傘(1)
天つ風の空間に、おちておちておちて、キラキラ回る風車が男の背中を通り過ぎる。振り出しに戻るとは簡単に言う事が出来ない程に、男の顔は疲弊しきっていた。
雨が降る。男の肩に振り落ちる。
そんな事が、男には少し嬉しい。待ちに待った花の蕾が開く様な在り来たりな表現が、今の男の心情にはよく似合っている。
新たなスタートを切る事、何かを失くしても雨のあたる存在だと言える事、漸く漸く、それを思えた事を考えれば、これ以外の心の動きは無い。
男は、とある公園の前で立ち止まると、用を足す為に設置されているトイレへと歩いて行った。ドブネズミの城下町みたいな中は、小便をするには丁度良い。
三センチメートル開いた窓から、ひょーひょーと風が入る。男はチャックを上げると、洗面台へ向かい手を洗った。薄汚い魔法の鏡には、男の顔が映っている。苦笑いしながらも、男は萎びたハンカチで手を拭く。一緒に溜息も吹くと、トイレの入り口で外を眺めた。長く降り続くであろう灰黒い雲からの雨は、遠くの方で記念写真の撮影もしている。
「ここで、暫く雨宿りか」
男は独り言を呟くと、自らの中心まで、その独り言を納得し始めているのが分かった。
それはいけない事なのだが、きっと、いけない事なのだが、男にはそれを判断する余裕が現れなかった。目の前にあるジャングルジムを、ただひたすら眺めている。トイレの壁には、蛞蝓と蝸牛が運動会を始めていた。
5分、10分、経っただろうか。
不意に、右の視界に赤がちらついた。傘だと気づくのに、男は3秒ほどかかる。それくらい無心で、ジャングルジムを眺めていたのだ。
ファサファサと傘を振ると、雫が周辺の草木に挨拶していく。
肩までだろうか。黒髪の女が、一瞬、男の方を見ると、傘を持ってトイレの中へと入って行った。男は、音のある方を少しだけ気にしていたが、また、ジャングルジムの方へ視線を移す。光が出迎えると、遠くの方で音を響かせている。
普通ならば、雨宿りという理由、つまり大義名分があろうと、公園のトイレでそれを行なっている人は少ないから、変には思われなかったかと気を巡らせる物だし、人によっては移動する事であろう。男には、そうした心理的余裕が今は無い。
雨の所為だ。男に落ちた雨の所為だ。
薄汚れて、爛れていた心の一部分は、足伝いに下水溝へ帰って行く。二度と埋まる事は無いかもしれない。
さっきの大丈夫の感情は、いつの大丈夫の感情だったのだろう。
男は世界で一番動かないで居た。先に行く理由よりも、後に居る理由を考えている。鏡の世界であったなら、今頃、コーヒーを飲んでいたはずだ。
息を吸わなければならない様な感覚が、男を唯一動かす。
吸う、吐く。吸う、吐く。
呼吸音が、映写機の様に思い出を繰り返す。急にゴロゴロと、人生に欲しくは無い事が男には起こった。普通で居る事の隙間にあった、貧乏クジを引いたのである。