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レースのカーテン越しの柔らかな光の中で、俺は目を覚ました。
真っ先に目に飛び込んできたのは、がっちりした木で組まれた天井。壁も、窓枠も、ベッドまでもが同じように木だけでできている。俺の住む安アパートも木造建築を謳っているが、ここまで全てが木製というわけではなかった。数年前に滞在した避暑地のロッジが、ちょうどこんな感じだったか。
しかし、ここはどこだ? 俺の記憶にある、どの部屋の様子とも一致しない。酔っ払って、どこか飲み屋の女の部屋にでも転がり込んだのか? ……いや、それはないはずだ。確か昨日は――昨日!? そうだ! 俺は昨日、銀行を襲ったんだ!
その日の出来事をあらかた思い出し、跳ねるように半身を起こした。直後、
「「キャッ!」」
女の声だ。そう思い、声のしたほうに顔を向けると――そこには、女神がいた。人間などであろうはずがない。こんな……こんな可愛らしいものが俺と同じ人間のわけがあるか!
しばらく俺は、息をするのも忘れて目の前の女神に見入っていた。まるで、それ自体が光を放つかのような艶やかなプラチナブロンド。そして、出来の良いアンティークドールを思わせる、人間とは思えないほど整った顔立ち。そこには透き通るアクアマリンの瞳が、寸分の狂いもなくはめ込まれていた。
目にした瞬間、子供なのかとも思ったが、そうではないらしい。平均と比べて一回りほど小柄なせいでそう感じただけだろう。その瞳に宿る光は完全に大人のそれだ。俺は決してロリコンでは――。
「ちょっと、起きるなら起きるって言ってよね! びっくりするじゃないの!」
女神の手前にいる女がそう声を上げた。外見はよく似ている――と言うか瓜二つだが、これは女神ではない。おそらく双子の姉妹かなにかだろう。言わば、まがい物だ。
本物はというと、まがい物の背中に隠れて顔だけをのぞかせている。そして、銀色の杖のようなものをしきりに伸ばして、俺の肩あたりをつついていた。俺を怖がっているのか? ハの字に下がった薄めの眉と、小刻みに震える杖の先端からその感情が伝わってくる。
その瞬間、俺の心の内に二つの衝動が湧き上がってきた。触れれば折れそうな体を抱きしめて滅茶苦茶にしてやりたい欲望と、震える体を抱きよせて何者からも守ってやりたい願望。俺は、二つの相反する思いの間で板挟みになり、再び動けなくなった。
「あんた、そんな怖い顔して妹を睨まないでよ! 人一倍、怖がりなんだから!」
睨む? そんなつもりはないのだが――だが、そう勘ぐられるのも無理はないか。俺は自分が強面であることを知っている。この左頬に走る傷跡のせいもあるのだろう。ヤクザだった頃は便利な顔だと思ったものだがな。今の状況では不便なことこの上ない。
だが嘆いても仕方のないことだ。俺は顔中の筋肉を強く意識して、精一杯の笑顔を作った。そして軽く咳払いをし、実家で可愛がっていた猫に語りかける要領で声を出した。
「うるせえぞ、おめえら! 四の五の言ってねえで、まずは状況を説明しやがれ!」
「ひいっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「……うう……」
急に謝罪を始めたのは姉だ。女神はその後ろに完全に隠れ、めそめそと泣いている。
こういった反応を返されるのは、ままあることだ。まあ、放っておいても話しているうちに慣れてくるだろう。だが、姉はともかく女神のほうは慰めておくべきか。美しい顔が、いつまでも涙に濡れているのは見るに忍びない。
「おい、後ろのやつ! めそめそ泣いてんじゃねえ、鬱陶しいぞ!」
「ふ!?……ふぇーん……」
「ちょっ、あんた! あ、メフィ、大丈夫よ、絶対にあたしが守ってあげるから、だから泣かないで……」
……まあいい。姉が慰めているようなので、それに任せておこう……。
そうして女神が泣き止んだ頃、姉のほうが僅かに警戒心を緩めて俺に話しかけてきた。
「妹が泣き止むのを待っていてくれたのかしら。ふうん、見た目ほど悪い人というわけではなさそうね。じゃあ、とりあえず自己紹介。あたしはネティ、この子は妹のメフィ。本当はもっと長い名前なんだけど、言いにくいから略して、ね。二人して女神様なんてやってるわ。あんたは?」
なに? 女神様……だと? おまえは違うだろうが! と怒鳴りつけたいのをこらえて、ネティとやらの問いかけに答えた。
「武田剛忠だ」
「ふうん、いい名前ね。タケタケ・ダダダ」
「タケダ・タケタダだ。タケタダでいい。で、年は四十五」
「四十五? へえ、あたしたちとタメね。お仕事は?」
――タメ? 同い年ということか? ……まあ、冗談だろう。下らねえ。
「仕事はしていない。説明しろ、なにがどうなっていやがる」
刑務所から出てきたのが一ヶ月前。知り合いの伝手でなんとか住居は確保したものの、仕事までは見つからなかった。それで食うに困って銀行を襲ったというのが昨日のことだ。そして、警察に追われるうちに大型トラックに跳ねられ、俺は――死んだと思ったのだがな。
ふと、ベッドが血で汚れているのが目に映る。たぶんこれは俺が流したものだろう。だが、現状では頬以外に傷らしきものはない。つまり、重傷を負った俺はここに運び込まれ、なんらかの治療を受けてすでに完治している、ということか?
いや、いくらなんでも回復が早すぎる。それとも、俺が昨日のことだと錯覚しているだけで、実際には寝ているうちに何日も過ぎてしまっているのか?
そんなふうに考え込んでいると、ネティの陰に隠れたまま女神が口を開いた。
「お……おねえがあなたをこちらの世界に連れてきて、私が怪我を治しました。放置していれば、間違いなく命を落としていたところですよ? 是非もなく感謝してください」
ともすれば聞き漏らしかねない囁くように小さな声だが、クラシックの名曲のように、耳にするだけで心が安らいでいく。ああ、なんて素晴らしい声なんだ。
「ああ、感謝するに決まってんだろうが!」
「「ひいっ!」」
そうして感謝の言葉を述べたあと、俺は抱き合って震える二人に説明の続きを促した。
「さっさと続きを話せよ。わかんねえことが、まだ山ほどあるんだ。いいか、わかりやすく、簡単に説明しろよ!」
「わかった! わかったから、大きな声出さないで! んじゃあ、えっとー……最初から言うわね? あたしとメフィには共通の趣味があってね、それがなにかというと人助けなの。具体的には異世界――あんたたちの世界で色々と行き詰まって、生き辛くなっちゃった人に、こっちの世界で新しい人生を歩んでもらおうってこと。そんでね、そんな人を探してるときに、死にかけてるあんたを見つけたわけよ。医者は間に合いそうもなかったし、見過ごすのも可哀想だし。それで、やむなくここに運んで魔法で治療したってわけ。わかった?」
「ああ? そんな突拍子のない話を、その言葉だけで信じろって言うのかよ」
異世界? 魔法? いきなりそんなこと言われても信じられるかよ。威嚇する猿のような声でキーキー喚きやがって。
「信じられないなら、窓から外の景色でも眺めてみたら? これまでに、ここに連れてきた人たちは、みんなそれで納得してくれたわよ?」
ネティの自信ありげな態度がやたら鼻につく。が、軽く睨みつけるに留めて、俺はベッドから足を下ろした。そして、部屋に唯一ある窓のほうへと近づいていく。
……なんだ? レースのカーテン越しに、巨大な何かが見えている。この向こうにちょっとした山でもあるのだろうか? そう考えつつ、カーテンをめくると、
「――なっ! なんだあれは!」
「見てわかんないの? お城よ。この国の王様が住んでるところ」
いや、それはわかる。何年か前、テーマパークにいったとき見たからな。そのときのものと形はそれほど違わないのだが、
「ちょっとこれ、デカすぎだろうが!」
女神の家は小高い丘の上にあるらしく、この窓からは町を一望することができた。背の低い建物が雑然と並んだ、橙色の平べったい町並み。その中程に、突如として巨大な城が、まるで鉛色の岩山のごとくそびえ立っていた。
「……おい、この町の人口は、何人いる」
「さあ、百万人くらいかしら?」
それだけ人間がいる町の、およそ五分の一が城の敷地だ。建物自体もそれなりの大きさがある。小人の町に巨人が城を建てれば、ちょうどこんな感じになるだろうか。
そんなことを考えながら、俺はここが自分の生まれた世界とは違うのだということを、はっきりと肌で感じ取っていた。
「……ふん、まあいい。とりあえずは、そういうことにしておいてやる。で?」
「……で? って?」
「これまでの次は、これからに決まってんだろうが!」
「ひいっ! すいませんすいませんすいません……」
「ふぇーん……」
俺は、頭を抱えてしゃがみ込んでいる二人に話を続けた。
「で、俺はどうすればいいんだ。こっちの世界で人生やり直さねえといけねえのか、それとも魔法とやらでもとの世界に送り返してくれんのか。どっちなんだ」
「どっ、どっちでも! 好きなようにして! 帰りたいなら送り返すし、こっちで暮らすならある程度はサポートするし!」
「……ふぇーん……」
「ああんもうメフィ、泣き止んでよう。ほら、とっておきのアメちゃんあげるから、ね?」
「ん……」
なるほど、俺次第ってことか。さて、どうするかな。
家族でもいれば、あれこれいうまでもなく、もとの世界を選ぶんだろうが、あいにく俺は天涯孤独の身だ。両親の顔は一度も見たことがねえし、兄弟の存在も不明。結婚もしてねえから女房も子供もいねえ。それに帰っても仕事はねえし――まてよ? それ以前に俺、銀行強盗しちまったんだった。帰ったら警察に捕まるじゃねえか。てことは、選択肢はなしか。
「そのサポートってのはなんだ。具体的な内容を聞かせてくれ」
「特に決まってないわ。なにか困ったことがあったら、都度あたしたちにできる範囲でなんとかしてあげるってこと」
つまり……その度に、俺の女神に会えるってことか。悪い話じゃねえな。
「それで頼む。とりあえず、住むところが欲しい。あと、当座の生活費と、できれば仕事もだ。それから、ざっとでいいからこの世界について教えてくれ」
「わかったわ。でも、その……あのね? えっとー、つまりぃ、なんて言うかぁ……」
なんだ? 急にしおらしくクネクネして、上目づかいなんかしやがって。
「なんなんだ! 言いたいことがあるなら、はっきり言いやがれ!」
「はっ、はいっ! すいません! サポートするからお礼にコレください!」
ネティは勢いよく答えて、足下にあったジュラルミンケースを指でさした。
あれは、俺のだ。中には銀行から奪った現金がぎっしり詰まっている。とはいっても、あっちの世界の金だからな。今の俺にとってはなんの価値もないものだ。たまにでも俺の女神に会えるのなら、そのために手放しても惜しいとは思わない。
「ああ、欲しいならやるよ」
「本当に!? よっしゃ、もうあたしのだからね! 返せって言ってもダメだからね!」
おいおい、大はしゃぎだな。鍵は掛けてねえから中身がなにかは知ってんだろうが、
「一応言っとくが、異世界の金だぞ? そんなもん、いったいなんに使うんだ?」
「えっ、なんに使うかって? ……もう、エッチ!」
エッチ……だと? なに言ってんだ、こいつ。わけがわからねえな。
「コレの使い道は教えてあげないけど、他のは全部なんとかなるわ。まずは住むところから。あとで不動産屋さんに書いた手紙をあげる。そこまでの地図も渡すから持って行って。生活費は一週間分くらいでいいわよね? あとで渡すわ。仕事は……とりあえず冒険者ギルドで適当にクエストこなしてれば? そこそこお金になるわ」
ネティはそこで言葉を切り、無心にアメ玉を転がす俺の女神の頭をなでた。つられて俺も手を伸ばしたが、ネティに思い切り叩かれた。
「あとは、この世界の説明ね? ここは、ガルディスという国の王都ガルディスよ。で、今は初代国王アルバート一世が建国してから五百二十四年の四月二十日。時刻は午後の二時ごろよ。暦や時間については、タケタダの世界と酷似しているらしいわ。それから――」
「ああ、待て。そういうのじゃなくてだな、もっと基本的なことが知りたいんだ。例えば……ここはファンタジーの世界なのか、とか」
「ファンタジー? ……そうね、たぶんファンタジーであってるわよ。タケタダの世界からきた人が、よく言ってるもの。この世界はファンタジーだって」
やはりそうか。まあ、魔法とか言ってたしな。それに舎弟のケンジから、今の状況とよく似た話を聞いたことがある。てっきり作り話だと思っていたが、まさか俺が実際に体験することになるとはな。
それから俺はネティに何度か質問を重ね、この町でどうにか生きていけそうなくらいには知識を得た。そして、常識的な面においては、二つの世界が意外と似通っていることに少し安心した。そう言えば、今更なことなのだが、
「言葉はどうなっている。なんで俺はおまえらと会話できてんだ?」
「魔法で書き換えたの。脳の一部の情報を。タケタダの。……テヘッ!」
「……てことは俺もう日本語しゃべれねえのかよ! じゃあ、どっちみち向こうには帰れねえってことだろうが!」
「だ、大丈夫よ、大丈夫! バックアップは取っておいたから、いざとなったらすぐに戻せるわ。なんならほかの言語を入れ直すこともできるわよ? エイ語とか、フランス語、ドイツ語、ラテン語、タガログ語――ね? 色々あるわよ?」
いや、これから向こうで暮らそうってんならいざ知らず、こっちの世界で英語がペラペラになっても意味がねえだろうが。
「……し、仕方ないじゃない。こっちに連れてこなきゃ治療できなかったし、連れてきたらこっちの言葉を話せないと不便だし。だから、そんな怖い顔して怒らないでよう……」
クソッ、腹立たしいが、そうしなければ俺は死んでいたというのは嘘じゃないみたいだからな。……仕方がねえのか。
「べつに怒っちゃいねえよ。こんな顔してんのは生まれつきだから気にすんな。それより早いとこ出発したい、準備を進めてくれ」
俺の女神と離れるのは心苦しい限りだが、一刻も早く自分の居場所がほしい。サバイバルでもシェルターの確保は最優先事項だと言うからな。
「準備はできてるわよ。はいこれ、不動産屋さんへの手紙と地図とお金。だいたい金貨が一万エン、銀貨が千エン、銅貨が百エンなんだって。金貨五枚もあれば足りるでしょう? それから冒険者ギルドまでの地図もね。あと、この水晶玉はタケタダの世界で言うところのテレビデンワよ。それに向かって声をかければ、あたしたちのどっちかに繋がるわ」
おいおい、やたら早いな。いつの間に準備したんだ? ……まあ、趣味だって言ってたからな。こういうことはよくあるのだろう。要求されそうなものを、前もって用意しておいたのかもしれない。
それから、それらを持ち運ぶためのずだ袋と、綿のような素材の服一式を渡された。早速その場で着替えようとしたら、ネティが物凄い剣幕で怒り出したので廊下で着替えた。上下とも色はベージュ。襟の付いた簡素なデザインだ。
そのあとで、さっきの水晶玉について気になっていたことを質問してみた。
「どっちを呼び出すかは選べねえのか?」
「最初に名前を呼べば選べるけど……ねえ、どっちを選ぶつもり?」
「もちろん、おまえじゃあない」
「――返して! 返してよ!」
高く掲げた水晶玉に手を伸ばし、しきりに飛び跳ねるネティ。
ふん、こんな便利なもの誰が返すかよ。
それから少しして、やっと水晶玉を諦めたネティと、ようやく口の中からアメ玉が消えた女神に付き添われ、玄関へ移動した。扉を開き、表に出る。
途端、春を思わせるほのぼのした光と、秋口に吹くような爽やかな風に包まれた。あたりに漂っているのは、どこか懐かしい草と土の匂い。東京とはまるで違った空気を吸い込むと、次第に気分が高揚していくのが感じられた。
首を巡らせ、ぐるりとあたりを見回す。想像に違わず、避暑地の別荘にありがちなロッジのような家屋。俺の倍くらいの高さに掲げられた、大きな木の看板。家を囲むように数本の樹木が立っているが、庭の範囲を表す明確な境界はないようだ。緑の絨毯のような草原を見渡すも、近くに他の建物は見当たらない。
そして、目の前から延びる薄茶色の道は、ひたすら真っ直ぐに町のほうへと続いていた。
「じゃあ、なにかあったら気軽に連絡してね。なるべく力になったげるから」
「タ! ……タケタダ、これ……」
め、女神が初めて俺の名を呼んだ!
そしておずおずと、なにやら棒状のものを俺のほうに差し出す。これは――剣? 黒い鞘に収まった飾り気のない長剣だ。そうか、ファンタジーの世界なら、こういったものも必要になるんだな。そう思いつつ女神から剣を受け取った。
「ちょっとメフィ、いいの? あんな強烈なの渡しちゃって」
「大丈夫、問題ないわ。――キシシッ!」
な、なんだ!? いま黒板を引っかいたような音がしたぞ!? ……いや、きっと空耳だ。まさか女神が、あんな不快な音を立てるはずがない。今日は色々とあったから、精神的に疲れているのかもしれないな。
「この道をまっすぐ行けば町だから。頑張ってよね、第二の人生」
「頑張って」
和やかな笑みを浮かべ、玄関先で手を振る二人。初めて見たときは全く同じ顔だと思っていたが、今でははっきりと見分けがつく。
「おう、なんやかんや世話になった。じゃあな」
心持ち素っ気ない別れの言葉を交わし、俺は目の前の一本道を歩み始めた。
そうして三歩目を踏みだしたとき、背後でドアを開け閉めする音が聞こえた。とっさに振り返ると、すでに二人の姿はなかった。……まあいいさ。
ふと、看板に書かれた文字が目に映った。
『双子のエルフの雑貨店』
――ん? なんでエルフなんだ? ……まあいい、今度きたときにでも聞いてみよう。
俺は前を向き、今度は真っ当な人生を送れるよう願いつつ、歩を進めた。