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脈(1)

 固有名詞では知っているが、まだ行った事のない場所へと自分自身が訪れるという、あの在り来たりな高揚感はいつ体験しても胸が踊る。保もそうであった。今日、初めて出会った女性の生活臭のする空間へ行くという、人生で初めての行動を保は取っている。

 男性特有のよからぬ考えが、しっかりと復活し始めているのか。今迄の両親の心配は、一体、何だったのか。でも、なんであれ、一人の人間が元気になろうとすることは、喜ばしい事なのかもしれなかった。


 二人は雨宿りしていた公園の脇を過ぎて、10分ほど直進すると右へ曲がった。左に豪華な家が、保には見える。

 その道を、また10分くらい直進すると、こじんまりとした平屋のアパートが見えてきた。駐車場も、三台分ほど付いているが、一台は軽自動車しか止められないだろう。

 アパートのドア側の通路には、上に屋根がある。その手前で二人は傘を閉じた。二人して傘をトントンすると、目が合ったから、二人して少し笑った。

 部屋の扉が、一定間隔で並んでいる。三部屋あった。瞳は道路側から一番奥の扉の前まで、少しだけリズムを早めて歩き行くと、鍵を開けた。


「どうぞ、いらっしゃいませ」


 瞳の明るい声と比例する1LDKの部屋は、玄関から丁寧だった。上がった部屋の中では、自分自身の居場所を探さなければならないほどである。

 場所を決めあぐねて、保はウロウロしていた。体の話では無い、心がだ。体は、立ったまま、今だにボストンバックを下ろせなかった。自分から聞く事すらしない。片手にはペットボトルの入った袋も持っている。瞳は温かい飲み物を準備しながら、そんな様子の保に声を掛けた。


「すみません、ペットボトルの飲み物は持って来てください。冷蔵庫に入れちゃいますから。後、下に敷く物渡すので、ボストンバックはその上に」


 ペットボトルの袋を渡しに行った保は、ゴミ袋を受け取った。その上にボストンバックを置けば、気にしなくて良いでしょう、という事だった。保はそこまで考えていなかったから、言われた通りにする。ベランダの窓の前にゴミ袋を敷くと、その上にボストンバックを置いた。肩がようやく軽くなる。


 ダイニングキッチンとリビングが繋がっている為か、一部屋が広かった。ダイニングキッチンよりに、二人用のテーブルセットが配置されている。テレビのあるリビングの方には、カーペットの上に座卓があり、座椅子が三つ置いてあった。色合いが女性らしい。

 保は、キッチンよりのテーブルセットへ向かう。気づいた瞳が、可愛いケトルを置いて言った。


「好きに座ってて下さいよ。これじゃあ、私が、なかなか人を座らせない人みたいじゃないですか」


 保は、それもそうだなと思った。二人用のテーブルセットの椅子に座る事を決める。


「どこに座ろうか迷ってしまって。ここ良いかな?」


「どうぞ。もうちょっと待ってて下さいね」


 キッチンに立つ時は、エプロンを着けるのが瞳の習慣らしい。いつの間にか、瞳の身体に付いていた。

 女性らしい物ばかりだなと、保は当たり前の事を思いながら、部屋をぐるりと見た。あの扉の方が寝室、あっちがトイレ。風呂場は入って来た玄関よりか。保は、なんでも把握したがる。

 瞳がティーカップに紅茶を入れながら、その様子を見ている。瞳は、角砂糖の入った容器を、テーブルへ先に運んだ。


「そんなに、女の子の部屋をジロジロ見るものじゃないですよ。なんか、恥ずかしいんですけど。もしかしてトイレですか?」


「いや、大丈夫だよ。ただの癖だから、不快に思ったんなら謝るよ」


「なんですか、その癖。あんまり、褒められた物では無いですね」


 瞳は笑っている。怒っていなかった。部屋の中は午後3時である。


「ミルク入れますか?それとも、レモン?」


「ミルク、お願いします」


 保は笑っている。心の中の時間は何時だろう。

 もう無理して大丈夫になったのか。あの時の空元気と同じか。保、本人にも、分からないだろう。

 瞳が、二人用のテーブルに紅茶を運んできた。瞳はレモン、保はミルクだ。デザートの袋も、一緒にテーブルに置いた。


「何から食べます?」


 デザートの袋から四つ取り出しながら、瞳が保に聞いた。保は、お礼の品である事を思い出した。あぶない、あぶないと保は思う。


「お礼の品だから、お先にどうぞ。権利は、僕には無いし」


「それもそっか。じゃあ、ゼリーとプリンは、また今度にするとして、新商品のヤツを食べちゃいましょう」


 瞳は冷蔵庫にゼリーとプリンを入れると、小さいスプーンを二つ持ってきた。その内の一つを保に渡す。


「では、いただきます。私は、こっちを食べますけど、二口か、三口か。そっちも下さいね」


 大分、傲慢な提案ではあるが、保には権利が無い。瞳はあんみつ系の新商品を選んだ。普通のスポンジに、抹茶の濃いムース、餡子に、きな粉が多めにかかった白玉。それに、黒蜜をかけて食べる品である。和の方が好きな様だった。

 保は、カップレアチーズケーキになった。五種類のチーズが使われている。スポンジと層になっているチーズクリーム部分があるのだが、それが五段階の層になっていて味が異なる。

 二つともコンビニのカップデザートであるが、少し高い方だった。お礼の品として保が選んだ物は、瞳にとって良い結果になったと言える。


「一口、貰っていいですか?」


 保がミルクティーに口を付けていると、そう言いながら瞳が見てくる。


「僕はまだ、一口も食べてないんですけど」


「まぁ、まぁ」


 良く分からない理論で、保は一口目を瞳に奪われた。本来は、口に出来なかった物なのだから、少しくらい構わない。なんなら、全部あげても良いのだが、それでは一緒に食べるという項目を満たさない。このちょっとした事が、人間関係には必要なのだ。本当と嘘の使い分けのように。


「美味しい。やっぱりチーズも良いですよね。でも、抹茶の苦味と餡子の甘み。モチモチの白玉に、しつこく無い黒蜜も捨て難い」


 チーズのデザートを殆んど褒めていないのだが、瞳にとっては、何方(どちら)も満足のいく品だったようだ。保は何方か不味いと言われて、押し付けられるのではと思ったが、そんな事にはならなかった。それにしても、良かったで終わるお礼の品を、その対象となる人間と最後まで見る事になるとは思わなかった。

 保は、自分自身の気が滅入っていた事と今の状況との差に、心臓が分からない鼓動を打っているのに気が付いて、もう一口ミルクティーを飲んだ。

 瞳は、自分のデザートを食べると、レモンティーを飲んで、保のデザートを食べている。残りはあるのだろうか。


「今日、一緒に飲みますよね?」


 瞳が、不意打ちの様に聞いてきた。保にとっては、今更の質問である。


「ここまで来たんだから、泊まる事が確定でいこうかな。で、いつまで、僕の食べてるの?一口はとっておいてね」


 保のデザートをすくって、口まで運んでいた瞳の手が止まる。


「全部食べようとしていたのが、バレたんですね」


「うん、瞳ちゃんが、ペース配分考えて無かったからね。多分、誰でも分かると思う」


 保は自分の分のカップにスプーンを入れると、一口分すくって食べた。これで、物事の約束は果たせている。


「残りは全部食べなよ」


「えっ、良いんですか?お言葉に甘えず食べようとしていたんですが、お言葉に甘えますね」


 瞳は鼻歌が出ている。遠慮というブレーキが外れている。甘い物の前の女性は、そうじゃないと面白くない。


「それで、これからどうするの?」


 保は聞いた後、三口目のミルクティーを飲む。大分、温くなっているようだ。その問いの返事を、保が聞く前に、インターホンが鳴った。


 -リンドーン


 二人して体が震える。いきなりの音に驚いていた。瞳が玄関の方へ、訪問者の確認へ行こうと席を立った。


「ちょっと、待ってて下さいね」


 瞳は立ってから言った。保は頷いて、四口目のミルクティーを飲んだ。明後日の方向へ、保の視線は浮遊する。

 玄関から、瞳と男性の話し声が聞こえてきた。もしかしたらという考えが浮かぶ。扉が閉まり、二人の足音が保の方へ向かってくる。もしかしたらが当たりの場合、逃げられない。高鳴る鼓動。瞳が部屋へ入って来ると、その後に、高齢の薄汚い男性が入ってきた。


 薄汚いというのは、男性の着ているベージュのコートの印象が強かったからだった。良く見ると、顔立ちは紳士という表現が似合う。顔から見るなら、薄汚いというフレーズは失礼に当たるだろう。保は少しキョトンとした。瞳が、少し説明に入る。


「近くのホームレスの(げん)さん。たまにお風呂貸してるんだ。勿論、無料で。丁度、借りに来たから、少しの時間、待つって事で良いかな?」


 軽く頷く保だが、話が見えない。瞳から傘を借りた手前、そういうボランティア精神の高い女性なのだろうと思う事にした。すると、源さんが口を開く。


「何か予定があった様で、お時間取らせて申し訳ない。なるべく、早く終わらせる様にしますから」


 低音のアンサンブルが部屋に広がる。源さんは、とても丁寧な人である、と保は推測した。立ち姿を眺めていると、最初の印象からどんどんズレて、形を良くしたら執事だなと思える様になった。何故かは、分からない。

 瞳は、寝室に取りに行ったバスタオルを、源さんに渡した。笑顔で言葉も続ける。


「大丈夫、まだ3時半だし。ゆっくり入って来て良いよ」


 二人のバスタオルのやり取りを見ながら、保は変な疑念が湧くが、今は考え無い事にした。源さんが風呂場へ消えると、目の前の椅子に瞳が座る。


「ねぇ、どんな関係なの?」


 レモンティーを飲んでいる瞳へ、ストレートに保が聞いた。我慢出来なかった人みたいである。


「うーん。分かんない。しいていうなら、一回拾ったら懐いた関係かな。なんか昔、社長さんだったんだって。でも、社長さんにしたら、使えない人だなって感じかな」


 保は最後の言葉が少し気になった。使えないとは、どういう意味だろう。使えない、使えない。再び、我慢出来なかった保は、瞳に聞いた。


「使えないって、どういう事?」


 食べ終わった容器と自分のティーカップを、キッチンで片付け始めた瞳は、聞かれた事に答える。


「殺してくれるって言うから、抱かせてあげたのに、殺してくれなかったんだよね」


 保は、聞いた事を後悔した。瞳の声の調子が、まるで、世界の誰もが同じ様に思っているだろう、と主張するように普通だったからだ。「おはよう」と「おやすみ」の間にある会話と何ら変わらない抑揚。恐怖も背徳感も無い。瞳にとって、自然な事なのかもしれなかった。


「あっ、多分、四時過ぎくらいに、源さんお風呂あがってくるとは思うから、そしたら近くのスーパー行こうね」


 そう続けて、瞳は容器を洗っている。生活はちゃんとしているのに、あの言葉は一体何なのだろう。あの優しさは、一体何なのか。

 保は、方向性の違う胸の高鳴りを感じた。保の命が感じさせているのかもしれない。保は、残ったミルクティーを流し込んだ。キッチンの瞳に渡す為に、瞳の横へ行く。瞳の甘い香りがした。


「あっ、ありがとう」


 瞳が笑顔で受け取った。向日葵の顔で、向日葵の目で見てくる。

 保は何かに負けた。明日出て行けば、大丈夫だろうと考えている。嫌でも居なければならなくなるとは、保は、まだ思わなかった。














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