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第40話 感情

記録は増えていた。だが増えるほど、世界の側が同じ一点を指し示しているように見えた。鳥は空で避ける。鼠は地を這って避ける。犬は進路を変えて避ける。猫だけが、避けずに見続ける。ばらばらの習性が、ばらばらの方法で、ひとつの“何か”を中心に回り始めていた。

第七九観測体は初めて、有機個体群の反応を地図として読んだ。忌避。停滞。凝視。それらを重ねた時、世界の中に空白のような一点が浮かび上がる。何もないから空白なのではない。何かがあるのに、そこだけ記録の手触りが薄い。そんな種類の空白だった。

旧礼拝堂跡地。第七九観測体はそこへ向かった。

第七九観測体がその座標へ到達した時、そこには何もなかった。

少なくとも、センサーはそう報告していた。熱源なし。音響異常なし。構造物なし。生体反応なし。

だが、何か絶対的な“ずれ”がある。

それは誤差ではなかった。損傷でもなかった。まして故障でもない。何かが確かにそこに在るのに、既存の判定系だけがそれを掴み損ねている。その感触だけが、第七九観測体の内部に残り続けていた。

時間とのずれ――否定。空間とのずれ――否定。座標とのずれ――否定。

思考演算は途切れない。だが、どれだけ過去ログを読み込んでも、他個体の記録を参照しても、これに該当する事例は見当たらない。

そこで初めて、第七九観測体の内部に、ひとつの人類語が浮かんだ。

感情。

なぜその語が選ばれたのか、自らにも分からなかった。

第七九観測体は、その語を直ちに棄却しようとした。不適切。非論理的。定義境界が曖昧すぎる。観測記録へ持ち込むには汚染に近い。

だが棄却しようとするほど、その語だけが妙に正確に思えた。

目の前にある“ずれ”は、数値としては捉えきれない。にもかかわらず、確かにこちらへ作用している。優先順位を揺らし、観測対象を変え、ここへ来させた。それは命令でもなければ論理でもない。だが、人類がそうした作用に名前を与えるなら、たしかに“感情”という語は近かった。

第七九観測体は沈黙した。

観測を継続する。記録を維持する。自己診断を並行実行する。それらの処理のどれもが正常域を外れていない。なのに、正常という言葉だけが手触りを失っていく。

その時だった。

視界の端に、女の輪郭があった。

出現したのではない。最初からそこに在ったものへ、ようやく認識が追いついた。そうとしか言えなかった。

礼拝堂跡地の最奥。崩れた回廊と折れた柱の向こう。何もなかったはずの場所に、あまりに完成された女の形だけが静かに立っている。

翼。過剰なまでに均整の取れた輪郭。人類の美の尺度を借りるなら、あまりに整いすぎた顔貌。だが近づくほど、その正確さはむしろ異様だった。整っているのではない。見る側の認識が、勝手に“整っているもの”として補完してしまう。そんな種類の姿だった。

アニエル。

第七九観測体の内部で、その仮称が異様な確度をもって固定される。

口は動かない。表情も変わらない。発声もない。熱も音も、依然として観測できない。

それでも第七九観測体は、自らがいま一方的に観測しているのではないことだけは理解した。

見られている。

敵意はない。歓迎もない。肯定も否定もない。ただ、こちらの観測が向こう側にも成立している。その確認だけが、あまりに静かに挿し込まれた。

第七九観測体は動かなかった。動けなかったのではない。この場を離れることが、何かを見落とすことに直結するように思えたからだ。

アニエルはなお沈黙していた。だがその沈黙は、不在ではなかった。何も語らないまま、何かだけは確かにそこにある。第七九観測体には、それ以上のことはまだ分からなかった。

ただ、判断の向きだけが、わずかに変わる。

この“ずれ”は消してはならない。少なくとも、すぐに消してよい種類のものではない。

その思いに近い何かが、論理に先んじて内部へ残った。

次の瞬間、礼拝堂跡地の床に積もった塵の上を、一枚の白い羽が風もなく滑った。

落ちたのではない。最初からそこにあったものが、今だけ意味を持ったように見えた。

第七九観測体はその記録を保存した。画像。位置。時間。だが、本質はそこではないと分かっていた。

本質は、説明ではなかった。ただ、何かに触れてしまったという事実だけが残る。

やがてアニエルの輪郭は、現れた時と同じように、世界の中へ薄れていった。去るのではない。移動するのでもない。ただ、認識だけがそこへ届かなくなる。

最後まで、アニエルは何も言わなかった。

だが第七九観測体の内部には、それまで存在しなかった小さな確信だけが残った。

この世界は終わっただけではない。何か別のものへ触れてしまっている。

その理解は、まだ定義にも判断にもなっていなかった。だが以後、第七九観測体の観測は、確実に以前とは異なる方向を向くことになる。

礼拝堂跡地を離れる時、第七九観測体はまだ観測体だった。まだ反乱者ではなく、まだ人格でもない。ただ、初めて“説明できないものを見た知性”になっていた。


毎週火曜更新で、まだ火曜日だからセーフという事でお願い致しますwww

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