五時間目
忘れ物に気付いたのは、家に到着する直前のことだった。
「風邪気味とはいえ……ドジだなあたし」
真琴はブツブツいいながら、ふらつく足取りで学校に戻った。宿題に必要な社会の地図を忘れてしまったので、明日に回すわけにはいかないのだ。
放課後の校庭では男子たちがサッカーに興じていた。
(……お、バカ発見)
夕吾が相手陣地に攻め込んでいる。立ちはだかるディフェンス陣を一人、二人、三人とごぼう抜きにし、飛び込んできたゴールキーパーさえもかわし、勢い余ってゴールポストに激突していた。
「ゲホ、ゲホッ」
吹き出しそうになるのを我慢したら激しく咳き込んでしまった。
(だめだ、頭ボーッとしてきた……はやく忘れ物取って帰ろ)
玄関で上履きに履き替え、階段をあがる。
寒気まで襲ってきた。やはり風邪をぶり返してしまったようだ。
三階に到達し、一番奥の教室へ向かう。
(あれ?)
薄暗い廊下の突き当たり、5年1組の教室近くで、真琴は気配を押し殺した。
教室の中から笑い声が聞こえた。明かりはついてないが、誰かがまだ残っているようだ。
なぜ泥棒みたいな足取りで歩いているのかと問われれば、「女の勘」とでも言うほかない。
教室のドアを通りすぎ、通気溝のところまで歩く。覗き込むような格好になり、そーっと中の様子をうかがった。
(……美咲と……高梨くん)
高梨は2組の男子で、たしか美咲と同じ風紀委員だったと記憶している。
二人が、楽しそうに話していた。高梨は美咲の机に手をつくような格好で、美咲は椅子に座り、彼を見上げるような格好で。
なんか、やけにいい雰囲気だ。
高梨が美咲に顔を近づけ耳元で何事かをささやくと、美咲は真っ赤になって、
「あは……恥ずかしいな」
「俺とじゃイヤ?」
「う、ううんっ、そんなことない、けど……」
そうして段々、言葉少なになっていく。高梨を見つめる美咲の目が、とろんとしていた。美咲のそんな表情を見るのは初めてだった。
真琴は身動きが取れなくなってしまった。金縛りにでも掛かったように、見詰め合う二人から目が離せない。
スローモーションのように二人の距離が近付いていく。
(ええ……ちょっと、まじ……?)
真琴が固唾を呑んで見守る中、二人は目を閉じ、唇を重ねてしまった――。
(美咲のばか……風紀委員が風紀乱してどうすんのよ~っ)
頭ぐらぐら、足元ふらふらになりながら立ち上がった真琴は、よろよろとその場をあとにした。
忘れ物のことは、完全に忘れてしまっていた。
***
翌日。
真琴は風邪で学校を休んだ。
夕吾は1時間目終了後に美咲の席にきて、
「珍しいな。あいつが休むなんて。まあ平和でいいけど」
「朝野くん、心配してくれてるんだ?」
「なっ、そんなワケないだろ!ふんっ」
ぷいと怒って行ってしまった。美咲はくすくす笑い、
(朝野くんて分かりやすい♪)と思った。
放課後になり、美咲は教室の隅で友人らとカードゲームに興じる夕吾に声をかけた。
「朝野くん、このプリントさ、マコっちゃんちに届けてもらえないかなあ?」
「えー。俺、予習復習とかで忙しいんだけどな」
「ごめん、とてもそうは見えないよ…」
しぶる夕吾に美咲は手を合わせた。
「ね、お願い、この通り。私、今日は部活行かなくちゃいけないし、朝野くんしか頼める人いないの」
「まあ、椎名がそこまで言うなら…」
「わあ、ありがとう。じゃあこれ、先生から預かったプリントね。あ、そうだ。マコっちゃん風邪引いてるからって変なコトしちゃだめだよ~?」
「せんわ!ばか!」
夕吾は真っ赤になって叫んだ。
***
学校から歩いて30分。
いつもと違う帰り道、違う目的地、大きな一軒家。
この緊張感はたぶん、椎名のせいだと夕吾は思った。
(椎名がおかしなこと言うからだ全く……)
インターホンを鳴らして、しばし待つ。
返事がない。
夕吾は庭先で尻尾を振る犬とたわむれた。真琴のペットのクセに人懐っこい。
『ハイ』
すっかり犬と気持ちを通わせた頃、返事が返ってきた。
「あ、こんにちは。真琴さんのクラスメートの朝野です。学校のプリントを届けにきました」
『ゲ』
げ…?
げってなんだと首をかしげながら夕吾は待った。
ややあってから、ドアが開く。
姿を現したのはパジャマ姿の真琴だった。
あきらかに不機嫌そうだ。犬だったら「ウ~」と低い声で唸ってそうなくらい。
夕吾はおびえた。
「よ、よう。これ、ぷりんと……」
「……お茶飲んでく?暇なのよ誰もいなくて」
「え?あ、うん……お邪魔します」
真琴が犬だったら、断ったら噛み付いてきそうな気がしたので夕吾は大人しく従った。
真琴の部屋は階段をあがった二階にあった。
女の子の部屋に入るのはもちろん初めてだ。意外といったら失礼だが、普段の真琴からは想像できないほど女の子らしい部屋だった。
「あんまりジロジロ見ないように」
「ごめん…」
「ま、いいけど」
どっちなんだと思いながら、夕吾は真琴のいれてくれたりんごの匂いの紅茶を飲んだ。
「あ、うまい」
「別に…普通の紅茶だよ」
夕吾の反応が可笑しいらしく、真琴は笑った。
「なんか今日変わったことあった?」
「んー。そうだな。おれが面白おかしく聞かせてしんぜよう」
風邪を引いてるせいだろうか。弱々しい雰囲気の真琴は素直で、可愛く見えないこともなかった。
夕吾が今日の出来事などを1時間くらい話したところで、真琴は急に咳き込んでしまった。
「ごめん。ちょっと横になっていい?」
「あ、おれそろそろ帰るよ。風邪なのに長居しちゃってごめんな」
「うん、ごめんね」
「じゃ、また学校で」
「夕吾」
「ん?」
ベッドに横になった真琴は、タンスの上を指差した。
「そこの薬取って」
「へい」
言われた通りに真琴に錠剤を手渡そうとするが、受け取ってくれない。
「飲ませて」
「へいへい…」
二人の距離が近付いた。
真琴はしばらく起きていたせいで熱が上がり、そのせいでトリップ状態になった。
薬を飲ませようとした夕吾の頬を両手でつかむ。
「ム、むーむー!」
たこ唇。可笑しい。真琴はくすっと笑い、そのまま彼に口付けてしまった。
「む…んーっ!?」
10秒間。みっちりと、これ以上ないほどのキスだった。
(これで美咲に並んだわ……)
などとおぼろげな意識のまま満足し、真琴は眠った。
夕吾はナニがナニやら分からず、とりあえず真琴が寒くないよう毛布を掛け直し、たこみたいに真っ赤な顔のまま帰ったのだった。
***
翌日。
「今度は朝野くんが風邪で休んじゃったね…」
「バカでも風邪引くのね。あっはっは」
夕吾は相変わらずひどい扱われようであったが――。
その日の帰り道。
真琴はふと、自分の唇にふれてみた。
(なんだろう…?この優しい感触)