長身だが、それ以上に背の高いイヴと自分が並ぶと、まるで大人と子供。年齢を考えると事実大人と子供なのだが、それにしても自分の幼さが際立っている気がした。
黒い髪に、紺色の瞳。磨き抜かれた刃の様に、美しく鋭い面立ちをした男性。柔和な雰囲気の兄とは真反対で、兄とよく似ていると言われている自分とも対照的だ。
隣に立つと、腰に手が回った。それだけで背筋が伸びる。自分の立場と、役割と、未来。全てが勝手に脳内を駆け巡って。誰にも悟られぬ様に、誰もが褒め称える笑顔を纏う。
「ベアトリーチェ様と……?」
「イブ皇子の婚約者は」
「正式な発表は今日のはずで」
ざわつく人々の中に、姉の姿はない。このパーティーの主役の一人である卒業生であるはずだが、恐らく出席していないのだろう。
姉の今後については、兄から既に聞いている。もしかしたら、今日が言葉を交わせる最後の機会になるかも知れない。出来る事なら一目会ってお別れが言いたかったけれど、兄とイヴの表情を見た時に、それは無理な願いなのだと理解していた。
「私の婚約相手について、様々な憶測があった事は承知している。しかしその全ては憶測であり、今発表した事が全てだ。私、イヴ・アストレア・ライーシュカは、ベアトリーチェ・マクシス嬢と婚約した事を、ここに宣言する」
それ程大きな声ではないのに、ひそひそと囁いていた者達は一斉に口を閉ざした。美しい皇太子殿下の言葉に異を唱えられる者は、この場には誰もいないらしかった。ただ、言葉にせずとも、視線が物語っている。多くの在校生、そして今日卒業した者達は、この婚約を良く思っていないと。我が姉アイレッタは、学内でよく慕われていた人だったから。
「ベアトリーチェ」
「……大丈夫です」
小さな声で名を呼ぶイヴに、微笑みで返した。腰に回った手が少しだけ浮いている事、こんなに近くにいても、無遠慮に触れては来ない事に、気付いているのはきっと自分と兄だけだ。
この婚約が望まれていない事は、分かっている。何年も前から、イヴの妃はアイレッタだと、多くが思っていた事も。
自分は宛ら、二人を引き裂いた悪女といった所だろう。イヴを唆し、姉から婚約者を奪った奸婦。イブの宣言で口を閉じた者達が、再び、今度はベアトリーチェへの辛辣な言葉で囀るのが聞こえる。一つ一つが小さくとも、集まれば大きく見える物だ。
投げられる石に傷付くのは簡単だ。庇ってくれる腕も、隣にあると分かっている。でもそれでは、自分がここに立った意味がない。そんな覚悟で、頷いたりしない。
ベアトリーチェは、アイレッタの代わりに、イヴの妃になると決めたのだから。