はじまりの朝
稲田と栗生は午前中の授業をサボり、駅の構内にあるコーヒーショップで話をすることにした。どうやら栗生ははなからそのつもりだったようだ。
店内の片隅にあるテーブル席に座り、二人で同じアイスコーヒーを注文する。
それからお互いの近況を報告し合った。
栗生は病院へ搬送されて以来ずっと入院しており、数日前に退院したばかりらしい。
「私、自分が電車に轢かれて死んだのだと思ってたけど、実際は軽い接触程度だったみたいで、本当の死因は恐怖によるショック死だったんだ」
両手で軽く掴んだアイスコーヒーのグラスをぼんやりと眺めながら、落ち着いた口調で話を聞かせた。
「線路で倒れてたときは心不全の状態だったって病院で教えてもらった。でも、すぐに処置をしてくれた人がいたから蘇生できたんだって」
彼女が本当に一度死んだのかどうかは分からない。
生きている状態と死んでいる状態の間に明確な境界線というものはない。
病院で死ぬ場合は、「ここから死亡ね」と医者が決めた死亡時刻をもって生と死が切り替わることになる。
しかし、あのときの栗生は死んでいるようにしか見えなかった。呼吸も心臓も確かに止まっていた。
稲田が不思議な気持ちで栗生の話を聞いていると、彼女はアイスコーヒーを一口飲み、また口を開いた。
「私、その人が稲田だってすぐに分かった。だって、その状況で真っ先に線路に下りて、私を見つけ出して助けてくれるなんて、稲田じゃないと無理だもん」
何週間も前の出来事が、昨日のことのように目に浮かぶ。
「あのときは本当に、無我夢中だったよ」
「うん……。稲田、改めてお礼を言わせて」
栗生の瞳が僅かに潤む。
「私のことを助けてくれて、本当にありがとう」
栗生の口からその言葉を聞いた瞬間、全てが報われたような気がした。
彼女をバイクで西日本まで連れていこうとしたこと。
元の世界では死んでいると聞かされ、呆然としたこと。
そんな中、彼女が異孤になりどうしようもなくなったこと。
彼女に想いを伝えるため、東京から女の領土を目指したこと。
彼女が死んで消滅し、再び絶望したこと。
何度も打ちひしがれそうになったけど、最後まで諦めないで本当に良かったと思えた。
「いいんだよ、俺自身がそうしたかったんだから。それに、俺だけじゃ助けるのは無理だったんだ」
「どういうこと?」
「お前が死を覚悟して俺をこの世界に帰そうとしなかったら、この結末には辿り着けなかった。お互いのことを想ったからこそ、俺たちは生き延びることができたんだよ」
「そっか。うん、そうだね……」
それから二人は少しの間口を閉ざした。
親密で安らかな沈黙に包まれ、心が温かくなる。
アイスコーヒーを半分ほど飲んだあと、栗生が再び話を切り出した。
「ねぇ。実は気になってたことがあるんだけど……」
「どうした?」
「あのとき、私の口にアンタの口をつけたの……?」
一瞬、何の話なんだと思った。
だが首を捻って考えてみると、自分が栗生の救助活動をしたときの話だと気付いた。
口づけによって息を吹き込まれたのではないかと、気が気でないらしい。
「そりゃ、人工呼吸だからな。ファーストキス奪っちまったなら謝るけど。ハハハ」
「…………」
栗生は何も言わずに稲田のことをじろりと見た。
「え……マジ……?」
稲田の額に冷や汗が垂れる。
「……知らないっ」
栗生はほんのりと頬を紅潮させ、そっぽを向いた。
もし本当にそうだったのなら、責任重大だ。
稲田は申し訳なさそうに言った。
「鼓動を確かめようとしたから胸も触ったけど……平らだったけど……」
「なっ……」
今度は顔を真っ赤にして、恨めしそうな目で稲田を睨んだ。手がぷるぷると震えている。完全に怒らせてしまった。調子に乗ってからかいすぎたようだ。
稲田は焦り、話題を切り替えようとした。
「そうだ。明日からゴールデンウィークだし、どっか行かないか? 俺前半はバイト入ってないし」
朗らかな笑顔で提案してあげた。
すると栗生は怒りの矛を収め、うーんと唸った。
「ごめん。私、実家に帰らなきゃなんだよね。退院したばかりだから、また家族に顔見せてあげたいし」
「ああ、じゃあしょうがねえな。しかしまた三重県まで行くのか。ご苦労さんだな」
「ちょっと遠いよねー。新幹線使っても二時間以上かかるし」
栗生は困り笑顔を浮かべて言う。
稲田はふと思った。これと似たような会話をどこかでした覚えがあると。
「…………あ」
それを思い出した瞬間、栗生も同じことを思いついたらしく、目を輝かせながら言った。
「ねぇ、また西日本までバイクで連れてってよ!」
「俺も実家まで行くのかよ! ダメダメ、お前も余計時間かかるじゃねーか!」
「うちの両親も娘の命の恩人にお礼言いたいだろうし」
「なんで恩人サイドが出向かなきゃいけねーんだよ! そっちが来いよ、菓子折り持って!」
「一緒にいられるんだから、別にいいじゃん。それに稲田、あっちの世界で私と約束しちゃったから」
「……約束?」
稲田は眉をひそめた。栗生の実家に行くなんて約束はしていないはずだ。
「私の想いを、私の両親に伝えるって」
「あ……」
ようやく思い出した。
死んでしまった栗生の最期の想いを両親に伝える。そもそも自分はそのために元の世界へ帰って来たのだと。
だが、今となっては状況が随分と変わってしまっている。
稲田は手のひらを振って反論した。
「いや、それはお前が死ぬっていう前提の話だったろ」
「ううん、約束はまだ無効になってないよ。今までの私たちの日々や、私が想っていたこと、稲田の口からお母さんとお父さんに話してくれたら嬉しいと思ってる」
栗生が冗談を言っているようには見えない。稲田は少し焦った。
「いやいや、そういうのはまだ早いから。お前浮かれすぎ」
「えー? もう結婚の約束もしたのにー?」
栗生は楽しそうに言った。さっきからかわれた仕返しなのかもしれない。
次は何の謎かけだ、と考えてみたが、すぐに思い出した。
「分かったぞ、俺が独身のまま死んだら天国で結婚してあげるって言ってたやつだろ。あれも死んだあとの話じゃねーか」
「バレたか」
舌を出して微笑む栗生。
「でも……」
今度はニヤリと笑った。
「稲田、まさか自分が生涯独身のまま人生を終えられるだなんて思ってないよね?」
稲田の背筋に悪寒が走る。
もしかしたら自分はとんでもない女に惚れられてしまったのかもしれないと思った。本当に結婚したら間違いなく主導権を握られてしまうだろう。
そのあともしばらく抵抗したが、結局は栗生に押されてしまった。
「ああもう分かったよ、行くよ。でも三重までは送るけど、俺はお前の実家には近寄らねーからな」
「まあ、それは向かいながら追い追い考えるということでっ」
栗生は笑顔を崩さないまま、稲田を押し続けた。
観念した稲田は、彼女と再びバイクで西日本まで行くことになった。
翌日、稲田の家の最寄り駅で待ち合わせをした。
今回も天候に恵まれ、絶好のツーリング日和となりそうだ。
バイクで駅前の道路まで行くと、ほどなくして栗生もやって来た。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たところ」
「…………あ」
無意識のうちにカップル定番トークを繰り広げてしまい、妙に気恥ずかしくなる。
しかし、栗生は腕を組んで唸りはじめた。
「稲田、私たちって付き合ってるんだよね?」
「ああ、もちろん」
結婚だの何だのと浮ついていたくせに、今更何を言っているんだと思った。
「でも、いつから付き合ってることになるのかな。あっちの世界には四月二日までいたけど、帰って来たら三月二十五日に戻ったわけだし、再会したのは昨日だし……」
意外と記念日とかを気にするタイプなのだろうか。
稲田は考えるのが面倒になり、投げやりな声で答えた。
「なんかややこしいな……。じゃあ今からでいいよ、今からで。ゴールデンウィークだし覚えやすいだろ」
「またテキトーなんだから……」
栗生は呆れた顔をした。
「まっ、それでいっか」
すぐに満足そうな笑みを浮かべた。
表情がコロコロと変わるから、見ていて飽きない。
「ねぇ」
「なんだ?」
「あの不思議な世界での出来事ももちろん大切な思い出だけど、私たちはこの世界でまた一から始めようよ」
そう言って、稲田の前に右手を差し出す。
「……そうだな」
稲田も右手を差し出し、栗生の柔らかい手を握る。
二人は見つめ合いながら数秒間握手をして、やがて手を放した。
ちょっと恥ずかしそうに頬を染める彼女の顔は、桜の蕾のようにも見える。稲田はそれをめちゃくちゃ可愛いと思った。
栗生の分のヘルメットを少し小さな頭に被せてやると、彼女はバイクの後ろに跨り、稲田にしがみついた。
ふと、思い出す。自分はこの温もりのためにここまで頑張ってきたのだということを。
「それじゃあ行くか、みゆき」
照れくさいので、前を向いたままそう呟いた。
彼女は一瞬驚いたが、すぐに花のような笑顔を咲かせた。
「よろしくねっ、真介!」
真介は返事の代わりにアクセルを吹かせ、バイクを発進させた。
みゆきは二度と彼のことを離さないよう、後ろから強く抱きついている。
晴れた空に散る白い雲を追いかけながら、大通りを流れる車に追い抜かれていく。
そんな街の景色を眺めながら、真介は思った。
自分たちはまだまだ子供だし、愛が何なのかってことも本当は知らない。
男と女なんだから、これから先も分かり合えなかったり、喧嘩したりすることもあるのだろう。
でもそんなときは、あの世界を一緒に旅したことや、二人で異孤になったときのことを思い出したりなんかして、「あのときよりは全然マシだね」って、笑って仲直りができたらいい。
春はもう少しばかり続く。
やがて眩しい夏が訪れ、秋が心を彩り、冬には体を寄せ合う。
また新しい春がやってきたら、この世界でも二人で桜を見に行きたい。
その次の春も、次の次の春になっても、この女と一緒に生きたいと思っていたい――。
二人はどこまでも続く道の先に向かって、まっすぐに走る。
黒いバイクのエンジン音が、旅立ちの合図のように青空へ響き渡った。




