電車内にて
ほんとに暇でヒマで仕方のない方のみどうぞ(?)。
実話から生まれたお話(?)です。
それは、ある日の仕事帰りのことだった。電車の中でようやく空いた席をみつけて、彼女は窓側に座る。電車はあと2分ほどでこの駅を出発する。彼女は鞄の中から文庫本を取り出し、読み始めた。そのとき、彼女の耳が、ヴヴッという聞きなれたバイブ音を捉えた。彼女はもう一度鞄に手を入れ、中をまさぐる。それと同時に、隣の席に座った男性がジーンズの尻ポケットから携帯電話を取り出した。自分のものかと思ったが、隣の男性の携帯電話がなんらかの通知をうけたものらしい。彼女は鞄の中から手を出し、再び文庫本に目を落とした。隣で男性が携帯電話を操作する気配がしている。
と、次の瞬間、なにを思ったのか、彼は席を立つと一目散に駈け出した。電車をおりて、そのままホームを横切っていく。下り階段に消える彼の背中を、彼女は窓越しに見送った。彼が出て行って空席になったその場所に、中年女性がこれ幸いと―彼女にはそう見えたが―腰をおろした。おりしもホームにアナウンスが流れ、ドアが閉まる。ゆっくりとだが確実に、電車は走り出してしまった。彼女には、さきほどの男性が少し気がかりだった。あの人、大丈夫かな?どうして急に走って電車をおりてしまったんだろう?
彼は、一足さきに帰路についたばかりのあの人が、今夜にも遠い外国へ飛び立ってしまうことを、友人からのメールで知ったのだ。あの人と彼は今日、喫茶店で昼下がりのお茶を楽しんでいた。ところが、ささいなことがきっかけで口論になり、あの人は店を飛び出した。明日会うときに謝ろうと思っていた。しかし、あの人は明日の朝には海を隔てた見知らぬ土地にいる。このままけんか別れになってしまうのだろうか。メールの内容を見たときに、咄嗟に彼が頭の中に浮かべることが出来たのはこれだけだった。あとは、考えるよりも先に体が動いていた。彼は勢いよく立ち上がると、車内にひしめく人々をかき分けてドアへと向かう。電車を飛び出して全力で走った。階段を駆け下りる。あの人の家は駅から歩いて20分ほどの場所にある。友人の話では、あの人が乗るのは20時発の飛行機。時間的には、そろそろ家を出る頃かもしれない。それでも彼は走った。あの人に謝らなければならない。どうしても、直接会って、面と向かって謝罪を伝えたい。それに、本当はあの人の夢を応援しているのだということも。頑張って、でも無理はしないで、怪我しないように、風邪ひかないように。考えてみれば伝えたいことがたくさんあった。帰ってくる場所はここにあると、安心してあの人が旅立てるように。ひたすらに彼は走った……
――なんて理由だったらおもしろいのになあ。彼女は電車に揺られながらそんなことを考えていた。そして、考えている間に電車は最寄りの駅に到着した。彼女は鞄を手に立ち上がった。人ごみをかき分けてドアへと向かう。電車をおりると、車内の混雑から解放された心地よさに、一つのびをする。そして、足取りも軽やかに自宅に向かって歩き出した。結局、ほとんど進まなかった読みかけの文庫本を鞄にしまって。
その少し前、息を切らし、駅のホームへと舞い戻ってきた男性はがっくりと肩を落としていた。
「もう行っちまったか…そりゃそうだよなあ。発車まであと2分くらいだったからな。」
すでに車内に席を見つけ、あとは電車が出るのを待つだけだったのだが、友人とメールのやりとりをしている間に思い出したのだ、傘のことを。彼は駅でトイレに入り、そこに傘を忘れてしまっていた。友人がメールで傘の話をしてくれなければ、傘はそのまま置き去りになっていたに違いない。
仕方ない、次を待つか。そう呟き、彼はベンチに腰かけた。手に持った傘を、今度は置いて行かないようにしっかりと握りしめたたまま。