脈(3)
袋の倒れる音がする。止まった様な時間が動き出して、普通の時間の糸が繋がっていく。二人は笑いながら、大体の荷物を冷蔵庫の中へと収納していった。さっきの受け答えは、お互い、お茶を濁す。濁した事で、二人の幅を広げたのかもしれない。そうしているうちに、買った食品の整理が終わった。
「灰皿あるかな?」
保は、瞳に聞いた。ニコチンを、頭の先から廻せば、さっきの様に、無駄な動揺などしなくなる。
「あっ、はい。ありますよ。もしかして、我慢されてました?」
瞳が、ピンク色の灰皿を二人用のテーブルへ、出しながら言った。猫の絵が描いてある。にゃんとも可愛いらしい絵だった。
瞳は少し移動すると、買い物際に使っていた小さいバッグから、買った煙草も出した。保も、テーブルへと移動する。
「そんな事は無いけど。まぁ、一息ね」
そう返すと、保はズボンのポケットからオイルライターを取り出し、煙草の封を開けた。クズを近くのゴミ箱に捨てると、一本取り出して口に咥える。
ピン、ボッ、カチャ。
火を付けた。
オイルライターの匂い。
目の前にある花束みたいだ。
一口目を吐き出す。二口目、三口目と続いた。体中の血管が締まる感覚と、少しの浮遊感が訪れる。体に溶け込ませる様に、四口目、五口目と続いていく。
煙の命は、結託しないと短い。
一本吸い終わると、二本目へと、手が伸びた。一口目、二口目、三口目、漸く、あの感覚も浮遊感も消えた。頭が動いていく。高まりも静まる。保が、本来の自分を乗り移らせる儀式であった。
「生き返った」
二本目の半分くらいまで吸った時、保は、何と無く洩らした。煙を吐かなければならなかったからかもしれない。
「今まで、死んでたんですか?」
いつの間にか、瞳も、椅子に座って煙草を吸っていた。紫陽花の雰囲気に、煙草の煙が絡んでいる光景は、誰が見ても一つの艶やかさがある。
瞳の問いに、死んでいたかもしれないと、保は思ったが、スーパーから買ってきた物の重さの所為にすることにした。別の案件ではないことを、心の中で繰り返し、言葉を取り出す。
「重たかったからね」
瞳は笑った。この場合は、同意してくれている笑いだ。話の流れとは、全く知らない人とでも作り出せる物である。向こう側とこちら側の行き違いがあったとしても。
「お風呂、入れて来ますね」
一本、吸い終わった瞳が言った。
灰皿の中には、二本の吸い殻。
優しい消し方だった。
カチャ、カチャ。
言葉を発してからの、瞳の行動は素早かった。少しだけ、短気なのかもしれない。保は、慌てて煙草の火を消すと、脱衣所の方へと向かった。
灰皿の中には、三本の吸い殻が置かれる。
風呂洗いくらいしなくてはいけないと、保は思っていた。料理は、殆どお任せなのだ。お金を出したからと、踏ん反り返っていては、何処ぞの貴族である。
「僕が洗うよ」
脱衣所から、保が言う。保は始めて脱衣所の中を見た。女性らしい清潔感が漂っている。
脱衣所の中は、出入り口のドアから見て、右側に洗濯機があり、左側は洗面台になっていた。真ん中には、衣類置き場として活用できるであろう、三段のプラスティック製の棚が置いてあった。ちょっとしたホームセンターでも、組み立て式で売られている物だ。全体的に、きちんと整理整頓されている。男性から見れば、大抵の女性の家は綺麗なのだ。昨今は、残念ながら、違ってきているかもしれないのだが。
瞳は、保の声が聞こえなかったのか、返事をしない。しばらく、待っていたのだが音沙汰が無かった。洗濯機の前を通り過ぎて、保は、浴室の扉を開けた。浴室の中の瞳は、洗剤の詰め替えを終えま所である。
「どうしたんです?」
いきなり、扉が開いたので、瞳は驚いた。保は、さっき声を掛けた事は忘れて、もう一度同じ事を提案する。
「僕が洗うよ」
「そうですか?じゃあ、お願いします」
瞳は、頗る嬉しそうである。何かをして貰った事は無いのだろうか。
「何か、勝手が違う事はある?」
「別に無いですよ。普通のお風呂場なんで。追い焚き機能とか欲しいんですけどね」
そんな事は聞いていないのだがと、保は思った。女性特有の現実的に飛躍した話である。会話の途中に入れられると、男性側としては、面倒くさい物なのだ。
ボルダリングの壁にある、小さなホールドとスタンスの様な話であっても、現実的に登って行ってしまう女性の想像力は凄い物である。男性特有の、八千メートル級に挑む山登りの様な話よりは、幾分、実益があるというのも、悲しい話であった。
「いやいや、お湯の出し方とか」
保は、少し話をつついた。未来よりも、今は、今が重要である。
「あっ、そうですよね。えっと、じゃあ、この部分を左にするとシャワー、右にすると蛇口から出てきます。温度は、ここで調節して下さい。で、洗うスポンジは、柄が付いてる、そこに掛かっている、この白いヤツです。お風呂用の洗剤はこれで、使い終わったら、ここに置いて下さい。洗うスポンジは、元の場所に掛けて下さいね。以上です。じゃあ、よろしくお願いしますね」
移動しながらの的確な瞳の説明に、保は頷くだけだった。最後の瞳の言葉が終わった後、二人は入れ替わり、保が中へと入った。
浴室は、備え付けてある鏡の綺麗さが異常だった。日頃、何を映しているのか、保には分からない。床には、女性が買いそうな柄のシャンプー、リンス。香りが良さそうなボディソープ。直置きしない様に、プラスティック製の簡易的な台の上に、三つ並べて置かれていた。
鏡の直ぐ下には、備え付けの奥行きの無い棚が有り、その上に、洗顔用の石鹸に石鹸台。その横のタイルには、吸盤タイプのフックが二つ有り、洗顔用のボンボンと猫の絵柄のボディスポンジが掛かっていた。何処の家でも同じかもしれないが、浴室内の至る所が綺麗だというのがポイントである。保の体が映っている鏡の周りは、職人の工場みたいだった。
保は、浴槽の縁に浴槽用洗剤を一周掛けると、戻しておく様に言われた所へ置いた。そして、暫く待った。3分待った後、柄が付いてるスポンジで擦り始める。他人の家の風呂洗いや茶碗洗い等、自分の家でより丁寧にやってしまうのは、人の良さなのだろう。こうあろうとする事は、大切な事である。
浴槽と風呂釜を洗ったスポンジを、シャワーで丹念に洗い流した後、保は浴槽に栓をした。スポンジを所定の場所に掛けてから、シャワーから蛇口に切り替える。お湯の温度を設定した。39度。少し、熱めだろうか。保としては、大丈夫な温度である。
取り敢えず、その温度でお湯を溜め始めた。浴槽に蓋も忘れずにする。蛇口からお湯が入る分だけ開けておけば、お湯が冷めにくい。一通り終わると、保はキッチンへと戻った。
「温度は39度にしたけど、良かった?」
保が、瞳に確認する。瞳は、お湯を沸かしながら、レタスとスナックエンドウを洗っていた。
「大丈夫です。いつも、それくらいですから」
「そっか。じゃあ、6時半くらいに止めれば良いね」
現在の時間は、午後6時20分だった。保は、そう言うと、キッチンに居る瞳の横へ移動する。手伝いをする為だった。
「何か、する事はある?」
主婦業に従事している人は、この問いだけでイライラする物である。一人で行動することと、人を使うということは、別物だからだろう。
「えっと、お手伝いですか。うーん、何にしようかな」
瞳は、次は、玉葱の皮を剥きながら呟いた。幸いにも、瞳には、まだ、そのような感覚は無いようである。
「何でも良いよ。上手くできるかは、分からないけどね」
主婦業に従事している人は、この問いの後、口を開かなくなるだろう。客として、自宅に来ている事を差し引いても、やはり、苛立つらしかった。
「じゃあ、じゃがいも洗って下さい」
袋に入ったままのじゃがいもが、キッチンの台の上に置いてあった。瞳は、それを目で指しながら言っている。
主婦業に従事している人が、瞳の様な時だってあった事を考えてしまう時があるなら、時間に巻き付かれた感情とは、無情かもしれない。できる事が増えていくのだとしても、何かでの救いは欲しいのである。純粋な形は、いつ消えるのか。
保は、袋からじゃがいもを、流し台へと転がした。タン、タンと弾む音が、二人の生きる為の作業を応援している。それが、日常生活の中のちょっとした食事だったとしても、意味のある行為であり、必要な形なのである。
ボールに水を張ると、じゃがいもを洗い始めた。保にとって、あまりした事が無い作業である。単純に、女性の前で、張り切る男性の形ではある。どちらの感情で見れるば良いのだろうか、きっと、そのどちらかは幸せを取りこぼす。男性、女性、性格の種類にもよるけれど。
保は、丁寧に洗っていた。やり慣れない作業は、丁寧が一番である。野菜によっては、土付きが良い場合もあるのだから、ちょっとした事くらい、笑顔でやらなければならない。美味しいとは、手間も含まれる。
6個のじゃがいもを洗い終わると、保はボールをすすぎ、その中へじゃがいもを入れた。時計を確認すると、丁度、6時半である。
「じゃがいも、ここに置いとくよ。そろそろ、お湯止めてくるね」
手伝っているのか、瞳のペースを邪魔しているのか、分からないのだが、二人とも楽しそうではあった。悪くない空気のまま、進んでいく。
「はい、ありがとうございます。そのまま、お風呂入っちゃって下さい」
「いいの?」
「はい、その後、私も入るので。飲み始めの目標は、8時半にしましょう」
瞳は、時計を確認する。まな板と包丁を取り出すと、玉ねぎを切り始めた。瞳に任せ切りの方が、瞳も勝手が良いのだと、保は漸く思った。善意からくる余計な事は、たまに、邪魔である。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
瞳は軽く返事をすると、料理に集中し始めた。瞳の返事を聞きながら、保は、ボストンバックから、部屋着用の上下と下着を取り出しに行った。
窓際に置かれたボストンバックを開けると、ボクサーパンツと大きめのロングTシャツ、スポーツウェアのだぼっとしたズボンを選び、それを取り出した。それらを全てを着た状態が、保が寝る時のいつものスタイルである。その三点に加え、バスタオルとスポーツタオルを持って、保は脱衣所へ向かった。
途中、瞳と、顔でやり取りもする。我慢出来ずに、二人して吹き出した。
風呂に入る気で行く、他人の家の脱衣所は、少し緊張する物だ。裸になるのだから、当然かもしれない。寝巻きとバスタオル類をあの棚に置くと、保は、ぎこちなく服を脱いだ。雨で濡れていた服は、今は、湿っぽいだけであった。
準備が終わると、風呂場への扉を開ける。さっきまでは気にならなかった、ショッキングピンクの浴室用椅子が、保の目に付いた。扉側の右角に置いてある。同じ色の洗面器も、裏返しで一緒に置いてあった。なかなか思い切った色だなと、保は思ったが、外に出すような事にはならない。落ち着いた色の浴室に、浮いている色がある事は、保にとっては新鮮である。
浴室の中へ入ると、浴槽の蓋をどかし、保は洗面器で掛け湯をした。二回、掛けた時だった。脱衣所の扉が開いた。
カチャ
保の心拍数が上がった。裸である事が、相乗効果となっている。保は、感覚を研ぎ澄ました。
「あの、もう入られました?」
扉の向こうから、瞳の声がする。脱衣所の方からなので、少し声が大きかった。
「まだ、だけど。どうしたの?」
保も、少し大きな声で返した。何か、用事があるのだろうと、保は思った。
脱衣所では、瞳が洗面台の下の扉を開けて、小さな黄色の袋を取り出すと、扉を元に戻した。その動きが、浴室の保には、よく分からない。音が、微かに聞こえてくるだけである。
「入浴剤、忘れてました」
「あっ、そうなんだね」
「大丈夫ですか?」
「うん、良いよ」
保が答えると、風呂場の扉が15センチほど開いて、瞳の腕だけが出てきた。頭は、何処かへ、向けているようである。
風呂場で座っていても、取り易い高さに、その腕はあった。小さな黄色の袋を、保は確認した。一袋づつタイプの入浴剤だ。
保は、それを受け取る。少し、手が触れた。料理を一生懸命作っているのだろう。手が冷たい。早目にあがろうと、保は思った。何方にしろ、また、冷たくなるかもしれないが、心情としては、そう動いた。
「ありがとう。ゴミは持って行くから大丈夫だよ。僕が出たら、すぐ入れるようにね」
「はい。準備はしてますよ。食材も、下ごしらえくらいは、終わらせようかなって思っています。あっ、浴室の物は、自由に使って下さいね。じゃあ、ごゆっくり」
早口で、淡々と言った瞳は、そそくさと脱衣所を後にした。保は、受け取った入浴剤を、早速、浴槽に入れようと、浴槽の上で封を切ろうとする。手が濡れているせいか、なかなか封が切れない。切り口の表示のある部分から開けようとしているのだが、滑って力が上手く伝わっていないのだ。
保は仕方なく、浴室から出て、自分で準備したバスタオルで手を拭いた。一緒に持ってきた入浴剤の袋も拭くと、2センチほど開ける。これで、大丈夫だろうと、保は思った。
浴室に戻ると、保は、もう一度、同じ作業をしてみた。浴室のお湯へ、入浴剤が溢れていく。透明なお湯が、ピンクがかったクリーム色へと変わる。バラの香り。袋の色からは、想像できなかった。自分には似合わないと保は思ったが、たまにはという特別感を、少しだけ享受しようとも思った。思いながら、入浴剤の袋を浴槽へ浸けた。最後に、入浴剤の袋ごと、浴槽に浸けるのはご愛嬌である。
保は、自分の作業を始めた。シャワーで頭を濡らすと、髪に良さそうなシャンプーに手を伸ばす。この場合、どの程度使うのが正解なのか。一回、プッシュ。これで、大丈夫だった。頭を泡立てた後、シャワーで洗い流す。
上から、順番に洗っていくタイプの保。今回は、顔はスルーした。ボディスポンジを濡らして、ボディソープを、一回、プッシュ。泡立てると、体を擦り始めた。
保は、体が固い。どこまで擦れるかを、試し始める。背中の真ん中は、無理だった。スポンジを受け渡して、表面をなぞるだけを繰り返す。結局、力を入れて背中を擦るのは無理だった。
不意に瞳の、「一緒に入りますか?」という言葉が、保の頭を過ぎった。ボディタオルにしたら良い、という発想をしていたからだった。
それは、独り善がりの強がりかもしれないと、保は考え直した。違うのかもしれない。背中を、力を入れて擦ってくれる存在が居るという事実は、人にとって大切な状態である。居たのかもしれない、に変わるのを、悲しいと思うかである。
ただの、雫の音がした。タイルが、冷や汗をかいているみたいだった。
保は立ち上がると、ボディスポンジの泡を落としながら、全身にシャワーを浴びる。落とし終わると、シャワーを止め、ボディスポンジを元の場所に掛けた。浴槽に、ゆっくりと入っていく。いつものような、落ち着いた感情が湧いてきた。あの感情だけで暮らせたら、どれだけ良いだろう。
肩まで浸かりなさい、と声がしそうなくらいに、一瞬、静かになった。思い出す前に、保は、軽く手を動かした。
チャプン、チャプン。
水の音の後、瞳の鳴らす音だけが、遠くに残る。それが、現実への鍵だった。
温まった後、保は、軽くシャワーを浴びる。入浴剤が、体に残らないようにする為だった。それが終わると、浴槽に蓋をしてから浴室を出た。
出た時に、後ろ側から、換気扇の音が初めて聞こえた。