陽だまりの中で
寒い。
痛い。
お腹がすいた。
ただ息をしているだけで精一杯だった、あの地獄のような十二年が、私の生涯のすべてだった。
私が過ごした『家』は外から強固に鍵が掛けられた、薄暗くて狭い物置部屋の中。エアコンはなかったし、お布団と呼べるものなんてあるわけのない、冷たい部屋。
埃とタバコの吸い殻の匂いが壁や床にしみついたその部屋の扉には、ほんの数センチだけ、建付けの悪い隙間があった。そこから漏れ出すリビングの明かりと、点けっぱなしのテレビやラジオの音だけが、私にとって外の世界と繋がれる唯一の細い糸だった。
部屋の隅には、あの男と女が読み捨てた古い雑誌や本、新聞の束がゴミのようにうずたかく積まれていた。
学校にも行けたのは5歳の頃まで。女と男の間で色々あったらしく、気づいた時には会話すら拒絶されていた。そんな私にとって、テレビから流れる音声と、その紙くずの山に書かれた文字読むことが、唯一の生きている実感であり、娯楽だった。
画面の中で話す大人たちの言葉を必死に聞き取り、転がっている文字を読む。
そうやって、私はあの狭い暗闇の中で、外の世界の知識を貪るように脳に叩き込んでいったのだ。
テレビの中には、いつも見たこともない綺麗な服を着て、キラキラと輝く人たちがいた。
彼らは私が本で読んだ広い世界で、泣いたり、笑ったり、怒ったり、誰かを優しく抱きしめたりしていた。
「俳優」「役者」――彼らがそう呼ばれる特別な存在であることも、その紙くずとテレビから学んだ。
暗闇の中から膝を抱え、その眩しさを、羨望と憧れを込めてじっと見つめていた。
(いいな……あそこに行きたいな……)
あそこはきっと、ここじゃないどこかだ。
理由もなく蹴り飛ばされることも、耳を塞ぎたくなるような汚い罵倒を浴びせられることも、凍えるような冬の床でたった一人、歯をガタガタと鳴らして震えることもない、温かい光に満ちた別の世界。
もし。もしも本当に、生まれ変われるなんて奇跡がこの世界にあるのなら。
私もあの光の中に混ざってみたい。自分じゃない誰かになって、本当の自分として、自由に息をして生きてみたい。
けれど、掠れた喉から漏れ出る小さな願いは、当時の私にとっては雲の上よりも遠い夢物語でしかない。ただ今日の命をつなぎ止めることだけに必死だった私には、未来を夢見る余裕なんて、これっぽっちも残されていなかった。
十二歳の冬。
骨まで凍りつくような冷気が吹き荒れる夜、私の意識はゆっくりと、泥のように深い暗闇へと沈んでいった。
最後に耳に届いたのは、私をここに閉じ込めた男と女の、「面倒なことになった」「早く片付けないと」という、どこまでも忌々しげな舌打ちと、去っていく冷え切った足音だけだった。
前世の私は、何一つ報われないまま、最悪の底で終わった。
――はず、だったのに。
「あう、あ、う……?」
次に目を覚ましたとき、私は信じられないほど温かい空間に包まれていた。
肌を刺すような寒さもない。背中を酷く痛めつける硬くて冷たい床もない。
まるで雲か綿菓子の中に身を沈めているかのような、フカフカで柔らかい、最高の心地よさのベッドに私は横たわっていた。
視界はひどくぼやけていて、周囲の景色はよく分からない。
何より、体に力が入らなくて、自分の意思で思うように手足を動かすことができなかった。
疑問に思って自分の手を目の前にかざそうとしたけれど、視界に入ってきたのは、信じられないほど小さくて、白くて、ふにふにとした……赤ん坊の手だった。
(え……? 私、生きてる……? いや、違う……)
五感に伝わってくるすべてが、かつての地獄とはまるで違っていた。
感覚でわかる。ここはあの家じゃない。
あの惨めな地獄は完全に終わって、私は新しくなったんだ。別の誰かとして、もう一度生まれてくることができたんだ…
ドクン、と小さな心臓が激しく跳ねる。
途端に、前世の記憶が走馬灯のように鮮明に脳裏を駆け巡った。物置部屋の暗闇、部屋に響き渡る怒号、拳が降ってくる激痛と恐怖。
(隠さなきゃ……絶対に、この記憶を隠さなきゃダメだ)
生き延びるための本能が、私の脳内で静かに警報を鳴らし続けていた。
もし、この新しい世界の親たちに「前世の記憶がある不気味な子供だ」なんて知られたら、どうなるか分からない。またあの暗い部屋に閉じ込められて、捨てられるかもしれない。
そんなのは、もう絶対に嫌だ。今度こそ、ただ普通に呼吸をして、静かに生きてみたい。
前世の記憶はあるけれど、この秘密は誰にも言わず、胸の奥底にそっとしまっておこう。
ただ、それだけを心に強く決めた、まさにその時だった。
バタン、と静かに扉が開いた。
部屋の明かりがパッと広がり、二人の影がこちらに近づいてくる。一人は体格のいい男、もう一人はすらりとした女。
ぼやける視界の中で、その二人の顔がゆっくりと焦点を結んでいく。
艶やかな漆黒の髪を持つ、酷く端正で知的な顔立ちの男。
眼鏡をかけ、理性的で冷徹そうな洗練された美しさを持つ女。
その二人の顔の造形をはっきりと認識した瞬間――私の全身の血の気が、一気に引いた。
(嘘、でしょ……? なんで、どうして……っ!?)
あり得ない。神様はどこまで私を痛めつければ気が済むのだろう。
老若男女誰が見てもため息が出るほどの、圧倒的な美男美女なのだろう。
けれど、私にとっては違った。脳の深層に刻み込まれた、絶対的な『恐怖』の象徴そのものだった。
骨格、目や鼻のパーツの配置、顔のすべての造形――。
目の前にいる二人の顔は、前世で私を暗い部屋に閉じ込め、ゴミのように扱い、私を殺した、あの最悪な『父親』と『母親』の顔と、完全に、瓜二つだったのだ。
恐怖のあまり、叫び出しかけた。心臓が痛いほど早鐘を打つ。
またあの地獄が始まる。今度こそ殺される。逃げなきゃ、でも赤ん坊の体じゃ動けない。
ごめんなさい、静かにします、言うことを聞きます、ご飯もいりません、だから、だから叩かないで――!
ぎゅっと目を瞑り、小さな体がカタカタと激しく震えだすのを、自分の意志ではどうしても止められなかった。恐怖のあまり、息の吸い方すら分からなくなる。
「アンナ、起きた?」
頭上から降ってきたのは、前世のあの男の、低くて心まで凍りつかせるような冷酷な声――ではなかった。
深く、静かで、それでいて、溢れ出る愛おしさを懸命に抑え込もうとしているような、知性と温もりに満ちた声。
「ハンナ、見て。アンナが目を覚ましたよ!……ああ、なんて穏やかな顔だろう。僕たちの元へ来てくれて、心から感謝しているよ」
恐る恐る目を開けると、黒髪の男――今世の父親である『リアム』が、その端正な顔立ちをわずかにほころばせ、壊れ物を扱うような慎重さで私を大きな両腕で抱き上げていた。その立ち振る舞いは驚くほどスマートで洗練されている。
その隣では、母親の『ハンナ』が、手にしていた研究資料を静かにデスクへ置いた。
無駄のない無表情に近い顔立ち。けれど、眼鏡の奥の瞳は、深く温かな熱を帯びている。
彼女は細い人差し指で、私の小さな頬をそっと触れ
「さすが私たちの子、可愛いわね」
前世のあの奴らと、全く、完全に同じ顔。
なのに、向けられる眼差しは知性と品格に満ち、私という存在のすべてを当たり前のように肯定し、守ろうとしていた。
背中を一定のリズムでトントンと叩く手の温もり。
鼻をくすぐるのはタバコの匂いではなく、春の陽だまりのような優しい香り。
(顔はあの人たちと同じなのに……中身が、まるで違う……)
戸惑いと、それを一瞬で押し流すほどの圧倒的な安心感が、小さな身体になだれ込んでくる。
「……あぅ……」
私の小さな、言葉にならない掠れた声。
ママとパパは静かに目元を緩め、「よし、いい子だね」と私の額に軽く唇を寄せた。
前世は最悪だった。
だけど今世は――信じられないほど穏やかな人生が待っているのかもしれない。
その優しい温もりに身を委ねながら、私は怯えることなく、そっと目を閉じた。
それからの月日は、凪いだ海のように穏やかに過ぎていった。
3歳を迎える頃には、私はこの邸宅の中で完全にリラックスして過ごせるようになっていた。
前世の記憶を持ち合わせているけれど、私はそれを鼻にかけることもなければ、いわゆる「神童」として振る舞うこともしなかった。
ふわふわした上質な絨毯の上で日差しを浴びる心地よさ、ママが用意してくれる美味しいご飯、パパの膝の上で絵本をめくる紙の感触。今の私は、五感で味わうこの日常の心地よさにすっかり夢中だった。
「ハンナ、うちの子、天才だと思う。ほらみて。もう一人で本を読めるよ!」
「ふふっ、うちの子だもの。アンナ、この本がお気に入りなの?」
書斎で膝に乗せられながら、ママが優しく問いかけてくる。
ママのハンナは、大学教授をやっているらしい。専門はよく分からないけどいつもパソコンと向かい合っている。
無表情であまり物事に興味を持たなそうなタイプに見えるが、実は気に入った対象には執拗なまでの情熱を注ぐタイプだ。私に関することとなると、栄養バランスから室温、知育玩具の選定まで完璧に調べあげていた。
パパのリアムは、私も何をしているのか分からない。でもいつもビシッと決めて仕事に向かっている。理知的なのに私に向けられる眼差しだけは、いつも理性のタガが外れかけたような深い愛に満ちていた。
(二人とも、頭いいのに……私のことになるとちょっとズレてるんだよね)
私はパパの膝の上で、ママ譲りの紅茶色の髪をふわりと揺らし、パパの着ているシャツのボタンをふにふにと弄った。
パパが「ボタンが気になるのかい?」と静かに微笑み、私の頭を撫でてくれる。
自分がどれほど愛らしく、父親の心を撃ち抜く仕草をしているか、私自身は全く自覚していない。ただ「手持ち無沙汰だからボタンで遊んでいる」だけなのだが、その無自覚なあざとさが、ローレンス家を完璧に平伏させているのだった。
そんな穏やかな日々に、大きな転機が訪れたのは4歳を過ぎた頃だった。
ある日の夕食後。パパが仕立てのいいジャケットを脱ぎながら、落ち着いたトーンで提案してきた。
「アンナ。明日はママのお仕事も休みだし、僕の仕事場へ見学に来てみないかい?」
「しごとば……?」
「うん。仕事場っていうのは、パパがお仕事するところだよ。パパの新しいドラマの撮影が始まるの。アンナにも、パパがどんな仕事をしているか見てほしいの」
パパの仕事。そういえば、いつもスーツを着て出かけていくけれど、具体的に何をしているのかは知らなかった。
「うん!行ってみたい!」
私が小さく首を傾げて頷くと、パパは満足そうに目元を和ませた。
翌日、車で連れていかれたのは、マンション内の一角にある撮影スタジオだった。
迷路のような廊下を抜け、ドアの奥へ足を踏み入れると――そこには、異様な熱気と緊張感が満ちていた。
高い天井から吊り下げられた無数の照明。床を這うぶっといケーブル。
そして、その中央に組み上げられた、厳かな『英国風の執務室』のセット。
(あ……これ……テレビの、中だ……)
その光景を目にした瞬間、私の胸の奥がトクンと跳ねた。前世のあの物置部屋の隙間から見つめていた、あの眩しい世界。
セットの中央に、パパが立っていた。
いつもリビングで見せる優しい表情は跡形もなく消え去り、冷徹で、圧倒的な気品を纏った『冷酷な外交官』そのものになり切っている。
「――カット! オッケー! さすがリアムさん、完璧です!」
監督の声とともに、拍手が沸き起こる。
その瞬間、パパの纏っていた氷のようなオーラが霧散し、いつもの知的な笑顔に戻った。
「パパはね、俳優をしているのよ」ママが私の耳元で静かに囁いた。「俳優っていうのは、誰かの人生を表現する仕事なの、とっても素敵でしょ?」
俳優。役者。
その言葉が頭の中で鳴り響き、前世の記憶とパズルがカチリと合致した。
パパが、あの光の世界の住人だったんだ。
駆け寄ってきたパパが、私の前に屈み込む。
「どうだいアンナ、驚かせてしまったかな?」
私はパパの端正な顔を見つめ、そっとその手に触れた。前世のあの男と同じ顔。でも、この人はその顔で人を感動させ、そして私を何よりも大切にしてくれている。
「……ううん。パパ、かっこいい」
私が素直な感触を口にすると、パパは一瞬呆然とし、それから心底愛おしそうに私を優しく抱きしめた。「ありがとう、アンナ。お前の一言で、疲れが吹っ飛ぶよ」
スタッフたちが「なんて綺麗な親子なんだ……」「あの子、人形みたいな顔してるぞ」と囁き合っている。私は相変わらず(みんなパパの美しさに驚いているんだな)と他人事のように思っていたけれど。
私の心の中に、前世の切ない羨望とは違う、静かで確かな
「興味」の芽が、ひっそりと顔を出していた。
パパの撮影現場を見てからというもの、私の密かなお気に入りになった遊びがある。
それは、絵本や本を読み終えた後、「もし私が、この主人公だったら」と演じてみることだ。純粋な好奇心を満たす最高のおままごとだった。
ある日の午後。
ママがリビングのソファで、パパの新作映画の台本を真剣にチェックしていた。パパから「ハンナの解釈が聞きたい」と頼まれたらしい。
ママが少し席を離している間に、私はトコトコと歩み寄り、テーブルの上の冊子を覗き込んだ。
(……文字は半分くらいしか分からないな)
前世の記憶があるとはいえまだ4歳だ。この国の複雑な横文字はまだ記号のように見える。
けれど、前世の物置部屋でテレビの音とゴミの新聞・雑誌で培った妄想力と観察眼で、瞬時に読めないところを埋めていく。
今回のパパの役どころは『厳しくも部下思いで、仲間を誰よりも大切にする不器用な騎士』。
誰もいないリビング。私は少しだけ試したくなり、部屋の中央へ歩き出た。
パパが現場で見せた、あの周囲の温度を数度上げるような緊張感を記憶から引き出す。
息を整え、パパ譲りの漆黒の瞳をすっと細める。
「――お前の命は、お前一人の私物ではない。二度と、我らの背後を預かる仲間を置き去りにするなどと、愚かな真似は許さん」
幼い子供の高い声。
なのに、リビングの空気がカチリと切り替わった。
前世で何千回と観てきた。それが無意識のうちに、声のトーン、重心の置き方、視線の配りに説得力を与えてしまっていた。
「……意外と形になるかも、私騎士向いてる?」
自分の紅茶色の髪を指先で弄りながら、自分の演技に満足していたその時。
ガタタッ!! とキッチンの陰から衝撃音が響いた。
振り返ると、帰宅していたパパと、お茶の準備をしていたママが、石像のように硬直していた。パパのレザーバッグは床に転がり、ママの持つティーポットがカタカタと震えている。
(あ、しまった……4歳児が言わないセリフ言っちゃった……)
気味が悪いと思われるかも、と身を縮める私に、パパは滑り込むように膝をつき、両手を包み込んできた。
「アンナ……! いまの演技は……あの騎士の内に秘めた『孤高の慈愛』を完璧に捉えていた……! 君は、表現の神に愛されている!」
「リアム、落ち着きなさい。……アンナ、お芝居に興味があるの?」
ママが腰をかがめ、アンナと同じ目線になって問いかける。
私はパパとママの顔を見比べ、素直な気持ちを口にした。
「うん。パパみたいに、ちがう人になってみるの、ちょっと面白そう」
その瞬間、両親は視線を交わし、静かに頷き合った。
その夜、ドアの隙間から「アンナの今後について」について熱く議論する二人の声が漏れ聞こえてきたのは言うまでもない。
それから数ヶ月後。
五歳になった私は、仕立てのいいネイビーのワンピースを着せられ、パパの所属する大手芸能事務所の本社ビルへと向かっていた。
高級車の後部座席で、パパは静かに私の手を握っている。
「アンナ、無理に自分をよく見せる必要はないよ。普段のお前のままでいればいい。嫌ならいつでも帰ろう」
「リアム、あなたが緊張してどうするの。アンナ、リラックスして」
助手席のママが振り返り、柔らかく微笑む。
鏡に映る私は、ハーフアップにした紅茶色の髪と、吸い込まれそうな黒い瞳。自分で言うのもなんだけど、どこかの国の幼い姫君のような圧倒的な仕上がりだった。前世では痩せててわからなかったけど両親の遺伝子は凄いらしい。
最上階の社長室で待っていたのは、ロマンスグレーの気品ある紳士――事務所の社長だった。
「待っていたよ。……なるほど、リアムが親馬鹿で言っているわけではないと理解した。このビジュアルだけで、すでに我が社の看板になれる」
社長は感嘆の息を漏らし、一次審査として短いスクリプトを提示した。
内容は『生き別れた父親と旅の途中で再会する少女』の一幕。
「アンナ、読めない文字はある?難しければ教えるよ」とパパ。
私は紙に目を落とし、記号のような文字を読んでいく。
……この位なら、大丈夫。
立ち上がり、私はスッとパパの正面に立った。
パパの瞳が一瞬で「ボロボロの旅人」へと変わる。私はパパ譲りの黒い瞳を冷たく細めた。
「――嘘つき」
低く、震えるような声。社長が息を呑む。
「私を置いていかないって、あのとき約束した。ずっと、暗いところで待っていたのに……! どうして今更、私の前に現れたの……っ!」
前世の物置部屋の記憶。けれど今目の前にいるのは、私を愛し、守ってくれる本当のパパ。
ドス黒いトラウマが、パパがくれた愛情へと上書きされていく。
「……バカ。大嫌い……っ。でも……生きててくれて、よかった……!」
ぽろぽろと、目から大粒の涙が零れ落ちる。
怒りから愛おしさへの完璧な感情の揺れ。
「……!」
パパは言葉を失っていていた。
「……見事だ!」社長が立ち上がり、激しく拍手を送る。
「バックボーンを完全に理解して演技している…本物の怪物だ……!」
ママがそっとハンカチを差し出してくれる。
「上手だったわ、アンナ。」
「ありがとう!」
私は涙を拭い、パパの首に抱きついた。
こうして、最高の防壁(過保護な両親の条件)付きで、私のデビュー&事務所所属が決まったのだった。
デビュー作として決まったのは、新進気鋭の監督が撮る超大作映画『家族』。
私は物語の鍵を握る「監禁された孤独な少女」の幼少期役を演じることになった。
(初めてなのに大事な役って……緊張する。)
スタジオのセットは、重苦しい熱気に包まれていた。
カメラの前に立つ私を、監督が鋭い眼光で見下ろす。
「リアムの娘だろうと手加減はしないよ」
けれど、私は至って冷静だった。
前世の暗い部屋に比べたら、この照明は温かい。緊張はするけど何より、セットの外にはパパとママが守るように立っている。
「本番……スタート!」
カチン、と音が鳴った瞬間、私の中から「アンナ」が消えた。
膝を抱え、虚空を見つめる。目からすうっと光が消えていく。
「……ねえ、お母さん。どうして私は、あそこへ行ってはいけないの? 私はここにいるだけで……誰かを怒らせてしまうの?」
乾いた、壊れそうな声。
前世の私が叫び続けた本物の痛みが、美しい聲音に乗ってスタジオを支配する。一滴の涙がシーツに落ちた時、誰もが息をすることを忘れていた。
「カット……! カット!!」
監督の叫び声とともに、スタジオは割れんばかりの拍手に包まれた。
「鳥肌が止まらない!」「あの子、世界を獲るぞ!」
監督が興奮して突進してくると、パパがすかさず割り込んで私をひょいと抱き上げ、背中に隠した。
「監督、うちのアンナを大声で驚かせないでください」
「最高だったよ、アンナ」とママ。
自分の演技が世界を揺るがしていることなんて、私自身は「上手くいってよかった」くらいにしか思っていなかったけれど。
この映画の公開を待たずして、業界内に「天才子役・アンナ・ローレンス」の名は駆け巡ることになる。
映画撮影から少し経ち、私は事務所の特別合同レッスンに参加することになった。
「アンナ、パパが付き添えなくてごめんね。変な大人が来たらすぐ逃げるんだよ」
「リアム、大袈裟よ。アンナ、私も一緒にいくからね。あなたは早く仕事に行きなさい」
サックスブルーのカットソーにキュロット姿の私は、ママに連れられて広大なレッスンスタジオへ入った。同い年の五歳前後の子役たちが集まっている。
視線が一斉に突き刺さる中、私は部屋の隅にいる一人の男の子に目を留めた。
太陽のような金髪に、蜂蜜のように濃く鋭い琥珀色の瞳――猛獣の子供のような「ゴールデンアイ」を持つ少年。
彼が私を見た瞬間、その綺麗な琥珀色の瞳が大きく見開かれた。まるで衝撃映像でも見たかのように固まり、頬から耳の裏まで一気に林檎のように真っ赤になっていく。
(……? 熱でもあるのかな)
この時の私は何もわからなかった。だって前世でも今世でも経験したことないのだから。
「よし、今日は即興劇をやってもらう。お題は『交渉』だ。アンナ、それと……レオ、前に出て」
講師に呼ばれ、金髪の少年――レオが生意気そうに歩み出てきた。
彼はポケットに手を突っ込み、ツンと顎をそらしながら、なぜか視線を泳がせて言った。
「ふ、ふーん。お前が噂の『ローレンス家の最高傑作』? 見た目はただの、お上品なお姫様って感じだけど」
「私はアンナ。よろしくね、レオ」
「挨拶なんかどうでもいい!俺に泣かされても知らないからな!」
同い年らしい元気な男の子だな、と私は親戚の子供でも見るような気楽さで観察していた。
インプロが始まる。レオの手には小道具の『万年筆』。
彼のゴールデンアイから動揺が消え、鋭い役者の目になった。
「これ、お前が探してたやつだろ。……でも絶対にやらない。お前みたいな何でも持ってる奴に、俺のたった一つの宝物を渡してやるもんか!」
強がりと寂しさを込めた、真っ直ぐで鋭い演技。
(すごい……やる時はやるんだ…)と思いながら、私はスッと感情を消し、無機質な人形のような佇まいになった。そのギャップにレオが息を呑む。
私はレオの目の前まで歩み寄り、万年筆ではなく、彼の琥珀色の『目』を直視した。
「――ねえ。それ、本当にあなたの宝物?」
「……っ、当たり前だろ!」
「嘘つき」
私は静かに微笑んだ。
「お前、本当はそれが欲しいわけじゃない。自分を縛り付ける『重り』だって気づいてるでしょ? ……俺にそれをちょうだい。そうすれば、お前はもう、そんな寂しそうな顔をしなくて済むよ」
パパ譲りの黒い瞳に深い慈愛を込め、そっと右手を差し出す。
「……っ」
レオの呼吸が止まった。圧倒的な美貌と、全てを見透かすような演技のダブルパンチ。彼のゴールデンアイが激しく揺れる。
彼は悔しそうに、けれど救われたような顔で、私の手のひらに万年筆を落とした。
「……チッ。お前の勝ちだよ。……持ってけよ」
顔を真っ赤にしたレオ。スタジオに嵐のような拍手が巻き起こる。
「はあ、上手くいった」と息を吐く私に、レオが背後から突っかかってきた。
「勘違いするなよ! 俺が油断しただけだ! 次のオーディションは絶対に負けないからな!」
ツンデレな同級生に、私はパパ譲りの黒い瞳を緩めて微笑んだ。
「うん。楽しみにしてるね、レオ」
「……っ! な、なんだよその顔! 覚えてろよ!」
真っ赤になって走り去るレオ。
ママが「いいライバルになりそうね」と呟いてる。
守ってくれる両親がいて、自分の無自覚な可愛さと演技力で世界が動き出す日々。
その中で現れた、生意気で真っ直ぐなゴールデンアイの同級生。
この時、彼がどれほど私に心を奪われていたのかを知る由もなかったけれど、私の新しい未来は、確実に眩しい光に向かって動き出していた。




