労働賛歌
霜柱を踏みつける快活な音で、本格的な冬の訪れに気付かされた。
その日、朝刊を配達するバイクの停車音よりも早く目覚めた僕は、取り去った毛布もそのままに起き抜けのまどろみを顔と一緒に洗い流した。
パシャリパシャリと水をはじくたびに覚醒していく身体と、強く閉じた瞼の二つ付いた頭部、それらが分離しているように気さえして、鏡越しの男の表情は数か月前とは比べ物にならないほど険しい。
昨夜使って洗面台に置きっぱなしの少し湿ったタオルで顔を拭い、冷え切った両の手でみずからの頬を挟みあげると、ほんのりと体温が指先へと伝わった。
台所のよく冷めたテラコッタタイルの床から素足に容赦なく突き刺さる低温。
電気をつけて、食卓の上に出しっぱなしの牛乳と真っ赤なスープ鍋を認めるも、この季節だから腐る心配はないだろうという思い込みに安堵する。
椅子にかけられた褞袍をはおり、裏口から外にでると、室内と室外の温度差がさほどないことに驚いた。空風が乾燥した肌に吹きつけて、金木犀の懐かしいにおいが鼻腔をみたしていく。
暗闇に交ざる雪は、その存在さえも隠して、ただ降り続き生涯を終える。
テラスに添えられたウッドベンチに腰かけて、暗闇の中賑わう星と、携帯の煌々とした画面を交互に眺める。星を見上げることに娯楽性を見出したころの人間と、指先で動かす世界に愉楽を覚え続ける人間のどちらのほうが幸せなのだろうか、という途方もない疑問に酔いしれて、背中を這うような寒気に目を覚ます。
それからは、ただただ来るべき時を待ち続けて空を見上げていた。
どこか遠くで犬が淫らに泣きわめいて、それに呼応したカラスの泣き声がよく透き通る空気に、根拠のない科学的用語をぶつけて反芻する。そのときひとすじの光が空を流れた。
「あっ。」
不随意に出た声は、かすれてすぐさま沈んだが、ひとつ、またひとつと星が落ちてゆく。
緩慢で素早く流れる一種の矛盾性を含んだその星々に、祈りきらない願いをおもいっきりぶつけてやろうとしたが、それすら忘れてしまいそうなほど、星は次から次へと流れ続ける。
向かいの家の玄関灯がぼんやりとして、気づけばその家に住む家族も空を見上げていた。
普段は騒がしい子供達も、言葉をなくしてその様子に見入っている。それともただ、眠っているだけなのかもしれない。朝刊を届けるバイクがやってきたころ、空が見せる壮大なショーは幕を閉じた。
畑の霜柱をザクザクとさせながら、植えられた柚子の木に向かい、たくさん実ったうちのひとつを、ぼちっとちぎって鼻につけると冬の匂いがした。
このような小さな出来事に幸福を見出すことができるのなら、それだけで人は幸せだ。