傘(4)
ファサ、ファサ、バ。
隣の入り口で赤が開いた。もうすぐ、居なくなるだろう。男は音にだけ少し反応するが、後は、前を見たままだった。変わらないジャングルジムは、世界文化遺産だろうか。
音が近づいてくる。ワクワクする様に。
「あの、傘が無いんですか?」
変わった女であった。昨今の事を考えれば、雨宿りとはいえ、ボストンバッグを持って、公園のトイレの入り口に佇んでいる男性に、声を掛けたりはしない人の方が多いだろう。男は突然の事で、ドタバタした朝の様に、返す言葉を纏める。
「あっ、そうなんです。いきなり、降られまして」
誰もが想像するであろう、お決まりのフレーズが、今の男の精一杯だった。後は、変な形にならない事を祈るばかりだ。こんな事まで変な形に終わるのなら、男は世界に絶望するだろうから、そんな形にならぬよう、空気と時間に縋っていた。
「やっぱり、そうなんですね。あっ、そうだ。実は折り畳み傘を、この傘とは別に持っているのですが、近くのコンビニまでお貸ししましょうか?こんな所で雨宿りするより、ずっと良いと思うんですけど」
ここで、男は初めて女の顔を見た。紫陽花の雰囲気に向日葵みたいな顔。男は少しだけ、その提案に乗ろうと思った。男は、まだ救われるかもしれない。忘れていない事があるからか。それとも、生物としての基本だからか。
「宜しいのですか?コンビニまでにしようと思います。この辺りにお住まいですか?一番近いコンビニはどの辺りでしょうか?」
少し晴れやかな声で、勝手に喋っている。見つけてくれた事への副作用で、男の身体に血が巡っていく。
全てが疑問形であることを除けば、である。
「じゃあ、これどうぞ」
バックから折り畳み傘を取り出すと、カバーを取って、手渡しながら女が答える。
「えっと、ここの公園から、駅の方にへ10分くらい歩いた所に、一軒コンビニがありますよ。私も、そのコンビニのポストへ、手紙を出しに行くんです」
考えている時の女の顔には、向日葵が強く出ている。テキパキと動ける人の様であった。
「そうなんですね、では、ご一緒させて頂きます。それにしても良かった。お声を掛けて頂け無かったら、僕は、このまま雨宿りをするしかありませんでした」
男の言葉のリズムが上がる。蝸牛が、「ゆっくりしなさい」と、例を上げながら壁を登って行く。雨は時間を作り出しながら、ニヤニヤ降り続く。
「いえいえ、そんな。困った時はお互い様ですから」
一瞬、雨音。
何かに照れながら、男は折り畳み傘を開いた。花柄の傘は、全体が白を基調としている。所々の淡い緑と黄色が、どことなく爽やかだった。
「それじゃあ、行きましょうか」
女が声を掛けた。灰色のカーディガンの背中が、雨粒越しに見える。
「あっ、はい」
男は少し慌てたが、慌てた事を気にする事は無かった。二人は、なるべくコンクリートの上を歩いて、道路へと向かう。青蛙が小脇で、「また、来いよ」と鳴いていた。雨土の匂いのラインが消えると、アスファルトの道路。車の通りの少ない、道幅の狭い道路だ。
「傘をお持ちなのに、折り畳み傘もお持ちなんですね」
男が女に会話を飛ばす。無言で進むよりも、良い時間を作ろうと、男は少しだけ必死だった。男の持つ傘が、くるりと一回転する。
「いつもの、仕事用のバックで来たから入ってたんです。手紙自体、昨日の仕事の後に出そうと思ってたんですが、忘れてしまって」
女は、ゆっくり昨日の事を思い出している。空いてる右手の人差し指が、上を差して横に揺れていた。女の癖の様だ。
「帰りに、付き合いで飲んじゃったので、駄目だったんですよね」
失敗を失敗と思っていない訳では無いのだが、誰もが一回、二回、失敗した事があるだろうという、免罪符が飛んだ。
「僕も、そういう事ありましたよ。結構、大切な時にやっちゃうんですよね」
男も、その免罪符を買う。スルメを水に浸して、3時間後くらいの明るさの声だ。赤い傘が、その声の横でくるくる回る。
「そうですよね」
相づちより何かが速い。
住宅街の狭い道を抜けると、片道二車線ほどの大きな道へ辿り着いた。男はタクシーで数回、通った事のある道なのだが、そんな事は忘れている。その道へ出ると、二人は左へと曲がった。男が、女の後に続いたという方が合っているだろう。
実際、右手にはいくつかの専門店があったのだが、二十代の彼等には、利便性の高い店だとの認識が少ない様だった。知らないフリを、二人共したかったのかもしれないが。
「あっ、そういえば」
二人の言語が重なる。二人の口から脳まで直結するラインが、雰囲気を推し量ろうとする。「どうせ」と「もしかしたら」を往復するリニアモーターカーは、何方を終着駅にするか決め兼ねていた。そもそも、決めて良いのか分からない。
一瞬から数秒、時が止まる。
「あっ、お先にどうぞ」
女が男へ、会話の糸口を渡す。嫌味無く考えれば、女性が男性を立てている姿に映るのだが、嫌味有りで考えれば、女性が男性の手綱を握ったとも考えられる。簡単に言えば、優しい口調の命令を、一番最初に、女性が男性に行ったという事だ。これは、一種の盲目の魔法かもしれなかった。尚且つ、男性が受けてしまう、初期魔法だろう。
「自己紹介しましょうか?」
男は提案する。今、出来るであろう、一番の微笑みを込めて言った。直近で色々あった事を考えれば、気になるくらい歪である。
それを女は汲み取っているのか。女は笑顔で頷く。「いい女」の部類に入るかもしれない。大分、変わってはいるだろう。
「えっと、そうですね。私は、赤石瞳です。二十歳のA型です」
当たり障りの無い情報で、男側の言う項目を導く。瞳は、「いい女」にプラスして、「頭のいい女」でもあるのだろう。
「僕は遠藤保。二十六歳のA型です。こんなお嬢さんに、手助け頂けるとは光栄です」
男性は、この年齢ぐらいから本格的に、とある呼称のジャンルに足を踏み入れる。シュールが、その内哀愁になって、完成する存在になってしまう。保も、例外では無かった。
「あははは、そうですかね。変な女だと、思われたんじゃ無いんですか」
軽やかに笑っているあたり、瞳は年上との付き合いが長いのだろう。父親の影響もあるのかもしれないなと、保は思った。いずれにしろ、固有名詞を使用しての最初のやり取りは、変にはならなかった。
「いや、優しいんだなと思ったよ。綺麗で優しいなんて、良いお嫁さんになるね」
三言目くらいから、人は本音を喋り出す。とある呼称の対象になる事は横に置いておくとして、保は本当に優しいと思っていたし、それを自分へ向けられた事が嬉しかった。他人にとっては、「ただ、それだけ」かもしれないが、保にとっては違う。心が少しだけ、蒸したジャガイモの様に、ホロホロしていく。それを嬉しく思えない程、保は汚れてはいない。
瞳は少し見上げながら、保を観察していた。猫の目の様な、烏の目の様な、大きめの黒眼が保の表情を絡め取っている。何が写っているのだろう。瞳の後ろ側は、まだ保には分からなかった。