嵐の前の
雪の姿が完全に見えるような距離まで降りた時には、正体不明の「子供のような声」も、かなりはっきり聞こえるようになっていた。
『ユキ! よかった……死んで、ないね……』
雪がぎこちなくも起き上がる様子を見てか、安心したような声が響く。しかし……その声を発する人間の姿はどこにもない。とりあえず少年らしき声の主が雪に危害を加える様子はないので、祐治は足を止めた。
――雪に突き飛ばされて助かったが、気になることは多くあった。
祐治のいた場所へ不自然に押し寄せた体液の波、生物兵器の真下にあったあまりに大きすぎるこの空洞、なぜか雪のことを知っている声。これらは一体どういうことなのか、祐治は知らない。
だがそれを知ろうとして、今すぐに祐治が場へ出ていくことは躊躇われた。
もし迂闊に祐治が姿を見せてしまうと、ついさっき波に飲まれかけたようにあまりよくない結果になるのではないか。そんな予感がしていた。
だから祐治はただ、息をひそめて成りゆきを見守ることにした。幸い雪に気をとられているらしく、祐治の存在は声の主に気付かれていないようだった。
『ユキ……ごめん、ごめんなさい!!』
未だにどこにいるのかわからないが、子供の声が明らかに変わった。必死な呼び掛けから変わり、叱られた直後のような泣き声になったのだ。
声だけでなく、本当に子供のようだ。それに何となくこの少年らしき声に、祐治は聞き覚えがあるような気がする。
だが子供の知り合いなど、祐治にはいない。何しろ近場にいる親族との関係があれなのだ。いくら同じ敷地内を行き来してはいても、親戚とのやりとりはないのだ。
――では最近ではなく、昔に聞いた誰かの声に似ているのだろうか?
『ごめんなさい! 体は痛くない!? 怖い思いをさせてごめん! 本当に――』
「……大丈夫ですよ。驚いたけれど、研究所の最新の防護服を着ていますからケガ一つありませんよ」
雪の声はとても優しかった。責める様子はなく穏やかに、泣いているらしい子供に言い聞かせている。
それよりも、だ。
(雪が敬語を使う相手なんて、「様」をつける相手なんて二人だけだろ……こいつは誰だ……?)
祐治はますます声の主が何者なのかわからなくなった。
子供の頃、あったばかりの祐治に対して雪は敬語で話していた。そして。
祐治の父親であり、修介が尽くしている相手。――修介の娘である雪から見れば、祐治と同じくらい尽くすべき存在といえば、大悟。
雪の身近で敬語を使われるのは、彼ら城山親子だけのはずだった。少なくとも祐治は知らない。少しずつ落ち着いていくこの泣き声の主のことなど、祐治は知らないのだ。
そして――落ち着いていく様子に、不安がつのっていく。
子供の声が小さくなっていくと、周囲の静寂が反比例するように存在感を増していく。一見して穏やかな空気になっていっているはずなのに、祐治は連想してしまうのだ。
薬品を打ち込んだあとの、あの山頂での沈黙を。