君と花を賭けて
「藤崎! お前のせいで全員に笑われたぞ!」
教室の戸を勢いよく開ける。休み時間の教室は後方でプロレスに興じたり、恋愛話に花を咲かせたり、窓から身を乗り出し、手を振ったりする生徒で賑わっていた。
呼ばれた本人は、窓側の、前から二番目にある自分の席で、友人と一枚の紙を見つめていた。声は聞こえただろうに、こちらを振り向く様子もない。俺は床を踏み鳴らしながら、黒い髪を風に揺らす彼女に近づいた。
「藤崎! お前が言うからやったんだぞ! せめて見るぐらいしろよ」
そばに立っても、俺の顔を見ようともしない。その視線は相変わらず紙に注がれている。隣の杉尾さんは俺の顔をちらりと見たが、興味もなさそうにまた紙へと視線を戻した。
「ほんとにやったんだ。で、反応は?」
「反応って……、いきなり先輩に花渡されて、反応も何もあったもんじゃないだろ」
「えーっ、松田君、後輩に花なんて渡したの?」
俺の言葉に驚いたのか、勢いよく問いかける杉尾さん。
肩につかないショートヘアは、窓からの光に当てられ、茶色く見える。返事にためらっていると、その髪を揺らしながら、標的を変えた。
「ねえ、藤ちゃん、松田君に何をさせたの? 誰に渡したの? 面白いことするなら私に言ってよー」
「別に面白くないから。圭太が馬鹿やっただけ」
「馬鹿じゃねえ。俺はお前が言うから、あの女子に……」
杉尾さんはさらに目を輝かせる。まるで獲物を捉える猫のように、いまにも身をかがめ、尻を震わせ、飛びかかってきそうだ。その口に、きらりと光る牙を見た気がした。
「女子? 女子に花あげたの? なんで? なんでそんな展開に?」
助けを求めるために藤崎を見ても、依然として顔を動かすことはない。目だけを左右に動かしている。
どうやら杉尾さんの対応は俺に任せるつもりらしい。仲がいいのか悪いのか、友人の弾丸攻撃はいつもかわしているようだ。しょうがなく俺はその経緯を話すこととした。
「昨日、藤崎に賭けで負けたんだよ。入学した新入生に髪を染めた奴がいるかどうかって賭けで」
「へー、しょうもないね」
「だよな。でもふつー入学したてはみんな黒髪のはずだろ? だけど賭けは俺の負け。一年三組に異常に髪色の明るい女子がいて」
「それで、それで?」
杉尾さんは小さい身体を精一杯乗り出して聞いてくる。
視界の端で何かが大きく動いた。窓の外で背の高い男子が手を振り返している。スリッパの色は青色。どうやら一年生らしい。この学級に知り合いでもいるのだろう。
「負けた罰として女子に花をあげろって言われて」
「あげたの?」
「ああ、玄関に生けてある花を盗んで、そいつにな」
「馬っ鹿じゃないの?」
荒っぽい、可愛げのない声が飛ぶ。
ようやく関心を向けたと思ったら、罵りの言葉。さすがに我慢の限界とばかりに、その顔を睨みつけると、いつもと違う表情がそこにはあった。吊り上がった黒い瞳はさらに吊り上がり、頬も薄く上気しているのに、唇は妙に歪んでいる。
「藤崎、どうしたんだ」
「別に、何でもない」
否定の言葉に見えない感情が滲む。
昔は読みやすい奴だった。鬼ごっこしたければ俺の手を叩いてきたし、恥ずかしいときには服の裾をぎゅうと握り締めていた。あの単純で素直な藤崎はどこにいったのか。
「だいたいお前が言うからやったん……」
胸に鋭い衝撃が走る。
藤崎は俺の脇をすり抜けると、黒板の文字を消し始めた。そういえば今日は、藤崎が日直の一人だった気がする。黒板には、前の授業に書かれた文字がそのまま残っていた。
「おい、別に殴らなくても……」
気が付くと何かが足下に落ちていた。さっきから眺めていた紙のようだ。しかも、便箋。よく分からない言葉が書かれている。俺は不思議に思いながらも、その紙を拾い上げた。
「これ、何だよ」
藤崎は黒板消しを置いて、しばらく動きを止めた。肩は少し上がり、視線は足下へと落ちている。
「……っ、間違いだったの! あの子は地毛が元々明るい色らしくて、だからっ」
鋭い、そして必死な言葉だった。
そして、俺はやっと気付いた。藤崎の罰、そしてこの行為の意味を。
俺は確かに昨日こう言ったんだ。
「じゃあ、もしお前が負けたら、好きな奴に告白できんのか」
「いいわよ。その代わり、圭太が負けたら私の言うこと聞いてよね」
「よし、絶対だぞ」
「え、これって藤ちゃんがもらったラブレターじゃなかったの?」
杉尾さんの弾丸が藤崎を打つ。しかし、もうダメージを受けることはない。
ふたりとももう真っ赤に染まっていたのだ。
「これって、なんて読むんだよ。日本語じゃねえだろ」
「辞書くらい使いなさいよ、馬鹿なんだから」
藤崎の言葉と同時にチャイムが鳴る。
その姿を見て、思い出した。今も昔も変わらない、その仕草。
「だいたい何語なんだよ……」
辞書を引くこと、そしてもう一度花を盗むこと。今日はやることがまだまだたくさんあるようだ。