ひとり稽古始末
「森、あんた、剣道部全員辞めさせたんやって?」
朝のホームルーム前に宮本梓が俺の席の前に立って言った。剣道部のひと悶着をコイツもう知ってるんか。
「辞めさせたんやなくて、辞めたんや」
朝から打ち込み切り返し散々やって武士してる俺を真っ黒に日焼けしたショートヘアーの幼なじみは見下ろしながら言った。
「どっちでも同じやん。いくら剣道が個人競技やからって、部員一人でどうすんのよ。馬鹿じゃないの」
梓とは小中高と同じだが、中学高校とクラスもクラブも違ってあまり話す機会がない。こんなに話すのも久しぶりだ。
「素振りでも何でもできるて。実際さっき朝練してきたし」
「ひとりで面ェ~んとかしてんの?」
「……」
その美学が分からんヤツに何を言っても無駄だ。
「あんた、こんど高校最後の試合でしょうが」
よく知ってるなと思ったが、一月後の市内大会には日が違うが陸上の試合も当然ある。知らんはずないか。
「負けんかったら最後にならへん。勝ち抜いたら県大会やから」
「これまでずっと市民大会止まりやん。面白い冗談言うんやないよ」
陸上で県大会常連の梓が鼻で笑った。
「ほーい、みんな席に着けェ~」
担任の大崎がスリッパをペタペタ鳴らしながら教室に入って来た。
「話終わってへんのに……」
梓がため息を着いた。今日の授業は選択科目や体育が多いのでクラスの男女が揃うのは放課後になる。
「話があるなら放課後部活前に聞くけど」
「ほな、道場で話そ」
そう言い残すと梓はクルっとまわって自分の席に帰って行く。残像を残して。スパッツ履いてたけど。
剣道部の部員が俺以外皆辞めたというのは、結構みんな知っているようやった。
「なんで知っとるん?」
「世の中には文明の利器ってもんがあんねん」
昼飯仲間のサトルが牛乳飲みながら言った。SNSで誰かが呟いたらしい。
「キョウビ、朝練来ん奴は部ぅ辞めェなんて言うたらブラックや言われるで。もうちょい言葉選らばな」
「俺は高校最後の試合やから真剣にやろや言うただけやて」
「……ネットではだいぶちゃう話になっとるけど」
「……」
「ま、俺はどっちがホンマなんかは興味ないんやけどな。お前、今日、皆から避けられとるん気づかんかった?」
放課後、俺は体育館二階の体育教師室に向かった。教師室で鍵を受けとって道場の扉を開けるのは、前から部長の俺の仕事や。
教師室は真ん中に向かいあったソファーがあって、部活動が始まる前にいつもサッカーの田辺やラグビーの野々山とかがコーヒーを飲んでいる。
扉を開けてペコッと一礼してから部屋に入り、入口の直ぐ横の開いたままの鍵ロッカーに手を伸ばした。入って来たのが自分とわかってすぐに先生達が沈黙したのには気がついていた。
「森よお……」
体育教師の中で一番おっさんの野々山が俺に声を掛けてきた。
「剣道部お前ひとりになったってホンマか?」
「よう知ってますね、センセ」
「顧問の内田先生、新任やのに、顧問になって直ぐにこんなんなるとはって泣いとったぞ」
竹刀も持ったことがないのに剣道部の顧問を押し付けられた内田先生には今日朝のホームルームの前に報告しといた。
「内田先生、関係ないですよ」
「そこは森、教師のツラいとこや。校長先生の耳にも入るやろしなあ」
「そんなん言われても……」
田辺が口を挟んで来た。
「何あったんや」
俺は梓やサトルに言うたんと同じことを説明した。
「はあ……よくあるどっちもどっちってパターンやな」
というのが先生達の感想やった。
「まあ、辞めた奴もお前もお気の毒としか言いようがないわ」
「ままある話やねんけどな」
「聞きますねぇ」
ひととき誰もが無言になった。
「そやけど……新入部員もおらんとなると、剣道部は森の代で廃部になるんとちゃうか?」
それは考えてへんかった。
体育館一階にある食堂の横から中に入って廊下を右に曲がるとまず柔道場があって次が剣道場。廊下には窓もなくて暗く、夏でも少し涼しい。
この廊下の角を曲がって道場の入口までの10秒ほどの時間。ひんやりとした空気やペタペタいうスリッパの音、隣の柔道場の玄関から入ってくる光、受け身の練習で畳を打つ音。そんなもんを感じながら道場に近づいて行く。その間に俺の五感は鋭くなってくる。
誰も待っていない剣道場の玄関は電気を点けるもんもおらず、暗く静か……なはずやのに、暗い玄関の中で何か気配がする。
「宮本、来てたんか」
玄関の奥、廊下の向こうから見えん所で梓がストレッチしていた。スパッツ履いてるから平気なんやろけど、こっちはドキッとする。
「遅い!」
ストレッチの体勢から身体を戻して梓が言った。
「先に二階の体育教師室に行って鍵取ってこなアカンからこんなもんやて」
少し先生達と話てたとは言わんとく。
「すぐに開けるわ」
南京錠を外し、ガラガラと引戸を引いた。廊下と違って道場は窓から光が差し込んで明るい。東面と北面が窓、南面が引戸で隠れる大鏡、西面に部室となっていて、防具棚やベンチ、胴着干し、シャワーがある。
「うわ、くっさー!」
などと言いつつ、きちんと道場に一礼してとるのは梓も小学校の時は剣道しとったから。
「懐かしい臭いなんちゃうん」
道場横にある部室に鍵を置いてから俺は窓を開けていった。5月の風が拭き込んできて、籠った臭いも少しましになる。
梓は勝手に部室から竹刀を見つけて素振りを始めていた。靴下もいつの間にか脱いでいた。
「うわ、身体が懐かしい~言うてるわ」
「へー、中学から竹刀握ってないにしてはキレイなフォームやな」
「海斗より筋良かったし」
そやった。小学生の時は梓の方が強く、俺は一度も試合で梓に勝でずやった。練習の時も一方的にやられてた。忘れてたわ。
「で、話って何?」
と訊くと、梓は黙って俺に向かって正眼に構えた。
ダーン
床に踏み込む大きな音を立てて、面に撃ち込んで来た。
「おっと」
俺は仰け反って躱し、梓は体が当たる直前で身体を捻って斜めに飛び違って行く。
「一本!」
飛び違った先でくるッと振り返って残心した梓がニヤリと笑って言った。
「浅いよ」
防具付けてたら面金には当たったかもしれんけど、一本やない。
「剣道部の部長から一本取ったって自慢しよー」
梓は竹刀を肩に担いでまだニヤニヤしている。俺は諦めて言った。
「話ってなんよ」
「ひとりで稽古してても楽しゅうないやろ。練習付きおうたるよ」
「小学校以来竹刀握ってへんお前とか?」
面とか小手とか臭いんはもうイヤや言うて梓は中学の部活動には陸上を選らび、小学生ん時に一緒に通ってた剣道の会も退会した。
「そんな相手にどんな練習せぇちゅうねん?」
「そら自分で考えぇや。専門家やん?」
「梓かて大会があるやろ」
「陸上の練習、日あるうちやし。野球部とかラグビー部とかとの兼ね合いあるからずっと練習しとるわけやないし」
陸上では梓は県大会常連。グランドの外でも当然練習しとるやろと思う。
「来れん時もあるかもやけど、できるだけ練習付きおうたるから」
「いや、ええて。一応、太郎君もおるし」
「太郎君?」
「そこの打ち込み人形」
俺は道場の隅にある、防具を着せた打ち込み台を指差した。垂れにチョークで太郎と書いてある。書いたんは誰やったか忘れた。辞めたうちの誰かや。
正直、小学校以来竹刀握ってない梓より太郎君の方がマシなんちゃうかなと思うけど、それ言うたらアカンやつやな。
「動かん相手やと退屈せえへん?」
「そんな事ない」
昨日は飽きなかった。
「こっちの練習終わったら来るから、たぶん六時半頃。それまでひとりで練習しとって」
そう言って梓は出ていった。廊下を走るスリッパの音を残して。
梓が来たのは六時十五分頃やった。
「来ったよぉ」
陸上部のジャージのまま梓は部室に入って来た。
「おお、ひとりでも面着けとるやん」
「当たり前や。試合ん時は面着けとる」
「ほな、時間もったいないから、チャッチャッと始めよか。防具ここのん借りてええ?」
梓は部室の防具棚の上に置いてある半紅の下半分が黒で上が赤い胴を指していた。
「それ団体戦用の高いやつやねんけど」
「ええやん。ケチなこと言わんと」
結局半紅の胴を貸すことになった。俺は小手だけ取って棚の上から半紅の胴と揃いの垂れをひとつずつ下ろした。
「小手は先輩が卒業した時に置いていったんがあるんやけど……」
面は大昔体育の授業で剣道があった頃のしかなかった。埃が積もった面を見て梓は鼻をしかめた。
「小手だけでええかな?」
普通に他人の汗がべったり付いた面着けるんも抵抗あるけど、この面は特に着けろとはよう言えん。
「胴着とかどうする?なんやったら試合用の貸すけど?」
ウチの部には女子用の白胴着と白袴がある。なんとかは皿までや。
「ホンマに?え~、着たい着たい!」
「ホンなら梓が着替えてる間、俺休憩して水飲んでくるわ」
てっきり女子更衣室で着替えて来ると思ったが、梓はいきなりジャージを脱ぎ出した。
「そこにおってもええよ」
エッと思うたけど、なんのことない。Tシャツとスパッツを着ているはずや。梓はその上から胴着と袴を着るんやろう。
「俺、やっぱ水を飲みに行って来るわ」
俺は急いで正座して面の紐をほどいて、面を床に置いた。頭の上の手拭いを取る間も惜しんで道場を飛び出す。それでも胴着を羽織った梓がジャージの下をずり下げるのには間に合わへんかった。
白胴着、白袴に半紅の胴と揃いの垂れを着け、先輩が置いていった小手をはめた梓は、俺が貸した予備の竹刀を受け取り、初めはゆっくりと10回、それから前後に跳びながら面を打つ前進後進面の素振りを20回した。
「ほなやろか」
「準備運動それだけでええんか?」
「ええよ、私は打たれるだけやし」
「じゃあ……」
左手に竹刀を納めて頭を軽く下げた。梓も慌てて竹刀を左手に納めて同じく頭を下げた。
「「シャース!」」
お互いに礼をして練習開始だ。
「ほな、正眼に構えてくれん?」
梓が竹刀を構えた。
「宮本は面着けてへんから、竹刀を払って小手撃つ練習したいんやけど」
「わかった」
竹刀を構えた相手の構えを崩してから打ち込む練習をした。竹刀を払って小手を打つ練習はさすがに人形の太郎君では出来へん。
竹刀の払い方でも下から払う、上から軽く打ち下ろし続いて小手を打つ。梓のやつがこちらの竹刀を払いにきたのを打ち下ろしてから小手を撃つ練習もした。
次に鍔迫り合いから引き面を打って上段で逃げる梓を追いかけて頭の上の左小手を打つ練習をしたけど、これはちょっと失敗やった。
面着けてる女性相手の鍔迫り合いやとあまり気にしたことないけど、面着けてない相手やと至近距離で相手の顔をまじまじと見てまう。引き面を打つタイミングは梓が決めるんでそれを防いでから追いかけるんやけど、正直集中でけへんくて、2、3本ええ面貰ってもた。怪我させてもと思うと思い切って小手も打てんし。
やけど逃げる相手を追う練習はひとりでやるとシャドー剣道になってまうんで梓が練習に付き合ってくれて助かった。
「ハア、ハア、そろそろ7時半やな。上がろか」
今までは練習は4時から6時半やったんで1時間多く練習したことになる。朝練もしてるし。
「私はまだええけど?」
けろっと梓が言った。なんで平気なんだ?
「いや、今日はここまでで……梓、ありがとうございました」
俺は頭を下げた。梓は陸上の練習してからやろしこの辺でやめておくべきや。
「どう?太郎君よりはましな練習相手やろ?」
「そやな」
面着けてない女子との鍔迫り合いの緊張感は格別やった。
「そうか……ほな、ちょっとさ、私にも打たせてくれへん?久しぶりにやってみたい!」
梓のリクエストに応えて、基本の打ち込み切り返ししてから、面、小手面、小手面胴……と軽く梓に打たせた。
「ええ感じちゃう?」
「まあまあやな」
やっぱりフォームはきれいやし、踏み込みと足さばきも悪くない。練習の終わりの礼をしてから俺は正座して面を取った。
次の日、昼休みに元剣道部の女子達が廊下で俺を待っていた。俺に何か話があるらしい。
副部長やった片桐が睨み付けながらスマホの画面を俺に突き付けた。
「これは一体なんなん?」
「げっ」
試合用の半紅の胴に白胴着白袴を着けてポーズを取ってる梓の自撮り写真がSNSに上がっていた。あいついつの間に撮影したんや?
「試合用の防具、部外者に着せるなんてどういうこと?」
「森君、なんか偉そうなこと言うてたけど、森君が部活でしたかったことって彼女にコスプレさせることやったんやね」
「誤解やて、宮本は俺の練習を手伝ってくれて、防具がなかったから試合用の防具使こてもろただけや」
「最低やわ、森君」
「部外者ってアンタらのことやろ?ちゃうん?」
急に後ろから梓が声を掛けてきた。
「何やて!」
「ちょう、ちょう待って!」
俺はふたりの間に割って入った。
「ちょう落ちつこや、ふたりとも!」
「あの胴は剣道部のレギュラーの証やで!コスプレ衣裳とちゃうんや!」
「コスプレ?ウチは剣道部員の練習に参加すんのに防具借りただけや。何が悪いねん?辞めた人間がグチャグチャ言うなや!」
「ナニ勝手言うとうねん!」
廊下に人が集まってきた。
「片桐さんも宮本もちょっと待って。宮本、話ややこしくなるから教室入ってくれ!」
「陸上の練習の後に剣道部の練習に参加するんもウチの勝手、部の防具を借りるんも勝手、防具姿をSNSにアップするんも勝手なんちゃう?」
片桐さんの目が据わった。
「そうか?森君、ほな私は勝手に顧問の内田先生に相談させてもらうけど、ええね。OBにも連絡する」
「ちょ、ちょっと……」
「こいつが朝練するんも、アンタらがせえへんのも勝手やったんちゃうん?」
そう言い捨てて梓は教室に入って行った。
「……」
俺と片桐さん他の剣道部員は黙ったまま顔を見合わせた。
「片桐さん……話あったら、放課後に道場で話さへん?」
「……そやね。放課後、道場に行くわ」
「ありがとう。それとその画像についてはゴメン。宮本には削除するように頼むから」
「分かった……じゃあ、放課後に」
「ああ、あれやったら男子にも声掛けといてや」
放課後に元剣道部員と剣道場に集まった。梓は陸上の部活に行ったが、それまでに梓にはSNSから画像を削除してもらっといた。どこで聞き付けたか顧問の内田先生も道場に来た。
俺は梓のSNSの写真については皆に謝った。防具を貸した件は俺の練習に付き合って貰ったんやと説明した。
男子の方は女子ほど怒ってへんかった。それより陸上の宮本梓が前に剣道してたん知らんかったわと、そっちの方に関心があるようやった。梓が片桐さん達と廊下で言い合いした事も知っていた。
「やけど、朝練するんもせんのも勝手やってのは一理あるわな」
俺と2年間一緒に剣道してきた大岡が言った。予備校に行かなアカンからと朝練にも午後の練習時間の延長にも大岡は大反対してた。
「森が勝手に朝練して遅まで練習する、俺らは勝手に朝練せえへん、放課後も何時もどおりの時間で上がるってのはどうなん?」
「そういう感じでええんなら……」
女子部員のまとめ役で副部長やった片桐さんも頷いた。内田先生が手を叩いて言った。
「じゃあ決まりやね」
練習の自由参加という形で皆再入部することになった。
ほな明日からやと言って帰る奴もいれば、
「ホンなら一遍家帰って防具と竹刀取ってくるわ」言うて帰る奴もいた。「部長、今日だけ試合用のやつ借りてもええ?」とか言う奴もいた。数日ぶりに剣道場に竹刀の音が戻ってきた。
その日の練習が一通り終わり皆が帰った頃、梓がまたやって来た。相変わらず陸上部のジャージを着ている。
「お疲れぇ。今日は人多かったみたいやね」
「なんで知っとるん?」
「ロードしてる時、竹刀の音聞こえるやん」
「なるほど」
「……ホンで君はまだひとりで練習か……」
「そういう事に決まったんや。お互い勝手にするて」
梓は部室に入って、胴着干しに干してある女子の試合用の白胴着を確認し始めた。
「うわ、なんで他の人も白胴着使うかな。どれが私が昨日使こたんか分からんやん……ああ、このちょっと乾いてるやつか……」
梓はやっぱり練習に付き合うてくれるらしい。
「面やけど、姉貴のやつ持って来たんやけど、着ける?」
俺は出しておいた面を梓に渡した。
「森先輩の?借りて来てくれたんや」
なんや段々本格的になるなと梓は笑った。
梓が着替えてる間、俺は水を飲みに外に出た。体育館の外に蛇口が並んだ水飲み場がある。もうすっかり暗くなっていた。水飲んでからしばらく星を眺めて時間を潰した。星なんか見上げたんは久しぶりやった。
「そろそろええかな」
体育館の中に戻って道場へ続く廊下を歩く。電気も点いてない真っ暗な廊下の角を曲がるとその先で剣道場から漏れた光が差していた。
梓が素振りを数えている声が微かに聞こえてくる。
俺は光に向かって急ぎ足になった。