第16話、まりんぱ前夜祭
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「うおぉー! 工場ぉー! 萌えぇー!」
「え゛? エザちゃんってさ、工場萌え系女子だったの?」
――今日は土曜日で、学校は休みなんだけど、明日の日曜日に行われる忘年会っていうのに招待されちゃったから……
ボクたちバンドのメンバー全員で、ボクの母さんが勤める食品会社へ、楽器などの前仕込みのために来ていたりする。
「だって、浅間君、ほらほら……」
「え? エザちゃん?」
――ボクの母さん、まりんぱ食品株式会社の南習志野工場に勤めてるんだよ……
「だから、ほら……あの複雑に絡み合った配管とか、凛々しくてセクシーにそびえ立つ煙突とか……」
「は? エザちゃん?」
――でね、ボクの母さんから、まりんぱ食品の南習志野工場にある社員食堂で行われる忘年会でさ、演奏して欲しいってお願いされたから……
そんなこんなで、前入りしつつ、我がバンド「おでん」のメンバー全員は楽器設営のためのロケーションハンティングに来ていたりする。
「浅間君、ほら……それらを妖艶に照らす照明とか、あのオレンジ色っぽい照明とか……」
「えっと……エザちゃん?」
――うわぁ……鼻息も荒く、こんなに瞳を輝かせて、悦なる表情かましまくりて力説するエザちゃんを初めて見ちゃったみたいな……
「そっちの黄色っぽい照明とか、あっちの青っぽい照明とか……」
「あの、だから……エザちゃん?」
――しかしさ、12月も半ばになると日没は釣瓶落としで、まだ午後5時を過ぎたばかりだって頃合いなのに……
東の空は夜に吸い込まれつつあり、西の空は紅の千切れ雲が明るく輝く星を見え隠れさせていたりする、とてもトワイライトな千葉県南習志野市だったりする。
「浅間君、ほら! 街の夜景より、百万ドルの夜景より……ほら、ね? ずっと、とっても綺麗で萌えない?」
「エザちゃん、ゴメン……ボク、分かんないし」
――工場の片隅にある特大なボイラーの煙突とか、ボイラーから複雑にアチコチへ伸びる太い配管とか……
「うっそぉー!? 浅間君? あんなに幻想的な風景で萌え萌えなのに?」
――うーん……無機質で無表情な、タダの鉄のカタマリにしか見えないし……
「ゴメン、ワカンナイや」
「そっか、浅間君は河鹿さんにしか萌え感じないんだもんね」
「エザちゃんさぁ……また、そうやってからかうし。でも、確かにボクがおるこちゃんにしか萌えないのは当たってるけど……」
「あはは! 浅間君がノロケた! おノロケ秋ちゃん万歳!」
――そこまで会話が進んだところで、工場の入口に背を向けていたボクの背中に……
河鹿薫子が駆け寄ってきたと思ったら、ボクの真正面に回り込み、
「秋ちゃん? あたしを呼んだ?」
と、ハテナ顔をしながら話し掛けてきたのだった。
「もう、ダメじゃないのよ。入場手続きが終わんないうちから工場の大きな駐車場をウロチョロしちゃ……はい、入場許可証を左胸の位置に付けてね」
そう言いつつ、名札のようでいて真ん丸なバッチ形をしたモノをボクに手渡してきたのは田頭久美子ちゃんだった。
「秋ちゃん? あたしを呼んだ? 呼んだでしょ?」
「ねえ、浅間君? あの複雑に絡み合った配管に、何で、どうして萌えないの?」
「浅間君、社員食堂ってドコ? 浅間君のお母さんの会社なんだから、浅間君、工場内に詳しいんでしょ?」
「すみません……話を一本化してください。ボクは聖徳太子じゃないんだし」
――おるこちゃん、エザちゃん、デンちゃんの3人が入り乱れちゃってさ、同時に質問を投げてきたから堪んないボクみたいな……
「浅間君? この名札みたいなの、学校で付けてる名札みたいに付ければイイの?」
「ブルータスお前もか? トベちゃん、だから……ボクは聖徳太子じゃないんだし」
ちなみに、10人から同時に話し掛けられても、その全てに的確な返答をしていた聖徳太子だったとか。
――なんていう、ストーリーに全然関係ないウンチクばなしはオイトイテ……
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「えぇー!? 会社にある社員食堂って、こんなに大きいもんなのか? どんだけ大きいんだコリャ!?」
「その辺にあるファミレスより広いよね……」
「広いなんてもんじゃなくて、もう、余裕でファミレスの3倍以上の広さがある気がするわ」
――ボクの母さんが勤める食品工場にある社員食堂に入るや否や……
「ウチの学校の教室10個分?」
「うーん……20個分はあるんじゃない?」
江澤さん、田頭久美子ちゃん、卜部さんの3人は驚きの声を上げていた。
「エザちゃん? レモンなら何個分かしら?」
「って、ビタミンCかよ、トベちゃんさぁー!!」
「真面目な話、ちょっとしたコンサートホールよりデカイわよね。大ホールよりは小さいから中ホール規模のハコかな?」
「トベちゃんさぁ……バナナなら何個分かなぁー?」
「エザちゃん、あのね……バナナは果物ですから、遠足のおやつ代に入りません」
「ああ、もう! エザちゃん! トベちゃん! 真面目に聞けぇー!」
「きゃー! デンちゃんが怒ったぁー!」
――ちょっと訳ワカンナイ方向に話が流れてるけどさ……
「秋ちゃん、秋ちゃん、手作り出来立てソフトクリーム美味しいわよ」
――あぁーあ、おるこちゃんは社員食堂の片隅にある売店で買い食いしてるし……
「デンちゃん、エザちゃん、トベちゃん……この食品工場ってさ、千人以上の人々が働いてるから。だから、社員食堂はバカデカくないと……」
――うわ……なんていう、ボクの発言なんて聞いちゃいないし……
「天井が学校にある体育館みたいに高いじゃんか」
――なんて言いながら上を見上げるエザちゃん……
「建物の中に柱とかないから、なおさら広々と感じるわ」
――デンちゃんは重たいシンセサイザーを手に持って運んできたから疲れたのか、椅子にドッカリと座ってるし……
「バスケットとバレーボールとバドミントンが同時にできるくらいに広い気がする」
――なんて、トベちゃんは両手をイッパイに広げて食堂内を仰ぎ見てるし……
「見て、見て! 秋ちゃん、秋ちゃん! あっちにステージが造ってあるわよ!」
「おるこちゃん! ソフトクリームを持ったまんま食堂内を走り回っちゃダメだよ!」
――あぁーあ、いつもどおり、好き勝手な向きにベクトルを向かわせている我がバンドおでんのメンバーたちみたいな……
「まあ、でもさ、ちょっとやそっとじゃ物怖じしない性格の女の子達だから……」
――その点ではさ、ライブ本番へ向けてのメンタル面の心配とかする必要なくて助かってるんだけどね……
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「あら? もうみんな来てたの? 約束の時間より……ちょっと早くない?」
――なんて、腕時計とボクの顔をチラチラ見比べつつ、ボクに話しかけてきたのは……
「あ、ボクの母さんだ。公休日でお仕事お休みなのに、忘年会幹事の役目とかお疲れ様です」
「まあ、秋ちゃんったら、嬉しいわ。愛息子から労いの言葉なんて、母さんは疲れが吹き飛んだわよ」
――社員食堂の正面玄関の出入口とは別にある、関係者以外立入禁止と書かれた……
いわゆる裏方の勝手口の方から姿を現したボクの母さんだったりする。
「母さんが会場設営を監督する役目なんだよね?」
「そうよ、秋ちゃん。母さんが来たから、ロケハンだけでオシマイなんて遠慮していないで、予定を早めて、もう楽器の設営を始めて大丈夫なのよ」
「うん、母さん。お言葉に甘えてさ、さっそくね、今すぐに設営できるトコから始めるよ」
――ちなみに、その勝手口扉の右脇には、かなりというか、随分というか……
「もう、見るからに大き目なエレベーターがあったりするんだけどさ……」
――荷物用自動昇降機とか、最大積載量1500kgとか、荷扱い者以外は乗れませんとか……
「いかにも業務用チックな表示がされている荷物用のエレベーターみたいな」
――その荷物用エレベーター、ボクたちが居る2階に向けてさ……
階下の1階から、かすかなる重厚な響きと振動をともないつつ、ゆっくりとゴンドラが昇ってきている様子だった。
――んでさ、ゴンドラが2階へ辿り着いた途端に……
何気なくボクが注目してしまっていたエレベーターの扉が開くと、
「お! 秋子ちゃん、久しぶりだね」
なんて、エレベーター内に居て黒光りする作業服のツナギを着た男の人がボクに向かって言ったのだった。
「あぁーもう! 中井川さんってばさ、ボクを秋子ちゃんって呼ぶなぁー!」
――実はね、ツナギを着てる男の人は中井川さんっていう名前でさ……
彼は小さな楽器屋さんを経営していて、我がバンド「おでん」の楽器の面倒を格安でみてくれている有り難い人だったりする。
「あれ? 中井川さんが来るなんて聞いてないんですけど」
――って、イの一番に言ったのは……
我がバンドのベーシストを勤める、エザちゃんこと、江澤さんだった。
「うん、エザちゃん。だって、おでんのみんなに俺も来ること言ってないもん」
中井川さんは、イタズラっ子のようでいて優しいお兄さんのような笑顔で、まるで妹をあやすように、江澤さんへ言葉を返していた。
「あの、中井川さん……わたしのフルート、少しだけ調子が悪いんです。助けてください」
「うん、分かった。後でメンテナンスをしてあげるよ、トベちゃん」
卜部さんの言葉に中井川さんは、やはり、優しいお兄さんのように言葉を返していた。
「中井川さん……あたしのシンセサイザーなんですけど、シーケンスデータがエラーすることがあって……」
「うん、うん、分かった。シンセとシーケンサーの両方、後でメンテナンスしてあげるよ、デンちゃん」
田頭久美子ちゃんの言葉に、中井川さんは、頼れるお兄さんのような言葉を返していた。
「あ、そうだ。中井川さん、ボクはスネアドラムの新しいスナッピーが欲しいかも」
「はい、はい、美少年女装男子美少女の秋子ちゃん。サッサと女装しようね」
「って、こんちくしょぉー! ボクにも優しく頼れるお兄さんみたいな言葉を返せぇー!」
「こんちくしょぉー! そう言う前に、美少女なんだか美少年なんだか、キッパリ、きっちり、はっきりさせろぉー!」
「あっちゃぁー! 中井川さん、そう来ましたか……」
――はい、いつもどおり、ココで関係者一同、みんな揃って大爆笑みたいな……
「我がバンドおでんを可愛がってくれている、とても優しくて頼もしくて、とても面白くて気さくでいて……」
バンドのメンバー全員が大切に思って止まない、とても素敵なお兄さん的存在の中井川さんだったりする。
――ボクたちみたいな中学生のお子様バンドでもね、人様に聴かせられるまともなライブができるのは……
「楽器の面倒やら、音響機器レンタルやら、ライブ会場の音響機器の設営やら、ライブ当日の音響機器のオペレートやら……」
――我がバンドおでんがライブを行うに必要な全てを……
そう、中井川さんが格安で面倒みてくれるからだったりする。
「格安っていうか、もう、ほとんどタダ同然の破格なんだけどさ」
――まさに、頼れるお兄ちゃんの中井川さんなんだよ……
「ボクたち中学生から見たらさ、年齢的にはオジサンなんだけど、オジサンって言うとスネちゃうから……だから、仕方なくお兄ちゃん扱いみたいな……あはは!」
「え? 秋子ちゃん、何か言った?」
「中井川さん、独り言だから……気にしない、気にしない……あはは!」
――なんて、楽屋ばなしはオイトイテ……
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「実はね、中学生のくせにライブ慣れしている我がバンドおでんみたいな……」
――中井川さんが階下からエレベーターで運んでくるハードケースを……
手慣れた様相でテキパキとステージ周りに配置しているバンドのメンバー達。
――ハードケースの中身は音響機器が入ってるんだよ。分かり易いトコで言うと、PAアンプとかPAスピーカーとか……
「いやん! これ重い! 台車が動かない! みんな助けてぇー!」
――なんて、おるこちゃんが悲鳴を上げるや……
おるこちゃんがもて余している大きなハードケースをバンドのメンバー全員で助け合って運ぶなんていうのは手慣れたもの。
――中井川さんは楽器屋さんを経営してるんだけど、元々は音響関係のエンジニアさんでさ……
「その中井川さんがトラックに載せて運搬してきてくれた……」
――ライブに必要な音響機器たちをトラックからエレベーターに入れ、エレベーターから2階にある社員食堂に搬入しているボクたちみたいな……
「プロの歌手やら、プロのバンドやら、プロの演奏家ならさ、ライブ機材の搬入なんてスタッフがやってくれるんだけど」
――アマチュアのボクたちは、自分たちで機材の搬入をすることは常日頃みたいな……
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「ああ、やっと、全ての機材を搬入し終わったよ」
なんて、機材搬入だけで真冬だってのに、汗だく、ツユだくになってしまっているバンドのメンバーたち。
「でもね、搬入だけじゃ終わんないんだよ」
そう、搬入した機材、いわゆる音響機器たちを適材適所に配置して、その後で整然と組み立てなければ音は出やしない。
「はい、おでんのみんな……コレが今回のライブ用の配置図だよ」
中井川さんがバンドのメンバーたちに搬入した音響機器の配置図を手渡している。
その配置図を受け取るや否や、バンドのメンバーたち、ソソクサと音響機器を配置し始めたのだった。
――もちろん、ボクもさ、上手に下手にと、テキパキ機材を配置してるし……
「おるこちゃん! そのハードケースの中身は下手で使うパワーアンプだから、ステージの上じゃなくてさ、配置図にあるとおり、ステージの下手袖に置かなきゃだよ!」
「なんて言ってる秋ちゃん! 上手で使うスピーカーが入ったハードケースをステージ下手袖に置いちゃダメじゃないのよ!」
「デンちゃん! そのハードケースの中身はグライコなんだから、ミキシングコンソール脇に持ってかなきゃ!」
「なんて言う前に、エザちゃん、自分が使うベースアンプ、下手から上手に移動して! あたしのシンセとシーケンサー置けないじゃないのよ!」
――素人バンドは手作りライブだったりして、会場の音響設営は手作り戦場みたいな、手作り合戦みたいな……
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音響機器の搬入から配置までを終わらせたバンドのメンバーたちは、やっとこさっとこ、のほほんとコーヒーブレイクにありつけていたりする。
でも、まだまだエンジニアである中井川さんの仕事は終わらない。
「中井川さんの指示に従ってね、機材同士のケーブル接続まではさ、素人のボクたちにもできるんだけど……」
繋げた音響機器から出てくる音の調整は、ボクたちみたいな素人には、ニッチもサッチも、どうにも、からっきし無理難題だったりする。
――そう、専門用語で弱電と呼ばれるソレの専門知識がないと無理だったりして……
「でね、今、中井川さんはマイクを片手に持ってさ、会場内をくまなく歩き回ってるんだよ」
――カラオケが好きな人なら分かるかもな話なんだけど……
「カラオケをしていて、スピーカーからね、キーンとかブーンとか、変な音が出まくって耳を切り裂かれた経験したことアリアリだと思うんだけどさ……」
それはハウリングと呼ばれる現象で、マイクがスピーカーから出る音を拾ったなら起きる、いわゆる、ループ現象と呼ばれたりする障害だったりする。
――ボーカルが使うワイヤレスマイクがハウリング現象を起こさないようにするために、中井川さんはカッティングと呼ばれる作業をしてくれているんだよ……
そのカッティング作業、実は絶対音感と呼ばれている感性がなければできなかったりする。
「時報ってあるじゃん? ぽっ、ぽっ、ぽぉーんって鳴るアレ」
その時報、初めに鳴る「ぽっ、ぽっ」は440ヘルツの音程である場合が多く、最後の「ぽぉーん」は880ヘルツの音程である場合が多かったりする。
「絶対音感っていう感性がなきゃさ、聴こえた音の音程は判らないし……音程が判らないならさ、その音が何ヘルツだか認識できないし……」
――つまり、ハウリングする音の音程が何ヘルツなのか直感的に判らないなら、グラフィックイコライザーの何ヘルツをカットしたらハウリングしなくなるのかワカンナイみたいな……
「あ、しまった! そんなにdeepな話まで掘り下げたら、もう、何の話だかワカンナイよね?」
――ごめんなさい。今のdeepな話は気にしないでね……
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「一応、ボーカルマイクのカッティングが決まったから……さあ、秋子ちゃん」
――中井川さんは卓にあるトークバックマイクを通して……
ステージから離れた場所に座っているボクに向かって話しかけてきた。
「うん! 中井川さん、分かったよ!」
ボクはマイクも使わずに大きな声で返事をしている。
――実はね、ボクってさ、ライブの時、ステージを降りて客席の中に入って唄っちゃう人だったりして……
河鹿薫子はステージの上でしか唄わないのだが、ボクには客席もステージとしか感じられず、唄いながら客席の右から左まで歩き回ってしまっていたりする。
「秋子ちゃん、いつもみたいに客席を歩き回ってさ、オケに合わせて唄ってみてくれないかな? 唄ってくれてる最中に、ボーカルマイクのカッティング、微調整したいからさ。ついでにコンプも決めちゃうからさ」
「うん! ボク、中井川さん手作りのオケで唄うし!」
ステージの上で唄っているならば客席に向けたスピーカーの音をマイクで拾うことはない。
――でもさ、ボクみたいにね、ステージから客席に降りちゃって唄うなら、客席に向けたスピーカーの音をマイクで拾いまくりみたいな、ハウリングさせまくりみたいな……
「すっごぉーい! こんなに広くて体育館みたいな社員食堂なのに、浅間君の声、マイクを使わなくても響き渡ってるし!」
「うん、エザちゃん、わたしも驚いちゃった。浅間君の透き通る声……こんなに広いスペースでも響き渡る透明な声……」
「トベちゃんが言いたいこと分かるよ、あたし。浅間君の透き通った美しい声……切なくか細い声なのに、あたしの心を温めてくれちゃう、とても不思議な優しい声……」
「デン、あんたの言いたいこと分かるわ。あたしの秋ちゃんは、あたしたちが抱えてる漠然としたモンみたいなアレたちを……」
「薫子、分かるわ。あたしたちみたいな年端の女子が抱えがちな……」
「デンちゃん! 分かる、分かる! 大人のふりしてみたって少女でしかないあたしたちみたいな女の子の……」
「エザちゃん、わたし分かるわ。背伸びしても幼さ顕にして、そのギャップに苦しむわたしたちの……」
「トベちゃん、分かる! そうなのよ! 秋ちゃんったら、そんなあたしたちの心を唄ってくれるから……」
「薫子、だよね。だから、浅間君はあたしたちのアイドルなんだよね」
「うん、そうなんだよね」
「うん、そうなのよ」
「あっ! あたしたちの演奏を中井川さんが録音してくれた……」
「うん、あたしたちが演奏したのを録音してくれたオケのイントロが流れてきたわ」
「あたしたちのオケで秋ちゃんが唄ってくれる……」
「聴かなきゃ!」
「うん、聴かなきゃ勿体無いよ!」
「みんな、浅間君が唄う歌を聴こう!」
★
そろそろ
眠りに
つきたいのです
ボクは
深く
長い眠りに……
星が一つ二つと
増えてゆくのを
見ていると……
遠いところへ
ゆきたくなります……
闇は 星に 吸われ
消えて ゆく
星は 闇に 吸われ
消えて ゆく……
ボクは 闇に 吸われ
見えなく なる……
ひとつも
未来を
おもいたくない……
悲しみだけが
見え過ぎるから……
星が一つ二つと
消えてゆくのを
見ていると……
遠いところへ
ゆきたくなります……
闇は 星に 吸われ
消えて ゆく
星は 闇に 吸われ
消えて ゆく……
ボクは 闇に 吸われ
見えなく なる……
ボクは 星に 吸われ
消えて ゆく……
ボクは 闇に 吸われ
見えなく なる……
曲名 ねむり
作詞 浅間秋
作曲 田頭久美子
編曲 おでん
★
――ステージを降りて客席の中で、ボク、一曲カンパケて唄ったんだけど……
「中井川さん、あのさ……この食堂って体育館みたいに屋根が高いせいか、天然のホールリバーブがdeep過ぎて……」
「秋子ちゃん、そうだね。秋ちゃんが言うとおり残響音が深いよね。うん、分かったよ。ボーカルのリバーブ処理、いつもより浅くするよ」
――ボクはステージから離れた場所に立っていて……
ステージの両脇にある会場用スピーカーから出ている音をモロに浴びている。
――ちょうど客席の真ん中、いわゆるセンターの位置に立ってる感じかな……
「中井川さん? あのさ、こんだけ天然ホールリバーブdeepなのにさ、全然ループしないっていうか、全然ハウリングしないのは凄いんだけど……」
「うん? 秋子ちゃん、もしかして、不具合を見つけたのかな?」
「うん、見つけたかも。ってかさ、中井川さん、何となくサ行ノイズ気にならない? 天然のホールリバーブ、サ行の残響に悪さしてる気がするんだけどさ」
「おっと、秋子ちゃんはサ行ノイズと来ましたか……じゃあね、さ行を繰り返し言ってみてくれるかな。グライコでカットするから」
「さ、せ、し、す、せ、そ、さ、そ……さ、せ、し、す、せ、そ、さ、そ……さ、せ、し、す、せ、そ、さ、そ……」
「はい。秋子ちゃん、ちょっと調整してみたよ。さて、どうかな?」
「アー! ベェー! ツェー! さ、し、す、す、す……うん! 中井川さん、聞きやすくなったよ」
――あ……そういえば、おるこちゃんたち、ドコに居るんだろ?
相変わらず、ボクは客席のセンターに立ち、ボクのツラはステージに向けて立っていたりする。
――客席の後ろの方に居るのかな? カマボコになって音を聴いてるのかな?
ボクはクルリと全身を左回りさせ、ステージを背にして客席の後方に向きを変えた。
「秋ちゃんったら……んもう! ステキだわ!」
「うぅーわ!! ボクの真後ろに居たし!! ビックリしちゃったし!!」
河鹿薫子を中心にして、その右隣りに田頭久美子ちゃん、左隣りには江澤さんが座っている。
――んで、おるこちゃんの真後ろにトベちゃんが立っているみたいな……
「浅間君! 色紙買ってきたから! サインちょうだい! 俺様の分と、俺様友達の分、加えて友達の友達の分……とりあえずさ、7枚サイン書いてくんない?」
「あんりゃま! エザちゃん、何を買ってきてんだか! んで、何を言っちゃってるんだか!」
「ねぇ、ねぇ、秋ちゃん、秋ちゃん……アレ唄って、アレ唄って」
「っていうか……ねぇ、みんな? 音具合、どう思う?」
「秋ちゃん、ソレ唄って! ソレ唄って!」
「え? おるこちゃん? ソレってドレ?」
「いやん! だから、あたし、『ねぇ、みんな』を唄って欲しいんだもん! ねぇ、ねぇ、秋ちゃん! 『ねぇ、みんな』を唄って!」
「おるこちゃん? 『ねぇ、みんな』を唄えって……ボクは意味ワカンナイし」
――ってか、解ったし。『ねぇ、みんな』を唄えって解ったし……
「おるこちゃん、ボクの『ねぇ、みんな』っていう曲は……それさ、『たんぽぽ』っていうタイトルの楽曲だよ」
「おお! 浅間君のたんぽぽ! あたしも久しぶりに聴きたいわ!」
「え? デンちゃん?」
「うん、わたしも聴きたい。男の子なのにソプラノの音階まで艶やかに伸びて綺麗な声……久しぶりに楽しみかも」
「え? トベちゃん?」
「うんうん、俺様も浅間君のたんぽぽ、メチャ聴きたいぞ。じゃぁーさぁ、先にたんぽぽ唄ってもらって……それからさ、あたしの色紙にサインしてくれればイイよ」
「は? エザちゃん?」
――何だかさ、唄うことが前提に話が進んでるみたいな……
「秋ちゃん、秋ちゃん、右手で持ってるマイク貸してちょうだい」
「え? っていうか、うわ……おるこちゃんからボクが持ってるマイク奪われちゃった」
河鹿薫子はボクが右手で握っていたワイヤレスマイクを奪うや否や、
「中井川さん? 『ねぇ、みんな』のオケあります?」
と、ノートパソコンで打ち込み作業をしている様子の中井川さんへ話し掛けた。
「おるこちゃん、だからさ……ソレって『たんぽぽ』っていうタイトルの曲だし」
――なんて、ボクがおるこちゃんにツッコミ入れてる矢先に……
「薫子ちゃん、『たんぽぽ』のオケ見つけたよ。今触ってるノーパソの中にオケのデータあったよ」
――って、中井川さんはミキシングコンソールに付いてるトークバックマイクで返事くれちゃったし……
「はい、秋ちゃんにマイク返すわね。うふ、あは、えへ」
河鹿薫子、ボクが唄うたんぽぽを聴く気満々で、
「うふ、えへ、うふふ」
なんて、ニコニコしながらボクを上目遣いで見つめている。
――っていうか、我がバンドおでんのメンバー全員、聴く気満々でボクを見つめてくれちゃってるみたいな……
中井川さんはトークバックマイクで、
「秋子ちゃん? オケのスタンバイOKだよ。キュー出ししてくれたら流すよ」
なんて、言い出してくれた。
――あぁーあ、コリャ唄うしかない空気みたいな……
予告もなく、ボクはバンドのメンバーたちに背を向け、深呼吸をしながら、ゆっくりと精神統一をしつつ、ステージに向けて歩きだした。
「あら? 秋ちゃんったら……ねぇ、ドコに行くの?」
「おるこちゃん、ステージの上だよ」
「朝間君? どうしてココで唄わないんだ?」
「エザちゃん、この曲はメロディーの上下が激しいからだよ」
――そう、たんぽぽって曲はさ、いきなり1オクターブ上がったり、いきなり1オクターブ下がったりだらけな曲だったりして……
「さしものボクでもさ、ステージのコロガシから出るオケの音をモニタリングしながらじゃないとね、この曲の激しく目まぐるしい音程の変化についてけないかも……みたいな」
「さあ、みんな! ゲルマン民族の大移動よ!」
――なんて、おるこちゃんが言った訳の解らない号令と共に……
我がバンドおでんのメンバー全員がステージ前へと移動を始めた。
――うわっ! その姿ってばさ、まるで親鳥の後ろを列を作って歩き回るアレみたいな様相になってるし!
解り易く換言するなら、その様は、あの有名なカルガモ親子の引っ越しさながらの様相だったりする。
――なんて与太ばなしをしてるうちにさ、ボクはステージに辿り着いちゃったし……
ボクはステージの床にあるボーカルの立ち位置を示したバミの上に立った。
――んで、バンドのメンバーたちは、ステージの真ん前っていうか……
ボクの目の前に体育座りをしつつメンバー全員がボクを見上げている。
――んじゃ、そろそろ唄わなくちゃ……
ボクはゆっくりと左腕を天井に向けて高く挙げ、その直ぐ後、静かに床へ向けて下ろしたのだった。
――わお! 相変わらず凄いや! 中井川さん、ボクのキュー出しタイミングどんピシャでオケをプレイバックしてくれたし!!
という訳で、たんぽぽの前奏がPAスピーカーから会場に流れ始めたのだった。
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曲名 たんぽぽ
作詞 浅間秋
作曲 田頭久美子
ねぇ? みんなぁー?
たんぽぽって……
好きぃー?
野原ぁーいぃっぱいー
たんぽぽ咲くと……
とぉってもー
ステキなんだよ
キラっキラっキラぁー
キラキラキラ、光ってねぇ……
とってもステキ
まるで金色の
ジュータンみたい……
とってもステキぃー
そこに寝転がれば
すやすや眠っちゃうんだ
そうすると……
たんぽぽの露が
頬におちてきて……
起こしてくれるの
たんぽぽって
ステキなんだよぉー
★
「キャー!! 秋ちゃん!!」
「秋ちゃん、ステキぃー!!」
――うわっ!! バンドのメンバーたち、床に寝転がっちゃって……
まるで地団駄を踏む幼児さながら、バンドのメンバーの彼女たちは手足をジタバタさせている。
――っていうか、そんなに何を感激しちゃってるんだか、ボクにはワカンナイし……
「突然ですが、今回、司会進行をすることになりました……私、総務部事務課の佐月やよいです」
――っていうか、いきなりMC乱入みたいな!? しかも、5月だか3月だかワカンナイ人だし!!
「先程まで、実は、休日出勤の業務をこなしておりまして……やっと業務が終わりましたので……本日に設営をしにいらっしゃっておりまして……音楽披露をしてくださる、ゲストおでんの皆様にご挨拶と思いまして……不躾ながら、曲の終わりにステージへと……」
「って、ああーもう!! 長い長い! しかも、堅苦しいし!」
意気揚々とステージへ乱入してきた自称MCの女性に対し、思わずボクはツッコミを入れてしまっていた。
「MCってのは、ボーカルやら、バンドのメンバーやら、会話しながら進行しなきゃなんですよ」
「おお……勉強になります」
「んで、MCが堅苦しいと、客席の空気が堅苦しくなるし、観客の皆さんも堅苦しくカシコまんなきゃいけなくなっちゃうし」
「あらあらカシコ?」
「いやん! サツキさんってば、ナイスボケだわ」
――どわぁー!! おるこちゃんがワイヤレスマイク持って乱入してきちゃったし!!
「おるこちゃん、ヤヤコシクしないでね」
「秋ちゃんこそ、早く女装してね。なんて、いやん!」
――と、ここで、予期していなかった爆笑の雨アラレみたいな……
そう、会場のそこかしこから爆笑の声が聞こえてきたのだった。
――さっき、サツキさんが休日出勤の業務は終了したって言ってたけど……それ、ホントみたいな……
気がつけば、仕事が終わって社員食堂へ一息入れにきたと見える従業員の皆さんが、会場となっている社員食堂のそこかしこにワラワラと居たりする。
「会場にお越しの皆様、休日出勤のお仕事お疲れ様でした。そんなに笑って頂けると恐縮なんですが……仕事の疲れを吹き飛ばすべく、もっと笑ってもらって大丈夫ですよ」
「わお! サツキさんってば、MC上手じゃないですか!」
――これはね、内緒ばなしなんだけど……
「河鹿さん? 私、転職してもよろしいですか?」
河鹿薫子は極端な上がり症だったりする。
「え? サツキさん? ドコに?」
――ずっと前に行われた、あの知る人ぞ知る、生徒会選挙演説会でのシドロモドロなおるこちゃん、それくらいに上がり症だったりするんだけど……
「もちろん、河鹿さん、おでんの専属司会者に」
「サツキさん、ボランティアなら大丈夫ですよ。うふ、あは」
「って、河鹿さん? 私、ノーギャラなんですか!?」
「だって、あたしたち、まだ中学生なんですもの。うっふん」
――サツキさんがMCなら大丈夫そうで良かった、良かった……
明日の本番が心配でならなかったボクだったが、今日のノリのまま行ければ心配はないと、ボクは密かに安堵していたりする。
「突然の質問ですが、明日の忘年会に来られない人! 手を挙げてぇー!」
――は? おるこちゃん、どんな質問かましちゃってるんだか……意味ワカンナイし……
「あ! 河鹿さん、けっこう手が挙がりましたよ」
「いやん! ホントだわ……」
――1000人分の椅子とテーブルがある社員食堂には、大雑把に言って……
今現在300人弱の人々が座っているように見える。
――んで、その中の半分近い人々が挙手しちゃったみたいな……
「明日来れない人で、今、秋ちゃんの美少女コスチューム見たい人! 手を挙げてぇー!」
「だぁー!! おるこちゃん!! 何てコト質問しちゃってるんだかなぁー!?」
「じゃあ、じゃあ……明日の忘年会に出席するけど、今すぐに秋ちゃんの美少女コスチューム見たい人も、一緒に手を挙げてぇー!」
――ありゃま……ボクの発言なんかスルーみたいな?
「河鹿さん! 驚きました!」
「わお! あたしもビックリしちゃいました!」
「サツキさん、おるこちゃん……一番ビックリしてんのボクなんだけど……」
――大体300人弱の人々が座っている社員食堂なんだけどさ……
その中で挙手していない人を数えた方が早い位の有り様だから驚くしかないボクだったりする。
「それじゃあ、まりんぱ食品の忘年会! その前夜祭を始めちゃいまぁーす!」
「って、おるこちゃん! 今からやんのかい! っていうか、そんなタイムスケジュールは予定外だし!」
「秋ちゃん、はい! サッサと女装してきてね。うふ、えへ」
「という訳で、会場におわします皆様、新婦の浅間秋子ちゃんはお色直しに入ります」
「って、サツキさん! 結婚披露宴ですか!」
「おお……河鹿さん、秋子ちゃんは突っ込みが上手なんですね」
「サツキさん、あたしが鍛えてあげてますから……うふ、あはは」
「はいはい、おるこちゃんの炸裂しまくり天然ボケのおかげさまだよね」
「というわけで、というわけで……秋ちゃんはお色直しヨロシクね……えへ、あはは」
――あぁーあ、どういう訳でなんだか……全然、全く、少しも、ちっとも訳ワカンナイし……
すっかり河鹿薫子のペースで会場は盛り上がり、もはや逃げようにも逃げ場がない有り様に転がされてしまったボクだったりするから肝冷め。
「さ、それじゃ、秋ちゃんのお色直しの間、おでんの演奏であたしが唄っちゃいますね」
――って、おるこちゃん、そう来たか!
「みんな? 用意はイイ?」
その河鹿薫子の言葉を聞くや、ボクはステージ後方に振り返った。
――うわぁ……いつの間にスタンバっちゃったの?
田頭久美子ちゃんは、彼女自慢のシンセサイザーを上下に2台並べたキーボードスタンドの後ろで、驚いたことに、意気揚々とVサインを掲げていたりする。
――うわぁ……デンちゃんはステージ下手でスタンバイOKだし!
卜部さんはステージ中央でフルートを唇に当てつつ、彼女らしいお嬢様の雰囲気に満ちた笑顔をボクに向けてくれた。
――トベちゃんはボクの真後ろでスタンバイOKだし!
江澤さんは大きなベース用のスピーカーの上にあるベースアンプを微調整しつつ、彼女はボクに向かってウインクしてくれている。
――エザちゃんはステージ上手でスタンバイOKだし!
「って、あれ? 母さんが上手舞台袖に居るし」
そう、上手の袖にボクの母さんが手招きしながら立っていたりする。
ちなみに、舞台袖は客席から見えないように目隠しのパーティションが施されているがため、客席からボクの母さんの姿は見えていない。
――あぁーあ、母さんから手招きオイデオイデされちゃったよ……
その意味を解り易く言うなら、
『母さんが綺麗にメイクアップしてあげる。ドレスアップもしてあげる。だから、早くいらっしゃいな』
という手招きだったりする。
――もはや完全に逃げ場なしみたいなボクみたいな……
「いやん! 秋ちゃんが早くハケてくれないと、あたし、唄えないじゃないのよ!」
河鹿薫子、そう言いつつボクのオシリをペンペンと叩いた。
オシリを叩かれたボクは、有り余る恥ずかしさから、上手の舞台袖を目指して走り出すしかなかった。
「美少年で美少女みたいな秋ちゃんは、今から美少年らしく女装して美少女になって参ります……って、河鹿さん、ヤヤコシイですね」
「いやん! サツキさんったら、またまたナイスボケだわ!」
――うぅーわっ! 客席は爆笑の渦になってるし!
まっしぐらに母さんへと駆け寄ったボクを、
「秋ちゃんを母さんは……つ・か・ま・え・た」
なんて言いつつ、ボクを真正面から抱きしめてくれたのだった。
「あぁーあ……いよいよっていうか、とうとうっていうか、母さんに捕まっちゃったし」
――ボクの母さんはご機嫌最高潮の様子で……
鼻歌を唄いながらボクの右手を握りしめると、まるでボクを誘導するように舞台袖からボクの手を引きつつ歩き始めのだった。
★
「あ、母さんが唄ってる曲、それ、たんぽぽ」
「うん、そうよ。秋ちゃんの透き通るボーイソプラノの声、一度聴いただけで耳についちゃったのよ」
どうやら、ボクの母さんはボクを楽屋に連れて行こうとしている様子だった。
――おでんのバンドのメンバー用に貸してもらった控え室……いわゆる楽屋……
そこで、ボクは、どんな化粧をされてしまうのか、どんな衣装を着せられてしまうのか、全く知らされてはいない。
「ねぇ、母さん?」
「秋ちゃん、なぁーに?」
「ボク、どんな姿になるの?」
「この街で一番の美少女になるのよ」
「ボク、そんな恥ずかしい姿でステージに立つの?」
――っていうか、とうとう楽屋に着いちゃったし……
ボクは母さんから言われるがままに椅子へ腰掛けた。
――すると母さんは、母さん愛用の化粧ポーチから……
アレもコレもと、色々なメイク道具みたいなモノをテーブルに並べたのだった。
「秋ちゃんはね、まだチケットを買ってくれてないウチの従業員たちを誘惑するために社員食堂を歩いて回らなきゃいけないのよ」
――って、何だ、そりゃ?
「っていうか、チケット? 何のチケットの話?」
「もちろん、秋ちゃんが誘惑して買わせるのは市民文化ホールのチケットよ」
――え? 市民文化ホールって何だっけ? えっと……あ、そっか。それってば、南習志野コミュニティセンター大ホールの別名だし……
「っていうか、はい? クリスマスにやるバンドコンテストの入場券を? まさか、母さん、ココで売る気なの?」
母さんはお喋りしながらも、決して手を止めず、アレよコレよと、次々にボクの顔にメイクを施している。
「秋ちゃんは遠慮なく売って大丈夫なのよ」
「母さん? それ、どういう意味で大丈夫なの?」
「はい、出来たわよ。うん、やっぱり秋ちゃんは可愛いわね」
母さんはボクに手鏡を手渡してくれた。
「あぁーあ、お化粧して秋子に化けちゃったボクみたいな……」
「さあ、次はコレを着付けましょうね」
「うわ!! それは!! あちゃあ……」
「え? 秋ちゃん? 『あちゃあ』って?」
「だって、それ、プロフ撮影した時に着させられた恥ずかしいアレだし!!」
――学校のギャラリーで……スコブル、シコタマ、ヘンテコリンな女性フォトグラファーがバンドのプロフィール写真を撮影した時に着せられた……
そう、母さんが持っているのは、件のメイド服みたいなエプロンドレスなのだった。
「うん……やっぱり、秋子ちゃんには可憐なBカップがイイかしら?」
「どわぁー!! パッドが入ったブラジャーとかボクに着付けてるし!!」
「秋子ちゃんは美少女ロリキャラだから……うん、Bカップがイメージ的に丁度イイわね」
「母さん、母さん……ボクの女装キャラのイメージとか勝手に作んないでよ」
「秋子ちゃん、あのね、Cカップだと胸がでしゃばるでしょ……ほのかで柔らかな胸の膨らみがあるくらいが華奢な秋子ちゃんキャラに一番ハマるかしらって、母さんも色々研究しているのよ」
「って、どんな研究やらかしてんだか訳ワカンナイし!」
――ガセパイの研究とか、スコブル、シコタマ訳ワカンナイみたいなアレみたいな……
「秋子ちゃん、次はコルセットを巻くわよ。普段からウエスト60センチ台で細いけれど……」
「母さん! オナカ苦しい!」
「女の子みたいにクビレている訳じゃないから……えい!!」
「って、締め付け過ぎだし! オナカと背中がくっついちゃう! くっついちゃう!」
「そうしたら、次は……」
――ボクの母さん、ボクを着せ替え人形みたいに……
次々と母さん好みの娘の姿にへと、もう、好き勝手に着付けてゆくばかりだった。
「真っ直ぐで綺麗な黒髪……胸キュンしちゃう艶々なショートカット……」
「へ? 母さん?」
――ボクの母さんは独り言を呟くように言葉を発しながら……
母さん好みにセットしたボクの髪を優しく撫でている。
「長い睫毛にパッチリ二重な瞳……」
「だから、あの……母さん?」
――と思ったら、今度は……
母さんはボクの頬を両手で包むように撫で始めた。
「ほのかに膨らむ胸と、キュっと締まったウエストに、ツンと上向きなヒップ……」
「えっと……母さん?」
――んで、ボクの母さん、ボクの腰に手を回して……
まるで大切な恋人をエスコートするかのように、楽屋の片隅にある姿見へと、母さんはボクを連れて行ったのだった。
「うん、可憐な美少女の秋子ちゃんが完成したわね」
――170cmの身長があるボクの全身を裕に見渡せる、縦長でいて大きな姿見……
ボクは鏡の中に居るボクの姿を見るなり、
「あぁーあ、ホントだ。上から下まで、なんちゃって少女の秋子キャラ完成しちゃったし」
なんて、思わず言葉をもらしてしまっていた。
――あれ? 何だか体が熱くなってきたみたいな?
「あら? 秋ちゃん? どうしたの?」
――気がつけば、ボクの背後から……
母さんは、優しくも少しだけ力を込める趣で、とても温かくボクを抱きしめてくれていた。
「母さん……ボクね、ボクさ……」
「え? 秋ちゃん、なぁーに?」
「ボク、ステージに立ちたい。今すぐに立ちたい」
「あらあら……秋ちゃんの中にある秋子ちゃんスイッチがONになったのね」
――母さんが言う秋子ちゃんスイッチ、それが何なのだか具体的には解らないボクだけど……
「でも、うん……ボクは秋子ちゃんモード熱々かも」
「まあ、秋子ちゃんったら、とても頼もしいわ」
「母さん、それは違うよ」
「あら、違うって、何がかしら?」
――ボクは頼もしくなんてないし……
「ボクね、母さんが居ないと何もできないから……ボクには母さんが居てくれるから、だから……」
「あら、嬉しいわ。秋ちゃんが素直に母さんへ甘えてくれて、母さんは嬉しいわ」
――確かにボクはステージに立ちたくて堪らなくなってるけど……でもさ、そのスイッチをONにしてくれたのは……
そう、ボクを優しく抱きしめてくれている母さんなのだった。
「ボクはヒヨコだね」
「え? 秋ちゃん?」
ボクは背後から抱きしめてくれている母さんに寄りかかるように体重を預ける。
「母さんみたいにさ、一人前に羽ばたけない、まだまだボクはヒヨコだね」
「あら、まだまだ雛でイイのよ。秋ちゃんは中学校2年生なんだもの」
母さんはボクが預けた体重を心地好さそうに抱き留めてくれている。
「秋ちゃん位の年頃、母さんだって迷ってばかりだったのよ」
「え? 母さん?」
ボクを抱きしめる母さんの両腕に力が入る。
「っていうか……母さん、ちょっとだけ苦しいよ」
「まだまだ巣立っちゃ嫌よ」
「母さん、苦しいってば」
「迷ったら母さんに帰って来てくれなきゃ嫌よ」
「母さん、苦しいけど……でも、母さんから抱きしめてもらってて気持ちイイ」
「うん、母さんも……秋ちゃんを抱きしめていて気持ちイイわよ」
――ああ、やっぱり、ボクは母さんの子なんだなぁ……
「ボク、母さんの子供で良かった」
「母さんも、秋ちゃんが母さんの子で居てくれて嬉しいわ」
★
「いやん、もう……いつ見ても素敵」
――突然、予告もなく、母さんがボクを愛情込めて抱きしめてくれている最中に……
「あれ? おるこちゃん?」
そう、河鹿薫子がボクたち母子の背後から声をかけてきたのだった。
「おるこちゃん? ステージは?」
――おるこちゃんがボーカルをとって、んで、デンちゃん、トベちゃん、エザちゃんの演奏で唄っているはずなのに……
「あたしの憧れ、秋ちゃんとお母様の親子愛……いやん、素敵だわ!」
「いや、あの、だからさ……おるこちゃん、ステージは?」
――なんてボクの言葉をスルーするが如く……
ボクの母さんは河鹿薫子へ歩み寄ると、ボクよりも背が高い母さんの胸に河鹿薫子の顔を埋もれさせたのだった。
「薫子ちゃん、泣かないのよ」
――え? おるこちゃん泣いてないよ?
なんて思っている矢先、ボクの母さんから抱きしめられている河鹿薫子は泣き崩れんばかりに力を失ってしまったのだった。
――ボクの母さん、おるこちゃんが脱力しちゃうのを予期していたみたいに……
河鹿薫子が泣き崩れゆく瞬間、母さんは彼女をしっかり抱き留めていた。
「秋ちゃんがうらやましい……お母様がうらやまましい……」
「うんうん。薫子ちゃん、あたしはちゃんと分かっているからね」
実は、河鹿薫子は親子の関係が上手くいっていなかったりする。
――幼少の頃からウマクいってないって、ボクはおるこちゃんから聞かされて知ってるんだけどさ……
厳密に言うと、河鹿薫子、彼女は彼女の母親と上手くいっていなかったりする。
――唯我独尊な母親でさ、おるこちゃんの願いには全てNOを突きつける母親でさ……
しかも、父親は家庭を顧みず、いわゆる仕事一辺倒な有り様だったりするらしい。
――何だかんだでさ、おるこちゃん、母親とも父親ともウマクいってないみたいな……
「あたし、秋ちゃんのお母様の子供になりたい……」
「まあ、薫子ちゃんは可愛いわね。心配しなくてイイのよ。秋ちゃんのお嫁さんは薫子ちゃんしか居ないんだから」
「あたし、秋ちゃんに会えて良かった……秋ちゃんのお母様に会えて良かった」
「おるこちゃん、ボクもね、おるこちゃんに会えて良かったよ」
母さんの胸に埋もれつつ泣いている河鹿薫子を、ボクは彼女の背後からギュっと抱きしめてしまった。
――ボクがおるこちゃんを抱きしめると……
ボクの母さんは抱き留めていた河鹿薫子から離れ、ボクに母の愛情たっぷりな笑みを見せつつ、間近にあったパイプ椅子に腰掛けたのだった。
「秋ちゃん、ゴメンね」
「おるこちゃん? ゴメンって、何がゴメンなの?」
「あたし、手に負えないくらいにワガママばっかり、秋ちゃんに言ってばかりだから……」
「大丈夫だよ。おるこちゃんよりボクのがワガママだし」
「でもね、あたし……秋ちゃんにしかワガママ言えないの」
「うん、知ってるから大丈夫だよ。おるこちゃんが本当の姿を見せてくれるのボクだけだし」
「あたし、あたしってメンドくさい女?」
「大丈夫だよ。ボクのがおるこちゃんよりズっとメンドくさいヤツだし」
――なんて、おるこちゃんとボクの会話をニコニコしながら見ているボクの母さん……
椅子から立ち上がると抱き合うボクたちに歩み寄り、
「そろそろステージに行ってみない?」
と、囁くように耳打ちしてきたのだった。
「いやん! 忘れてた! ステージに戻らなきゃ!」
「っていうか、ステージ……どうなってんの?」
「デンのエレピとトベちゃんのキーボード演奏で、エザちゃんがベースを奏でながら……弾き語りしてるの」
――内緒にしてたけど、我がバンドおでん、メンバー全員がボーカルできたりするんだよ……
「わー! エザちゃんの激しいロックンロール諸だしな歌! ボクには絶対に唄えない激しい歌! 聞きたい! 聴きたいし!」
「エザちゃんの低音ハスキーvoice、カッコイイもんね」
「おるこちゃん行こう! 母さん行こう! 早く行こうよ、ステージに!」
ボクは言葉を発しながら楽屋の出入口扉を開けると、少しギクシャクした動きで、ソソクサとステージに向かって歩きだした。
「っていうか、着慣れないミニスカートがヒラヒラして、パンツのオシリとか見えちゃいそうで……」
――ああ、もう……チョコチョコ小股でしか歩けないみたいな……
「いやん……秋ちゃんったら……」
「え? おるこちゃん?」
「いやん、もう……うふふ」
――おるこちゃんの感極まる声を聞いた瞬間、ボクは立ち止まって……
腰にある大きなリボンとスカートの裾をヒラヒラさせつつ、ボクは河鹿薫子の方へ静静と振り返った。
――だってさ、シズシズと振り返んないとさ、ミニスカートがフワフワ浮いてパンツ見えちゃうんだもん……恥ずかしいんだもん……
「秋ちゃんったら、歩き方が女の子みたいで……いやん、可愛い……」
「はい? おるこちゃん?」
「見た目も仕草も女の子みたいで……あたし、もうー! 美少年女装男子美少女の秋子ちゃんに萌えちゃう!」
「え゛? ボク、女の子みたいな仕草とかになってるの?」
河鹿薫子が発した予想外な言葉に、思わずボクは母さんの顔を見てしまった。
――あれ? 母さんがボクに向かって両手でサムアップしてるし……
「役者が衣装に着替えたなら配役に成りきるように……」
「へ? 母さん?」
「秋ちゃんは秋子ちゃんに着替えたなら、秋ちゃんは美少女スイッチが自動的に入るのね」
母さんが言ったスイッチ、どんなスイッチなのだか具体的には自覚できないボク。
「でも、ボク……そのスイッチ、確かにボクの中に在る気がするかも」
「いやん! 美少女に化けちゃった秋ちゃんが……」
「ほえ? おるこちゃん?」
「美少年女装男子美少女の秋子ちゃんが『ボク』って言うの萌え萌ぇー!」
河鹿薫子、更なる感極まった声色をボクに捧げつつ、いきなりボクを抱きしめると、彼女は精一杯に背伸びをしながらボクにキスをかまし始めてしまった。
――アンビリバボぉー!! ボクの母さんが見てるのに!! うっわぁー!! おるこちゃんの舌がボクの中に乱入して来ちゃったし!!
「薫子ちゃん、早く秋子ちゃんのvirgin奪ってあげてね」
「って、母さん!? そう来ましたか!!」
ボクの母さんは河鹿薫子がやらかしている行いを叱責するどころか、早々に『その先』まで生業するよう促しているから興ざめ。
「いやん! 秋子ちゃん、もっとキスしたいの! 唇を離しちゃイヤなの!」
――うわぁ……おるこちゃんはボクを抱きしめたまんま地団駄かましてるし……
「おるこちゃんステージ! 母さんステージ! 早く行かないとさ、デンちゃん、エザちゃん、トベちゃんたち、間が持たなくなっちゃうよ!」
「いやん……キスは? あたし、秋ちゃんとキスしてる時が一番幸せなのに……」
――お子様ライクな地団駄を踏んでるおるこちゃんに近寄ってきたボクの母さんってば……
「今日と明日の両日でね、母さんが預かっているチケット完売できたなら、薫子ちゃんは明日の晩ウチに泊まって……薫子ちゃんの好きなように、草木も眠る丑三つ時辺り、薫子ちゃんは秋ちゃんへ夜這いして最後までヤらかしてもイイわよ」
――なんて、いかにもボクの母さんらしい、いかにもアバンギャルド丸出しな訳の解らないこととか宣ってくれちゃったし!!
「きゃー!! お母様ったら!! あたし、もぉ……俄然、激鬼バリ頑張っちゃいます!!」
――うわぁ……おるこちゃんはピョンピョン飛び跳ねて大喜びし始めちゃったし……
「っていうか、母さんは『預かっている』とか言った? 誰からチケット預かってるの?」
そんなボクの言葉を真っ向から無視するが如く、河鹿薫子は、
「何ボヤボヤしてんのよ、秋ちゃん! 一秒だって無駄にできないんだって自覚してくんなきゃだわ!」
なんて、彼女は険しくも気合いに満ち満ちた表情を顕に、ボクの右手を掴むや否や、力任せにボクを引き摺る様相でステージへと導き始めたのだった。
――ああ、前言撤回しなくちゃ……
「おるこちゃん、ボクの彼女はボクよりワガママです」
「秋ちゃん? 何か言った? 声が小さ過ぎて聞こえなかったのよ」
「おるこちゃん、気にしなくてイイよ。タダの独り言だし……」
「うん、分かった。あたし、気にしないわ」
――おるこちゃんにとって重大極まる目的ができてしまったから……
もはや河鹿薫子には些細な物事なぞ気にもならない様子だった。
――おるこちゃんは大雑把な性格なんだけど、意外と些細な物事に神経質だったりする人なんだよ……
「いつもならさ、ボクが囁いた独り言にも根掘り葉掘り質問責めするくせに……」
「秋ちゃん? ブツクサ言ってないで、秋ちゃんもね、ちゃんとチケット売ってくんなきゃダメなんだから!」
「ああ、もう……分かった、分かった、分かりました!」
――元来はイケイケな性格のおるこちゃんだし……
そう、一度火が点いたなら、もう誰にも止めることなぞ不可能なくらいにイケイケな性格の河鹿薫子だったりする。
――あぁーあ……後は野となれ山となれみたいな……
★




