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傘(3)

 別れの出来事を、世界の誰かも経験しているのだと、安っぽい感じで心底思える様になった頃、男は職を失った。 会社の中でも中の中。真ん中あたりで、高卒あがりで、それなりに必死に働いてきたが、一人身という事もあり、突然、希望退職を上司から迫られた。噂で聞いた、取り引きの失敗は本当だった様だ。


 一週間に一回、週の始まりに、上司からこっそり男は言われるのである。「申し訳ないが、希望退職してくれないか」と。このやり方は、ハラスメントに五月蝿い、社会の弊害かもしれなかった。

 男は、それに対してゆっくりと疲弊していった。やり方にでは無い。上司が、男より疲弊しているのが分かるからだった。


 上司は優しかった。何を一番に考えなくてはいけないか、分かっている人である。そんな、入社当初の印象は、一緒に働けば働くほど、看板みたいに確かな物になっていくのである。こんな人には、なかなか出会えない。こんな人が居るから、会社は廻るのだ言えた。その上司が疲弊しているのだ。男として思う所があるのが、今の状態に繋がっていた。


 ある昼休みの事だ。上司が、喫煙所で煙草を吸っているのを見た。一回、ちゃんと話をしようと思っていた男には、またと無いチャンスである。

 キュキューと喫煙所の扉が泣く。喫煙所の暗黙のルールが働いた。男は、喫煙所内の自販機でボトル缶コーヒーを二つ買うと、上司の横へ陣を張る。上司も男に気がついた。少し顔に変化が出る。


 男は上司に、いつもの様に声を掛けた。「お疲れ様です」という社交辞令から、ボトル缶コーヒーを勧める。「うん」という気まずい返事は、咳払いに変化した。「どうしたら良いのですか?」と男の逃げ場の無い質問が、早速、上司へ飛ぶ。「頑張ってはいるが」一言だけ答えた。


 男はなんとなく分かった。決定事項。会社の決定事項だ。「そうですか、あんまり無理をしないで下さい」男は力が無く言った。上司は「貯金は出来ているのか?」と静かに返した。父や母の様な質問に、男は少し驚く。すぐに「何か関係があるのですか?」と問い返した。「金があれば、すぐさま、困る事は無い。退職金も多めに出る様に、交渉出来る」上司は、息を荒くしながら、何処かに言っていた。何かを頑張っている様だった。

 ボトル缶コーヒーに力が入る。上司は「内の部署からは、君が選ばれた。途方に暮れる様な事にはしたく無い。辞めるなら辞める。辞めないならば、違う部署からもう一人切って貰う様にするだけだ」と吸った分だけの息を吐きながら、男に語る。それでは、その後の社内での上司の立場が危うくなるだろう、と男は思った。「頂くよ」上司がボトル缶コーヒーを開ける。カチ、カチ、ジリッ。ボトル缶コーヒーの蓋が、ゆっくり回る。男と会社との立ち位置の様だ。男もボトル缶コーヒーを開けた。カチ、カチ、ジリッ。ミラー効果。いや、無言の命令か。


 一口飲んだ後、上司は「決まったなら、早めに言いなさい」と言葉を続けた。真剣な目をしている。本当は、どちらの味方でも居たく無いのだろう。男は少しだけ、自分だけの世界に入る。結局、札が付いて廻るだけだ。面倒臭くなってきている。ここで、失くした方が良い。今、上司に最大限動いて貰う方が、得かもしれない。


 男は、何かを捨てた。後で分かる何かだけれど、今は要らない。ただ、逃げたかった「辞めたいと思います」ついつい、口から出た。「そうか・・・俺の立場とか、考えてるわけじゃないだろうな。もし、そうなら撤回しろ」言いながら、上司は少し怒っている。上司が、男を評価していたという事だろうか。分からないが、「違います」と男は言った。「そうか、なら、たんまり金を持って来てやる。後、辞めても俺の電話番号消すなよ。就職に困ったら掛けてこい。他社で人事の友達が居るから、話を通してやるよ」


 肩の荷が降りて、次の勝負に挑む顔をしている。切り替えの早さは、上司の強みだった。「アパートの件があるので、二ヶ月は待てますか?」と男は尋ねた。「大丈夫だ、認めさせる。会社としては、決まらない事の方が問題だからな。分かった」ボトル缶コーヒーを一気に飲み終えると、上司は喫煙所から出て行った。入り口にある専用のゴミ箱へ、ボトル缶を捨てる。カン、カン、ガシャ。男は、その姿を見ながら、ボトル缶の蓋を閉めた。昼休みが、そろそろ終わる時間だ。カン、カン、ガシャ。今日は、今日の事だけ考えようと男は努める。男の一歩目は昨日より軽かった。


 会社が終わると、男はアパートの管理会社に連絡をして、引き払う準備に掛かった。一ヶ月間で、大体の荷物を実家へと送り、部屋の中を簡素な状態にした。残り一ヶ月あるが、半分を有給消化する事にした。後、二週間程で、会社にも行かなくて良い。就職活動をしなくてはいけないが、一回、実家に引っ込む事も悪くは無いだろう。男は、そう思った。今は、懐かしい景色を見ていたいだけだった。


 二週間経ち、最後の日。男は、何も考え無い様にしていた。こちら側と向こう側の違いを、明確に認識したく無かったからだ。四時五十五分頃、男を晒すだけの儀式が、部署内で行われた。上司は居ない。ちょっとした花を貰った後、男の仕事は終わった。


 男は上司に挨拶してから、退社する事にした。最後としては当然だろう。会社は辞めても、社会人を辞めた訳では無い。

 社内を歩いて探していると、上司が更に上の人間と会話をしていた。「何かあれば、また頼む」肩に手を置かれた後、「わかりました」上司は一礼した。左手は、後ろで握り拳が作られている。


 振り返ると、上司は男に気づいた。バツの悪い所を見られたという顔をしている。「今日までだったな。お疲れ様」と、少し寂しそうな声だった。「お世話になりました」男は会釈して、帰ろうとすると「まだ、お世話するぞ」上司は笑顔で言った。この人の下で働きたいという感情が復活する前に、「ありがとうございます」と男は続ける。「それでは」と男は、今度こそ帰ろうとすると、背中で「またな」という上司の声を聞いた。振り返らなかった。それが、その場の礼儀の様な気が、男にはしたからだった。


 それから三日後、全ての荷物を実家へと移動する為、引っ越し業者にお願いした。季節もあるのか、割安である。そのまま、月末のアパート引渡しの立会いまで、実家で過ごす事に男はしたのだ。両親は何も言わなかった。何も言えなかったのかもしれない。男はのんびりしていた。何も考えずに。本当に、何も考えずに居た。


 アパートの引渡しの立会いの日の朝、男はそのまま一人旅行に行く事を両親に伝えた。両親共に、ここ数日の男の様子を見ていたからか、それは良い事だと納得して送り出した。


 男は、小さめのボストンバックを持って、今日まで借りていた部屋の前で待っていた。早く来すぎた様だった。

 暫くして、管理人が到着する。管理人と一緒に部屋の中を確認して回ると、鍵を返して、軽く会釈して別れた。お金は返ってくるらしい。部屋の中で、煙草を吸っていたのだが、この程度の汚れなら大丈夫だろうという判断だった。

 男は、周辺を歩く事にした。右に左に、左に右に。ぐるぐる廻った。自分自身が何処を歩いているのか分からなくなった頃、雨が降り出す。男は傘など持っていない。身体が冷える。雨の中、住宅街を歩いていると、右前方に公園を見つけた。用を足したいという気配もある。


 それで、今に至っていた。ジャングルジムと記憶が、行ったり来たりする。目の前の色が、今は、脱色して見えているのかもしれなかった。













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