帰還条件
全車両が女性専用車両。元の世界であったら論争を巻き起こしそうな電車に稲田は乗っていた。
公園から徒歩で京都駅まで行き、そこから電車を乗り継いで四日市へ向かっているところだ。
車内には香水の匂いが漂い、女たちはそれぞれお喋りをしたり、スマホに没頭したり、あるいは化粧を直したりしている。
それほど混雑しているわけではないが、女装がバレる可能性を少しでも減らすため、稲田は座席には座らず一人で扉に寄りかかっていた。
窓の外の街並を眺めながら、栗生のことを考えた。
あいつは本当に元の世界に戻れないのか、と。異孤のことも重要だが、今はそっちの方も気になっている。そのことも中瀬には分かるのだろうか。
結局、四日市駅までは二時間以上かかった。
途中で昼食代わりのパンを買って食べたりもした。
元の世界であれば新幹線で名古屋まで行った方が早かったかもしれないが、この日本では京都と名古屋の間が分断されているのでそれはできなかった。
移動中に異孤が起こらないか不安でもあったが、何も起こらなかった。
やはり何か条件があり、栗生は運悪くそれを満たしてしまったのかもしれない。
四日市駅に着き賀来に電話をかけると、ほどなくして車で迎えに来てくれた。
稲田は駅前の広々としたロータリーで赤いミニバンに乗り込んだ。
「無事に来れて何よりです」
賀来は無感動な口調でそう言い、すぐに車を発進させた。
「サンキュ。それより栗生はどうしてる? なんで異孤が起こった?」
「栗生さんは無事ですよ。異孤の原因は所長が今調べています」
「そうか。よりにもよってあいつに発生するなんて……」
「まあ、行けば分かります」
二人はそれっきり何も話さなかった。
賀来の言う通り、今慌てふためいても意味がないと思った。
廃病院に着くと、駐車場に水色の軽自動車が停まっていた。初めて見る車だが、中瀬のものなのかもしれない。
稲田はまず脱走防止という理由で女装を解除させられ、それから中瀬の部屋へ向かった。
賀来が部屋の扉を四回ノックする。
「おー、いいぞー」
間延びした返事が聞こえたので、はやる気持ちを抑えつつ中へ入った。
「お疲れだったな、稲田」
室内には中瀬しか見当たらなかった。
白衣姿でデスクの席に座り、薄く笑っている。
「栗生は?」
「自分の部屋で安静にしているよ」
「なあ、どうしてあいつに異孤が起こったんだ? 原因は分かったのか?」
「いいから、少しは落ち着きたまえ。そこの椅子に座れ」
稲田は黙って中瀬に従い、パイプに座った。
賀来は後ろで立ったまま話を聞いている。
「さて、どう話したものか……」
中瀬はそう言って、脚を組んだ。
「まず状況についてだが、公園で君と会話している最中に、突然精神が怒りや憎悪に侵食されるような感覚に陥ったそうだ。栗生は異孤について知っていたから、直感的にそれだと感じ、君から離れようとした。数メートル離れたら、その現象も治まったそうだ」
「……そこまでは大体知ってる」
「で、異孤の発生条件についてだが、栗生の証言を基に考えれば……『恋愛感情の対象となる異性に接近すると起こる』……ということになる」
「なんだって!?」
稲田は戸惑った。
栗生が、本当に自分のことが好きだったということに。
が、中瀬の話が矛盾していることにすぐに気が付いた。
「いや、それはおかしいだろ。俺と栗生は何日も一緒にいたんだぞ? なんで今までは異孤が起こらなかったんだよ?」
「だから、公園で君と会話していたまさにその瞬間、恋愛感情が生まれたということだ」
「そんな……」
俺があいつを励ましたせいで、こうなっちまったっていうのか……?
異孤が発動する前の栗生の顔を思い出した。
小さく息を吞んだような表情を。
今思えばあれが、人が恋に落ちる瞬間だったのだ。
「改めて確認させてもらうが稲田、君の精神には異常は起こらなかったし、栗生に対して恋愛感情もないということでいいんだな?」
稲田は悪いことをしているわけではないのに、なぜか責められているような気分になった。
精神に異常は、なかった。
恋愛感情も、ない……と思う。
俺はただ、あいつを助けたかっただけだから。
「その通りだよ……」
「じゃあ、原因はこれで大体合ってそうだな」
「栗生はどうしたらいいんだ?」
「どうもこうも、今後君とは接近しないようにするしかない」
そんな……二度と栗生とは会えないのか?
「じゃあ俺は? 俺は次何をしたらいい!?」
稲田は縋るような表情で捲し立てる。
すると、中瀬は不思議そうな顔をした。
「なんだ? てっきり君の目的は元の世界へ帰ることだと思っていたんだが」
「え……?」
「忘れたのか? このミッションを達成したら、元の世界へ戻る方法を教えると言ったじゃないか」
稲田はハッとした。
異孤の原因で衝撃を受け、すっかり忘れていた。
すると、賀来が後ろから口を挟んだ。
「もうその話をしてしまうのですか?」
「私はまどろっこしいのは嫌いなんだ。遅かれ早かれ話さなければならないことだ」
妙に意味深なやり取りなのが気になるが、情報はできるだけ集めなければならない。
それに、元の世界に戻ることができれば異孤の問題も解消される。
まずは話を聞いてみることにした。
「教えてほしい。元の世界へ帰る方法を」
「分かった。これから話すことは異孤の件とは全く関係ないから、切り離して考えてくれ」
稲田は声を出さずに頷く。
「私の見解はこうだ。栗生は元の世界に戻れないが、君は元の世界に戻れる。おめでとう、良かったな」
「やっぱり俺しか戻れないのか……?」
栗生の言っていた通りだ。稲田は失意に陥りそうになった。
「ああ、まずは君たちの今の状態について説明しよう」
中瀬はスラリと長い脚を組み直した。
「まずは栗生だが、そちらの世界で電車に轢かれたあと、この世界で目が覚めたらしいね? そして君の考えによれば、栗生の体や持ち物はそのままごっそりこの世界にワープしてきた」
栗生は、自分が元の世界では死んでいるということを中瀬には先に話していたようだ。稲田を人質に取られていたからやむを得なかっただろうが。
稲田はそのことは気にせずに返事をした。
「ああ、そうだよ」
「そこが私の考えとちょっと違う。栗生は轢かれたあと死体となり、丸ごと元の世界に残っているはずだ」
「どうしてだ? 少なくとも栗生のスマホはこの世界の物ではないだろ」
「まさにそのスマホだよ。あれはどう操作しても画面が変わらず、バッテリーも全く減らないじゃないか。元の世界の物がそのまま持ち込まれただけなら、そんなことありえないだろう?」
「じゃあ、結局どういうことになるんだ?」
「そうだな、今の栗生は……そう、分かりやすく言えば幽霊みたいものだ」
「幽霊だって?」
「ああ、そこで次に説明するのはなぜ栗生がこの世界で目覚めたか、だ。この世界と君たちの世界の関係性を説明するのは難しい。ま、ここは君にも馴染みのあるパラレルワールド、平行世界という言葉を使わせてもらおう」
中瀬はセミナー講師のように指を立てるポーズをした。
「そもそも事の発端となったのは、栗生が電車で男に尻を触られた事件だ。栗生は男を追いかけたが、向かい側の線路に転落しそうになったそいつに引きずり込まれ、道連れにされた……。君たちの世界は恐ろしいな。最悪な死に方オブ・ザ・イヤーというものがあったら、間違いなくグランプリだ」
中瀬の余計な一言に少し苛立ちを覚える。
だが、彼女はそんな稲田を見てニヤリと笑った。
「まあ、それはともかくだ。死ぬ瞬間、栗生の潜在意識には強い想いがあったはずだ。例えば、男という存在への憎しみや悔しさのようなものが」
男という存在への憎しみ?
違和感を覚えた。
栗生は確かに犯人のことは憎んでいるだろう。しかしこれまで一緒に旅をしてきた彼女が、男全体を憎んでいるようにはとても見えない。
「そして栗生の想いは、無数に存在する平行世界のうちの一つであるこの世界とリンクした。男女が完全に分かれて生きている世界にね」
「それで幽霊のような存在となって、こっちの世界に現れたってわけか……?」
「そう。ここは栗生にとっては死後の世界、ロスタイム、ボーナスステージ。そんなところだ」
稲田は呆然としていたが、中瀬は彼を気遣うことなく続けた。
「栗生についてはとりあえず以上だ。次は君の話をしようじゃないか。君は栗生とは違って、意識だけがこの世界に飛ばされてきたらしいな。私もそれで合ってると思うよ。君は向こうで死んできたわけじゃないからな」
「それに目覚めたとき、俺はこの世界のスマホを持っていた。男しか登録されていなかった」
「ああ。おそらく栗生が死んだタイミングで、君の意識も栗生に引っ張られてこの世界に来てしまったんだろう。君は栗生に選ばれたんだ」
稲田は目を見開いた。
栗生が死ぬ瞬間、自分に助けを求めていたという話を思い出す。そして、自分がこの世界に来た理由をようやく理解することができた。
「……あいつは以前から俺のことを知っていた。痴漢にあったときも、たまたま同じ車両に乗っていた」
「それで、栗生を助けずに見過ごしていたというわけだ」
中瀬はニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべた。
「そのことは、今は関係ないだろ! 急に体調が悪くなったんだよ!」
「まあ気にするな。私だって、元気モリモリでもそんなの助けないよ」
「くっ……」
先ほどからわざわざ神経を逆撫でするようなことを言ってくるのが解せない。
しかし、稲田はそれにのらないよう、拳をグッと握りしめた。
「脱線してすまなかった。とにかく君の意識は栗生によってこの世界に連れて来られた。で、だいぶ回り道をしたが、ようやく最初の問いに答えることができる」
「最初の問い?」
「君が元の世界に帰る方法だよ。それが一つだけある」
稲田は複雑な心持ちで中瀬を見た。
「それは……?」
「それは……」
中瀬が目を伏せる。さっきまでの飄々とした態度はいつの間にか消えていた。
稲田は嫌な予感がして、深く息を吸った。
「栗生が、この世界でもう一度死ぬことだ」




