第29話、書き初めてサヨナラ
★第29話、書き初めてサヨナラ
――ぐぅ……すぅ……ぴぃ……
河鹿薫子が緊急入院して緊急の大手術をした元旦から日は瞬く間に過ぎ去り、今日は2月3日の節分の日だったりする。
「ほら、秋ちゃん!」
「むにゃ、むにゃ……うん……」
「こら、秋ちゃん! 早く起きなさい!」
「母さん、まだ眠いよぉ……」
「いいから、ほら! 早く起きなさいってば!」
「母さん、許して……昨日の土曜日は夜半まで創作活動してたんだし……日曜日の朝っぱらは寝坊させてよぉ……」
「あら、やだ。秋ちゃんったら……今日は薫子ちゃんが退院して我が家に来てくれる日なのを忘れたの?」
そう、手術後の経過も良好で、今日は河鹿薫子が退院する日だったりする。
「どわっ!! 忘れてた!!」
「秋ちゃん、ほら……早く顔を洗って歯を磨きなさいな。薫子ちゃんを迎えに行けないじゃないの」
「うん、母さん、分かったよ! ボク、大急ぎで支度するし! 早くおるこちゃんを抱きしめてあげたいし!」
ボクは寝ていた布団から飛び起きると、ニッチもサッチも、一目散に洗面所へ走りだした。
「っていうか、おわぁー!! ドンガラガッタ!!」
――気がつけば、あまりにもお決まり過ぎる擬音を響かせてるボクみたいな……
「しかも、お決まりよろしく、ボクは洗面所の壁に激突しつつ……」
その衝撃を受けて天井近くにある棚から降ってきた真っ赤な樹脂製のバケツを頭にスッポリ被ってしまっていた。
「あら、まあ……秋ちゃんったら、それは何の芸なの?」
「芸じゃないし! ボクはお笑い芸人じゃないんだし!」
「母さんは、とりあえず、薫子ちゃんに見せるために写メでも撮っておこうかしらね」
「だあー!! 真っ赤なバケツ頭から被った、こんな恥ずかしい姿とか、おるこちゃんに見せちゃイヤだし!!」
「まあ、たまにはイイんじゃないかしら?」
「何がイイんだかワカンナイし!」
「たまには秋ちゃんらしい間抜けな姿を見せてあげないと……」
「マヌケとかヒドイし!」
「たまには秋ちゃんも貢献しないと……」
「ああ、もう!! どんな貢献なんだか訳ワカンナイし!!」
――なんて、我が家にありがちなドタバタ劇を披露している最中に……
意図せず、不意に、我が家の呼び鈴が、
『ピンポォーン、ピンポォーン、ピンポォーん』
と、母と子の会話を切り裂くように鳴り響いたのだった。
「あら? まだ朝の7時半過ぎで、まだ8時前よ。こんなに朝早くから呼び鈴3回も……誰かしら?」
――ボクの母さん、独り言のように呟きつつ……
ボクが頭からスッポリと被っているバケツを取り除くと、間近にある洗濯機の上に仮置きした。
そして、ボクの母さんは洗面所から玄関へ行ってしまったのだった。
「あたしの新しいお母様!! いやん!! 奈菜子お母様、大好きぃー!!」
「えぇー!? 我が家の玄関でおるこちゃんが歓喜に満ちた叫び声を上げてるみたいな?」
――おるこちゃんが入院してた病院からウチまでさ、テクテク歩いたら小一時間かかるのに? まさか、歩いて来ちゃったとか?
ニッチもサッチも、ボクは大急ぎで洗面所から玄関へと走った。
――あ、そうそう、ボクの母さんのフルネームは浅間奈菜子なんだよ……
「なんて、楽屋ばなしかましてる場合じゃない……っていうか、うわ!! うわ!! どわぁー!!」
「いやん!! あたしの新しいお兄ちゃん!! 秋ちゃんお兄ちゃん!! あたしの彼氏お兄ちゃん!!」
「どっひゃぁー!! おるこちゃんから飛びつくように抱きつかれちゃったし!!」
そう、我が家の呼び鈴を鳴らしていたのは河鹿薫子なのだった。
――てか、あれ? おるこちゃん手ぶらだし。入院してた時の荷物、病室に置きっ放しとか?
「母さんの大切な薫子ちゃん、浅間家にようこそ」
「お母様!! あたしの新しいお母さん!! あたし、奈菜子お母様の娘になれて嬉しいぃー!!」
河鹿薫子、抱きつくボクから離れたと思うや否や、今度はボクの母さんに抱きついている。
――入院してた病室にあった荷物たち、おるこちゃん、宅配便か何かで送ったのかな? って、そんな話、今はイっかぁ……
「あのさ、おるこちゃん? とりあえず我が家に入ったら?」
「うん!! 彼氏お兄ちゃん!! あたし、あたしの新しい我が家に入るもん!!」
河鹿薫子、靴を脱ぎ散らかし、嬉しそうにドタバタと我が家の居間へ走って行ってしまった。
――っていうか、おるこちゃんが言ってる『彼氏お兄ちゃん』って何なんだ?
「それにさ、『新しいお母さん』とか宣ってるし……」
――はたまた、『新しい我が家』とか……ハテナ? おるこちゃんが言ってること、ボクは一つも解らないんだけど……
「秋ちゃん!! あたしのお兄ちゃん彼氏秋ちゃん!! あたし、書き初めするから!!」
「は? 退院して開口一番にさ、何で習字の書き初め? しかもさ、書き初めはイイけど、今日は節分だよ。お正月は先月なんだけど?」
なんて疑問符だらけなボクをよそに、ボクの母さんはお習字セットをセッセと河鹿薫子の前に並べ立てている。
――すずりとか、墨汁とか、太筆とか細筆とか、書き初め用の縦長な半紙とか……
居間にある炬燵のテーブルの上にズラリと並べ立てられたお習字セットだった。
「薫子、書きまぁーす!!」
河鹿薫子は満面の笑みを振り撒きつつ、彼女は太筆を右手で握ると、
「浅 間 薫 子」
と、大きくて力強い毛筆の文字を書いたのだった。
――は? 浅間薫子? おるこちゃん、何を書き初めしてんの?
そして、河鹿薫子は立て続けに、
「サヨナラ河鹿薫子」
と、二枚目の半紙に大きく書き綴ったのだった。
――え? サヨナラ河鹿薫子? ますます意味ワカンナイし……
「じゃぁーん! 秋ちゃん、見て見て!」
河鹿薫子、書き初め用の長い半紙を持つと立ち上がり、彼女は嬉しさに満ち満ちた笑顔で、その長い半紙をボクに見せ始めた。
「ほら、あたしの新しい名前! うふ、えへ、あはは」
――おるこちゃんの新しい名前? はてな?
「えっと、えっと……おるこちゃん? 浅間薫子って?」
「秋ちゃん、だから、あたしの新しい名前なのよ。うふふ」
――うふふって、おるこちゃん……全然意味ワカンナイし……
思わずボクは母さんの顔を見てしまっていた。
――だってさ、おるこちゃんから説明してもらうよりさ……
「母さんから説明してもらう方が百倍早い気がしてきちゃったからさ」
「薫子ちゃん、上手に書き初めできたわね」
「えへへ、奈菜子お母様」
母さんと河鹿薫子、二人して、何だか照れくさそうに笑顔を交わしながら見つめ合っている。
「うわぁ……母さんはボクからのアイコンタクトをシッカリ見たくせに……
――アイコンタクトの意味、シッカリ解ってるくせに……
「ああ、もう! 母さん! 説明そっちのけだし!」
――ボクの母さんは、ボクへの説明などウッチャラカシちゃってさ……
優しい母の眼差しも温かく河鹿薫子を見つめているのだった。
「お母さん……」
――え゛? おるこちゃんがボクの母さんのことを『お母さん』って呼んだ?
「薫子ちゃん、なぁーに?」
――え゛ぇー!? ボクの母さん、おるこちゃんから『お母さん』って呼ばれるのを当たり前の顔してるみたいな?
「あたし、お母さんって呼んだら馴れ馴れしいですか?」
「あら、あたしは薫子ちゃんのお母さんになったんですもの、薫子ちゃんがあたしをお母さんって呼んで何が馴れ馴れしいのかしら?」
「いやん!! お母さん、ありがとう!!」
河鹿薫子、持っていた半紙を畳の床へ放り投げつつボクの母さんに抱きついて、彼女は全身で喜びを表している。
「えっと? まさか、母さんはおるこちゃんを浅間家に……いや、そんな馬鹿な……」
――でも、おるこちゃんは浅間薫子って自慢気に……だから、もしかして、もしかしたら……
「母さん? 有り得ない話だけどさ……もしかして、おるこちゃんは我が家の家族になっちゃったとか?」
抱きつく河鹿薫子のポニーテールを優しく撫でつつ、
「あら、やっと判ったの? 意外と秋ちゃんは鈍感なのね」
なんて、母さんはボクに照れくさそうな笑顔を見せたのだった。
「一人っ子の秋ちゃんは兄弟姉妹を欲しがっていたから、母さんは薫子ちゃんを秋ちゃんの妹にしちゃったのよ」
「って、母さんはドヤ顔になってるし!」
――おるこちゃんを抱きしめたままのボクの母さんは……
「薫子ちゃんは家庭内暴力に苦しんでいたでしょう。でね、母さんに助けを求めていたでしょう。だから、母さんは薫子ちゃんを母さんの娘にしちゃったのよ」
――なんて、自慢気な表情を加速させつつシレーっと宣ってくれちゃったし……
「あんびりばぼ……ボクの母さんは突拍子もないことやらかしまくりみたいな……」
あまりにも常軌を逸する出来事の中へ放り込まれたボクは唖然とするしかなかった。
――ニッチもサッチも、どうにも信じられない現実を母さんから与えられちゃったみたいな……
「だってさ、ボクの目の前でさ、ボクの母さんに抱きついたまんま甘えているポニーテールのおるこちゃんが……ボクの妹になっちゃったし……」
とにもかくにも、河鹿薫子を抱き留めながらボクに笑顔を見せている母さんの顔を、ボクは茫然自失しつつ、ただただ見つめ返すばかりだった。
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