第六話
この村へは、切り立つ岩山が連なる峡谷を越えて、森ふたつ抜けてからやっとの思いで辿り着いた。
三日三晩歩き通しで、自分の足だけで歩くには本当に長い道のりだった。
「疲れて寝ちゃってたのかぁ」
細身の旅人は、横になったまま雪のように白い脚を伸ばす。
どうやらいつの間にか畑の真ん中で寝てしまっていたらしい。着ていた黒いローブが泥だらけになってしまっている。
「あの、大丈夫ですか」
「大丈夫ですよー」
旅人は振り返りもせずに軽い調子で答えた。
後ろからいきなり声をかけられても動じた様子は全く無い。
旅人には村に着いたら一番最初にしなければいけないことがある。まずは……。えぇと、何だったかなと、大して思い出す気も無く考えを巡らせる。
旅人は背後の声の主など、文字通り眼中になかった。
「風邪、引いちゃいますよ」
うるさいな、と旅人は思った。まだいたのか。
「あのさ、放っておいてくれる?」
声のする方に向き直って言う。旅人の蒼い双眼に映ったのは、不思議な髪の色の少女だった。それは夕焼けの映える空の色に似ていて、一瞬、心を奪われそうになる。
「だめです」
その少女はきっぱり言うと、ぐいっと袖口を引っ張って、寝ている旅人を起こそうとする。
「何をするか」
「あなた、倒れてました。どこかで休まないと。熱もある」
旅人は、はぁ、と溜め息をついてされるままに起き上がる。
「ちょっとお嬢さん、僕は他人ですよ」
「あ、旅人さん、ですよね。今日は市場も開いてるし、家には色々あるんです。えーと、ようこそデイスの村へ」
「人の話聞いてないし……」
旅人はもう一度溜め息をついた。それは呆れと安堵の交じったもの。どうやらこの村は、自分が目指してやってきた場所で間違いないらしい。
「さぁ旅人さん、行きましょう」
リアもリアで、外からの客はそんなに多くないので、物珍しさや好奇心が他人への警戒心を緩めていた。
旅人が何か言う前に、抵抗する暇もなく手を引かれてしまう。
「やれやれ」
―――
「どこ行ったー!」
少女の家らしき場所に着いた途端、彼女は暴れだした。
「どうしたの?」
恐る恐る聞いてみると、少女の眉がぴくりと動く。
「あ、突然ごめんなさい。うちのバカがまた……」
そう言って少女から紙切れを一枚渡された。
「『暗くなる前には帰ります。ユウノ』……?」
「寄り道しないで帰れって言ったのにっ!こんなことならユウノに内緒で市場のスイーツ展に行かなければむぐぐ……」
どうやら彼女の親しい誰かの置き手紙で、その内容に不満があるらしかった。
「ちゃんと帰るって書いてあるよ。いなくなるわけじゃない」
「でも……」
旅人には、少女のかゆいところに手の届かないようなイライラが見てとれた。
あぁ、なるほど。要するに、
「心配なんだね」
「はい……」
あはは、と旅人は小さく笑った。
「ユウノ……くん?は確かに馬鹿だね。正直に置き手紙なんて」
「あ、笑った。旅人さんっ!」
少女の目は、心から嬉しそうに旅人を見つめていた。汚れのない笑顔は見ていて頬がかゆくなる。
「いきなりどうしたんだい?旅人さんはやめてよ、お嬢さん。僕はエリスっていうの」
「私はリアです。お嬢さんじゃないです」
「それは悪かったよ、リア」
旅人は親しい相手に話すように軽い調子で言った。
フッと、不意に景色が暗転する。エリスはそこで意識を手放した。
―――
「気分はどうですか?」
目を覚まして最初に聞こえたのは、心配そうなリアの声だった。
「あれ、僕、もしかして倒れちゃった?」
「はい……」
どうやら身体が限界だったらしい。ろくに食わずに三日も歩いたせいか。
「ごめん。リアには他に心配する相手がいるのに」
「今はそんなのいいですから、無理しないで休んでください。はい、お水」
「うっ」
いきなり口に飲み水をぶちこまれる。しかもバケツにいっぱいだ。
「ちょっ、リア、ストップ」
「熱が出て汗をかいたら、水分補給は欠かせませんよ」
確かに乾いた喉は潤ったのだが、この子は病人にトドメを刺す気ですかと、そう思わずにはいられない。
「あ、ありがとう。もう大丈夫だから……ごほっ、うぇ」
中々良い勢いで水を飲み込んでしまった。まさか陸の上で溺れることになるとは。
「横になってください」
「うん」
リアは夕陽のような眼で、こちらを心配そうに見ている。
確かに、言われてみれば頭は重いし、身体が熱い。汗が止まらない。
「あのさ、リアはなんでそこまでしてくれるの?最初に言ったけど、見ず知らずの他人の僕に」
ふと、好奇心からそんな質問が口をついて飛び出した。
リアは自分の髪を指でいじりながら、困ったように眉を下げた。
あ、綺麗だな。窓から見える西の空とリアを見て一瞬、エリスはそう思った。
「なんで、ですか……」
「この村の人はみんなそうなの?」
「違うと思います。普通よそ者は旅人を装った密猟者じゃないかって疑います」
「へぇ」
エリスはますますリアの行動に興味が沸いた。
「僕は密猟者じゃないの?根拠は?」
「違うと思います。密猟者なら、そんな体調の悪い身体を引きずって来ませんし、それに」
「それに?」
「エリスさんは、他人って感じがしないんです。何だかよく分からないけど」
「あははっ、何だそれ」
目の前の少女は、面白い。次に何を言うか、興味がある。
もう少しの間だけ、話し相手になってもらおう。身体が調子を取り戻すまで。