過去に坂を下る
光源はずっと上にぽっかりと開いた穴からの太陽光のみ。肉眼ではほとんど何も見えない。
防護服を操作して、顔面を覆っているバイザーが暗視ゴーグルの役目を果たす。これでようやく、穴の底の有り様がはっきりと見えるようになった。
どうやら祐治が降り立った底は平らではないようだ。祐治のいる場所が一番高く、緩やかに地面がへこんでいっている。ずっと下には大きな横穴が空いているようだ。祐治が思った以上に底は広いらしい。
祐治の足元は濡れていたが、足にまとわりつくものはない。体液はずっと下の方へ、横穴へと流れてしまっているようだった。雪の入っている防護服の反応もまだ遠くにある。
(濡れた地面に、下り坂か。あの時みたいだな。……この声もなんだか昔の俺の声みたいだ)
――ユキ――
――ユキ――
――ユキ――
――声が聞こえてくる。
雪の落ちた穴は、生物兵器によってついさっきまで塞がれていた。こんなところに人がいるはずはない。
しかし、雪と祐治しかいないはずの暗闇の中、かすかに、声だけが確かに聞こえてくる。雪の名前を呼ぶ、祐治のものではない声が。
今日一番の、想定外の事態だ。
祐治は警戒心をもって暗闇を見つめた。慎重に、下へと、静かに足を踏み出す。
まるで雪と出会った頃のあの日のように。
子供達で作った秘密基地を、一人で訪ねた日のように。
台風の風と大雨で滑る地面に気を付けて進んだように。
秘密基地を、まさか嵐から守ろうとしてはいないかと、雪の名前を呼び続けた時のように。
雪の元へ。
あの日と何一つ違わない行動を、祐治は選んだ。
――ユキ――
――ユキ――
――ゆき! いるのか!? ゆき! ゆき!!
まるであの時の自分のような、子供のような声に、祐治はかつての自分の叫びと同じ必死さを感じていた。
出会った頃の雪は、父親の修介に祐治のそばを離れてはいけないと厳命されていた。祐治と離れ、他の子供達と一緒に遊んでいようものなら、雪は父親に叱られる。だから子供達も、新入りの扱いに困っていた。
祐治たちが山で遊んでいる様子は、山のおんぼろ屋敷の研究所から見える。
雪は見張られていた。いや、修介には監視、大悟には観察されていた。そんな状況であった子供達は、幼いながらに異様さを感じ取ったらしい。堂々と雪を遊びに誘うのを躊躇った。
「常に、どんな時でも、祐治の役に立て」
雪は常に父親たちからそう命令されているのだと、子供心に祐治は理解した。
雪に声をかけても雪が父親にいじめられないのは自分だけであることも、そんな自分がどうにかしなければ、この少女はこれからも父親にいじめられてしまうこともよくわかった。
祐治は考えた。この少女のためにどうすればいいのだろうか?