後編
また今年も、通学路を真新しい制服が歩く季節になった。
「――美桜」
「だから、先輩を呼び捨てにするなっつーの」
隣に並んだ蓮は、またここで身長が伸びた。
学生服の袖口からは手首が、裾からは足首がぬっと覗いている。
限界まで伸ばしたと、おばさんは言っていたけど。
「……あっという間に追い越してみせる、かぁ」
「なに?」
あたしは自分の頭と蓮の頭を手で比べてみせた。
「去年、蓮が言ったんだよ。
ほんと、あっという間に追い越されちゃった」
「――美桜は」
蓮はズボンのポケットに手を突っ込み、俯きながら呟く。
「そう簡単に追い越せないよ」
それから、通りの先に見えた友人たちの元へと走り去っていった。
「……なぁんだ、あれ」
颯爽としたその後ろ姿に、去年の面影はもう、ない。
* * *
七月の引退試合を終えると、高校受験に向けた夏期講習で夏休みは過ぎていく。
塾を終えて帰宅すると、玄関にはやけに大きなスニーカーが揃えてあった。
もちろん蓮のものだ。
その横に立って見比べてみる。
「うっわ。このスニーカー履いたまま、すっぽり履けそうじゃない?」
このままだと、もっと大きくなりそう――足も、背も。
リビングに行くと、案の定、蓮がスイカにかぶりついていた。
「おう、美桜。今年は何だか白いな」
「これはこれは、バスケ部新部長様。
お忘れかもしれないけど、これが元々の色なのだよ、ふっふっふ」
「ああ、美桜お帰り。
蓮君がスイカをお裾分けで持ってきてくれたの。
鞄、置いてらっしゃい」
「はぁい」
鞄を部屋に置いて再びリビングに戻ると、蓮がすっかりそこで寛いでいる。
「アンタね。何度も言うようだけど、自分がお裾分けと称して持ってきてる物を、
お裾分けした家の者より先に口にしているってどういうことよ」
「細かいこと言うなよ。
ところで、美桜はどこの高校行くの?」
スイカに手を伸ばしていたあたしは、ほ? と首を傾げて見せた。
「さぁて、どこかな」
おお、うまっ!
甘くて瑞々しいスイカに舌鼓を打っていると、蓮が身を乗り出してくる。
「教えろよ」
「なんでよ」
「それによっては、内申を頑張らないといけないからに決まってるだろ」
「……誰が?」
「俺がだよ!
美桜を追い越すためには、ちゃんと追いつかないといけない」
なんだ、そのライバル意識。
「もうとっくに追い越されてるじゃん」
向かいに座っている蓮の身長は、この夏、きっと百七十センチを超すだろう。
あの末端から始まったアンバランスな成長は、今やほぼ全身にいきわたっている。
骨張った身体は、少し筋肉質に。
幼さが残っていた顔は少し精悍なものに。
「美桜はちっともわかっていない」
そう不満気に口を尖らせた表情は、だけど昔のままで、
あたしは笑ってしまったのだった。
* * *
「模試があるなら、無理しないでいい」
そうは言っていたけれど、蓮のチームのデビュー戦だ。
間に合うかどうかわからなかったけれど、
あたしは、やっぱり二階の席からこっそり見るつもりで、その体育館に足を運んだ。
トーナメント表を眺めていると、後ろから声が掛かる。
「今年のチームも、強いんだ」
「蓮!」
「次、決勝だから」
「そっか。よし、勝ってこい!」
「おう!」
蓮が掲げた手に、あたしは、ぱち、と手を叩きつけた。
ボールが床に強く叩きつけられる音も、シューズが床を蹴る音も。
部員たちの応援や観客席からの声援も。
去年と同じように、体育館の中は熱気で溢れている。
新人戦地区大会Cグループの決勝戦。
蓮はドリブルでボールをキープしながら、
指を差し、声を張り上げ、指示を飛ばしている。
身体がしっかりして、当たり負けしなくなったこともあるけれど、
ただ闇雲にポイントを取りにいっていたプレイスタイルが、変わった。
ボールを追いながらコート全体を見渡し、
ゲームをコントロールしようとする冷静さを身につけたような気がする。
だからこその、“部長”なのかもしれないけれど。
そして、試合はこちらが優勢なまま、かなりの得点差をつけて第四ピリオドを迎えた。
相手チームが一気にラッシュを掛けてくる中、
うちのチームは巧みなドリブルとパス回しで、ボールをキープしている。
『スリーポイントシュート、結構入るようになってきたんだ』
『結構って、何割くらいのことを言うのよ』
『――五割?』
『練習で五割なら、試合じゃ三割ってとこじゃない?』
『じゃあ、美桜が見ている時に、絶対決めてやる』
右四十五度。
パスを受け取った蓮が真っ直ぐに飛び上がり、
手首をしならせてシュートを撃った。
ボールは大きく緩やかな弧を描いて、ゴールに音もなく吸い込まれていく。
宣言通り、蓮はスリーポイントシュートを決め、場内は歓声に包まれた――
『――決めたら、何か褒美をくれる?』
通りの向こうから、歩いてきた蓮は、
家の前に立っているあたしに気付くと、駆け寄って来た。
「お帰り。Cグループ優勝おめでとう」
「おう! まずは、だけどな」
蓮が、嬉しそうに笑う。
次は地区本大会があり、勝てば県大会へと続く。
「それから、スリーポイントシュートも」
「俺は有言実行の男だから」
「はいはい。で、ご褒美って言ってたじゃない?」
「……お、おう!」
何故か突然、挙動不審に視線を彷徨わせ始めた蓮に、
あたしは可愛くラッピングされた包みを差し出した。
「リストバンドなんだけど」
「――え?」
蓮は、ぴた、と固まったまま、あたしの手元を見下ろしている。
「嬉しいけど、違うっていうか……」
「違う?」
あたしの声に、ゆっくりと視線を上げた蓮は、
僅かに躊躇った後、徐に一歩踏み出すと身体を屈めて――……
「蓮?」
……――え?
「――さんきゅ」
あたしの唇を掠めていった唇が、そう囁いている。
状況を上手く呑み込めず、瞬きを繰り返すあたしの手から、
蓮はその包みをそっと取り上げて、三軒先の自分の家へと走り去った。
――え?
呆然とその場に立ったまま、震える指先で唇に触れる。
蓮が。
あたしの幼馴染の蓮が。
あたしのよく知らない誰かに、変わってしまった瞬間だった――
* * *
家が近所とはいえ、学校では学年の違う蓮とは、
殆ど顔を合わせる機会を持たずに済ませられる。
年末も年明けも塾と模試に追われ、あたしは受験勉強に没頭した。
二次関数や不定詞や化学式は、余計なことを考える時間を減らしてくれる。
――蓮が、何であんなことをしたのか、だとか。
時間が過ぎて、あの出来事は現実感を失いつつあるのだけれども――
だからといって、“なかったこと”にしてしまえるほど、
あたしは大人になれない。
単に幼馴染にふざけてみただけ、なのだとしたら、
こんな風に心を掻き乱されている自分がやるせない。
蓮は、相変わらず朝早くから夕方まで、
バスケットボールを追いかけているらしい。
まるで、何ごともなかったかのように――
あたしは、ため息を吐く。
第一志望は、難関公立高校だ。
こんなことで、心を迷わせている場合じゃあ、ない。
数週間後の受験本番に向けて、追い込みに入ったある日。
インターフォンが鳴り、母が応対する声が聞こえた。
「美桜! ちょっと!」
呼ばれて玄関に顔を出してみれば、久しぶりに間近で見る蓮だ。
「おう、美桜」
この数か月のブランクなどなかったような態度。
気にしているのはあたしだけかと思うと、ちょっとムカつく。
玄関先に立った蓮は、またここで身長を伸ばしたからか、
ひょろりとアンバランスな身体つきになっている。
そういえば、制服をもう一度買いなおした、と蓮のおばさんが言っていたっけ。
「これ」
制服のポケットから取り出した何かを、
蓮はあたしに向かってぶっきらぼうに突き出す。
「もうすぐ本番だろ?」
その手にあったのは、小さな白い紙袋だ。
受け取って中を覗くと、学業成就の御守りが入っていた。
「……ありがと」
「それと、これも」
コンビニのビニール袋の中身は、
合格を連想させるネーミングのチョコレート菓子。
「さんきゅ」
「頑張れよ」
「うん」
じゃあ、と背を向けてドアを開けかけた蓮は、だけど、
次の瞬間その手を止めて、やけに挑戦的な視線であたしを振り返った。
「美桜」
「――なに?」
「俺、謝らないから」
「……――はあぁっ!?」
ばたん、とドアが閉まった。
なにそれ、言い逃げなわけ?
「アンタたち、喧嘩してるの?」
的外れな母のセリフを背に、あたしはサンダルを突っかけて、アプローチを走り抜けた。
通りまで出て、悠々と歩く蓮の後ろ姿に叫ぶ。
「ふざけるな、蓮っ!
あ、あれは、あたしのっ、あたしのっ」
――ファーストキスだったんだからっ!
口に出せずにワナワナと震えるあたしに、
くるりと振り返った蓮が、後ろ歩きのまま叫び返した。
「馬鹿美桜! おれだって、そうに決まってんだろっ!」
「――お、覚えてなさいよっ、蓮っ!」
悔し紛れのあたしのセリフに、蓮は。
「おう! 忘れるわけねぇじゃん!」
そう臆面もなく言って、得意気に笑った。
* * *
この制服を身に着けるのは、今日が最後だ。
卒業証書とアルバムを手に、あたしはのんびりと家路を辿る。
「――美桜」
「だから、先輩を呼び捨てにするなっつーの」
何度となく繰り返されたやり取りに、あたしは小さく笑う。
後ろから駆けてきた蓮が、横に並んだ。
もうすっかり身長は抜かれてしまって、話をするときには見上げるようだ。
“あたしのよく知らない誰か”に変わってしまったはずの幼馴染は、
結局、その“誰か”を内に宿したまま、今までと変わりなくあたしの隣に並ぶ。
多分それを、あたしも望んでいるから。
「――なあ、美桜」
「なに?」
「待っていろよ」
蓮は、怒ったような困ったような顔をして、あたしを見下ろしている。
また冷たい春先の風が、あたしのスカートの裾を揺らし、
蓮の茶色い猫っ毛をふわりと乱していった。
「先に行ってもいいから、絶対、待っていろよ。
俺、必ず追いつくから」
あたしは、くす、と笑って、蓮に言う。
「あっという間に追い越すって言ってたじゃない」
「くっそ、同じ土俵に立つことさえ出来ないんだから、
追い越せるわけないじゃないかっ!
せっかく追いついたのに、美桜はまた俺を置いて先に行くっ!」
蓮の剣幕に、あたしは足を止め、目を瞠った。
「だからっ! 約束しろよ、待ってるって。
俺が、追いつくまで、待っているってっ!」
背が高くなっても。
肩幅が広くなっても。
手や足が大きくなっても。
声が低くなっても。
――どんなに見た目が変わっても。
蓮は。
あたしの幼馴染の蓮は。
ちっとも、あの頃と変わらない。
『みお! オレもようちえん、いく! いっしょ、いく!』
だから、あたしは、あの頃と同じ言葉を返すのだ。
「じゃあ、待っているから。
蓮のこと、待ってるから。
ちゃんと、ついて来なさいよね」