死の哲学 死とは人間にとって一体何だったのだろうか? philosophy of death 死についての実存的分析
〇序説
誰にでも必ず来る、、死というモノ?
死とは人間にとって一体何だったのだろうか?
人間一般にとっての死とは
生命活動の終局であり停止である。
だがそんな概念論を分かったからといって
わたしという実存にとって何の意味も持たないというのが
真実である。
私が知りたいのはそんな死の説明ではなくて
いつか来るだろう
私の死は何だったのか?
ということだけだ。、
死は不仕合せなのだろうか?
そうではないのです。なぜなら人はいつかかならず死ぬからです。
死は必然でありそれ自体不幸でも幸福でもありません。
死は善でも悪でもありません。
いわば死とは意味論的にはニュートラル(無色)です。
まあもっと突き詰めて言うと
死はむしろ幸福でしょうね。
なぜなら人が死ななかったら、
人に死がなかったら
これはかえって不幸でしょう。
1000年も万年も生き続けるって
苦痛じゃないですか?
そういうわけで死はあえて言うならばニュートラルから少しだけ幸福の方に針が触れている、、ともいえるでしょうね。
ただし完全に不幸な死もあります。
それは早すぎる死です。
親よりも早く死ぬ子供は親にとって最大の不幸ですよね。
あるいはまだまだこれから活躍、、という30代や40代での時期に死ぬって、これも不幸でしょうね。
というわけで死にはいろんなケースがあるってことです。
定められた死
そうなるしかなかった死
大団円の死
壮絶な死
事故死
自死
神の配慮としての死
宿命としての死
殺人
戦死
死には様々なケースがあるということです。
そのケースケースで、、不幸の方に針が振れたり幸福な死のほうに
針が振れたり、、ということなのです。
というわけで突然私の父の死を持ち出して恐縮なんですが
私の父は81歳で死んだんですが、、、
その数年前からよく私に言っていたものでしたね
「俺が死んだらみんなで酒でも飲んで楽しく見送りしてくれ」ってね。
「俺はこんなに生きてもう十分生きたからなんの後悔もない」ってね
こういう死もあるわけです
〇本論
☆、命の意味って何?
大前提としてそもそも論になりますが
命があるから死があるのです。
命無きモノには死もないのです。
私たちが命を授かったからこそ
死があるのです。つまり命と死はワンセットです。
命だけ
永遠の生命だけほしい、なんてムリなのです。
「命を授けられた者にはいつか必ず死が来るだろう。」
「塵は塵に帰り、泥はまた泥に帰るのである」
これは必然であり逃れるすべは在りません。
というかそれでいいのです。
それだからこそ命が命たりうるのです。
死がない、
そんな永遠の命は肉の子の人間には担いきれないのです。
重荷過ぎるのです。
むしろ死があることがありがたいことなんです・
死に感謝すべきなんです・。
さてそれでは
そもそも命って何でしょうか?
ハイデッガーによれば
「人間とは死に向かって(歩んで)いる無の代理人」です。
つまり、人は死に向かって、死を生きている、、ということです。
生の中に、すでに、死の萌芽がある、、ということです。
ですから人は生の途上で死を担い、
死のかなたで生を生き抜くのです。
生を生ききる、、ということは
同時に自分の中の死を生き抜くということでもあるのです。
そういう意味において人に死は存在しません。
そもそも人間存在とは「無」以外の何物でもないのです。
人間存在に本来的な意味での価値や意味はそもそもないのです。
ですから人間存在を「無の運搬人」というのです。
そういう無の運搬人が自己の死を死のうとも
それは対自的には無意味そのものでしかないのです。
つまり他者から見た他人の死は「生命が終わった」という事実でしかないということです
それに対して自分の死は自分が死において自己の勝利であり他者の敗北だという意識だということです。
つまりあなたが死ぬときあなたは自己において勝利して、他者において敗北したということなのです。
その意味で、、死は報われる、、のです。
そういう意味合いにおいての
死の意味とは
あの人が死んだ
どこそこの有名人が死んだ
というような他者の死ではなくてあくまでも
自分の死である。
自分の死
つまりあなたがあなたの死をどう意味づけるか
あるいはあなたがあなたの死をどう実存として受け入れるのか
死の意味とはそれでしかないのである。
ほかには死の意味はない。、のである。
では実際どうすればよいのか?
それは、、こんなたとえ話でいうと、
死をつかみ取りに行こうとして
あちこち探しまわった結果。
ある日、誤って
歩道のフェンスにぶつかってこけてしまって
倒れて後頭部を強打して思いもかけず、即死した人のようなものだろうか?
このたとえ話からあなたが何を類推するか
それはあなたにお任せするしかないが、、
あえて私が絵解きするならば
それは
死は偶然と必然のはざまに介在する、、
ということの暗喩だろうか。
いずれにしても死はいつかあなたのもとに来るだろう。
もちろん私のもとにも来る
いつだったか
私はこんな夢を見たことがある
時間も日にちも不明なんだが(夢なんだから当然ですよね)
私は洗面所で顔を洗っていて
とつぜんくらくらと強烈なめまいを覚える、
その場にへたり込んでしまって
意識もスーッと薄れてゆく
誰かを呼ぼうとするんだけど声も出ない、
そして意識もふわーっと、薄れ続けて
混濁して、、消えてゆく、、、
暗ーい
闇に飲み込まれる、、、
ああ
そうだった。
誰かに言い残すことがあったような、、、
、、と、
目が覚めた、
なあんだ
夢だったんだ
でも?
もしかしたら
これがやがてある日
現実になる日が来るんだな、
そう思って
生の意味と死の意味を
こうして
まとめてみようか、、
と、
思ったのである。
あなたがこんな風に死を迎えるのはいつでしょうか?
そして
私もこんな夢が現実化するのは
はたしていつなんでしょうか?
でも
死って
ある意味
神に帰る
ってことですよね?
人間の限界性を超えて
「本来の無」にかえるというのか、
根源性に帰るというのか、、
始原に戻るというのか、
「お前は塵から生まれた
だからいつの日か
また、塵に帰るのだ」
そういう世界なんだろうな
と思う今日この頃の私なのです。
もしかすると
人というものの生命
人間の生涯というものは
死によってしか本来の意味を構成しないものなのかもしれませんよね?
そういう意味で死と生は
即自的
対自的な
シンメトリーな双極性の
カテゴリーなのでしょう。
そのどちらが欠けても意味をなさない
補完関係
そういうものなんでしょう。
その昔
悟りを開いた聖人が
死即生
生即死
生死同一
と看破したのはそういうことだったのでしょう。
あなたも私も
生を生き
死を生きている
そういう即我。即宇宙の世界
マクロが即ミクロであり
あなたの遊んでいるそのビー玉の中に全宇宙がある
という世界観なのでしょう。
〇結論
、、、、、めいたこととして、、。
ですから
あなたに、、
そしてこの私に
おくる言葉があるとしたら、、
「ただ 生き抜け(人生を駆け抜けろ)、そうすれば自然と、ある日、死は訪れるだろう」
ということでしょうか。
それでいいのです
というか
それが宇宙原理法則であり
世界からのあなたへの唯一の解答
なのです。
だから
それでいいのです
それしかないのです。
要するに
生の世界はあくまでも生きることに専念するべきです。
死を考えてばかりで一生を暗ーく送るのも、、馬鹿らしいですよね?
でもさあ、、、しんだあとについてはじゃあどうなる?
、、とお悩みのあなた?
死んだらどうなる?
それはこちらでどうぞ
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