声が似ている
「……ゆうごさま、どこにいますか? 暗くてよく見えないのです。ここはどこなんでしょうか……」
そう言いながら雪が立ち上がったのは、すっかり子供が落ち着いた頃だった。
『……』
返答はない。雪を中心として、どろどろの体液が波打っているのが祐治には見えた。
「さっき、紫色の波に飲み込まれたことは覚えていますが、それからどうなったのか覚えていなくて。そういえばどうしてゆうごさまが山に? 研究所の奥で、院長にも悟らせないように父たちがあなたを隠しているはずなのに」
(……親父たちが、あの院長に隠している? 院長どころか、俺にも隠している子供……)
研究所の跡継ぎである祐治は知らないのに、雪が知っている――研究所が移転したあとから父親の手伝いという名目で出入りするようになった彼女だけが。
(――もしかして、雪が色々と俺のために頑張らされている理由と関係があるのか?)
雪が知っていても祐治が知らない理由など、一つしかない。父親たちに口止めされているのだ。
「とにかく、研究所に戻らないと……生物兵器の処理が終わったら研究所に戻れと、社長の命令があるから……帰らなければ……もう生物兵器は回収するだけ……帰らなければ……ゆうごさんも一緒に帰りましょう、帰らないといけない……」
祐治が研究所に堂々と出入りするようになってからずっと探ってきた、「雪が祐治に尽くさなければならない理由」はまだ見つかっていない。
あれほど父親たちが雪と祐治の関係にこだわるからには、何かしらの目的があるはずだと祐治は考えている。
特に、息子に対しても己の研究ほど興味を持っていない様子の大悟が、この点にだけは関心を見せているというのがその証拠だ。
この子供を連れて研究所に帰り、院長に会わせるぞと言ったら、あの大悟はどんな顔をするのだろうか。そして――
『――雪。ごめん。……帰らせないことが、僕への命令なんだ……うぅ……』
「……え?」
――雪を、あの二人から助けられるかもしれない、と思ったのだが。
祐治が考えている間に、雪がうわ言のように研究所に戻ろうとする意思を呟くうちに、事態はひっそりと変わっていた。
『ごめん……ごめん』
毒の体液でできた沼には、雪を中心に広まる波紋だけが揺れている。
『もう、ダメそうだ……君を殺すために僕はここにいるんだ……!』
その言葉を合図に、平らかであった毒の沼は鋭く牙を剥き、雪を大きく飲み込んだ。バッテリーの壊れた防護服では逃げ出しようがないような大波だった。
祐治が飛び出したのは、叫んだのは、とっさのことだった。
「やめろ!!」
荒れ狂う毒沼に飛び込む。……思った以上に底が浅く、体を強く打ち付けてしまったが、祐治はもがいた。手が届いた雪を抱きしめた。そして絶対に離さなかった。
激しく揺さぶられ、ただ必死に雪を抱え、耐える時間は意外と短く済んだ。
先程のような静けさは急に戻ってきた。雪と祐治の作る波紋以外は泡一つ動かない水面を見つめ、雪に支えられ――けっして「支えて」ではないのが悲しいことに事実なのである、山登りの途中でも実は何度か足を滑らせかけていたのだ――祐治はよろよろと起き上がる。
防護服のおかげではっきりと見えている毒沼の奥に、よく見ると不自然に盛り上がっている部分があった。
山頂で見た生物兵器の本体。
『お前……城山祐治か……』
薫る幼さに合わない、憎しみに満ちた声が響いた。
『邪魔するな……! お前を殺していいとは言われていないんだよ……ちくしょう』
「……邪魔するに決まってるだろ」
『僕が生まれたことも雪がどうしてお前の世話係なんかやってるのかも何も知らないで生きてきたくせに! 今さらなんなんだ!』
「ああ、知らないさ! まだ研究所の機密にアクセスできていないからな、バカにされるのも当然だと思っている!」
大悟と修介という、城山研究所の重役が二人とも雪を苛む「敵」である以上、祐治はこっそりと調べを進めるしかなかった。
雪をただ使うばかりの二人を黙らせる何かを見つけられないかと、研究所に出入りするために代表役をこなしているのだ。だが大悟によるセキュリティを完全には破れてはいない。
だからこの子供のことも、今日まで知ることはできなかった。その正体に祐治が今になって気が付いても、あまりに遅すぎた。
罵られても当然だ。だが――
「だがそれでも……! 雪を殺すことは絶対にさせないからな!」
祐治は、これだけは絶対に譲れなかった。
『こいつ……殺してやる……雪じゃなく……お前だけ何もされなかったくせに……雪と僕はお前とは違うんだ……偉そうに……お前に何がわかる』
山頂での突き刺すような視線をまた感じた祐治は、また毒沼が荒れるのではと雪を抱きしめた。
……しかし、何も起こらない。祐治がさっき叫んだ「やめろ」の言葉に忠実に従い、二人を襲うようなことは、この子供にはもうできない。
それを知らない祐治は不思議に思いつつ、幾ばくかして少しだけ体の力を抜く。雪も無言で寄り添っていた。
そのまま全員が沈黙していた。
『……うっうう……なんで動けないんだよ……』
その静けさを終わらせたのは、子供の泣き声だった。
『うううう…………!
うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああんうわああああああああああああああああああああああああああああああああああああなんでなんでなんでなんでなんでうわああああああああああああんうわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああなんでなんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお』
山頂に開いている穴の向こうまで聞こえそうな泣き声は、皮肉なことに近くにいる祐治たちには「危険」を感知した防護服によって、最小の音量でしか届かなくなってしまった。
ただ「ちくしょう」「なんで」「死んじゃえ」という言葉が聞き取れる程度となってしまった小さな叫びを聞きながら、祐治はただ動けなかった。