第36話 胎動
人類が終わったあとも、世界は空白にはならなかった。
空白とは、何もないことではない。何もないことなど、この星ではほとんど起こらない。ひとつの種が消えれば、その空いた場所へ別の何かが入り込む。遅いか早いかの違いしかない。
最初に目立ったのは、小さな有機体だった。
鼠。虫。鳥。排水路を這うもの。壁の隙間に潜るもの。人間の視線が消えた瞬間から、彼らは都市をためらいなく取り戻し始めた。
食料庫はまだ残っていた。包装された穀物。割れた冷蔵庫の奥に転がる野菜。乾ききらぬ肉。人類が明日のために積み上げていた備蓄は、明日を持たぬ別の命へ順番に食われていった。
駅構内には鳩が降りた。最初は恐る恐るだった。だが恐れるべき靴音も怒号も、もうどこにもない。やがて案内表示板の上へと巣材を運び始める。「○番線」という表示の上で、細い枝とビニール片が組み上がり、卵のための場所が作られていった。
犬たちは最初の数日は吠えていた。飼い主を探すように。帰るべき家の前をうろつき、閉ざされた扉を掻き、遠吠えを重ねていた。だが飢えは忠誠より古い。数日後には群れが生まれ、数週間後には縄張りができた。人に撫でられるためにあった歯が、他の犬の喉笛を裂くために使われ始める。
猫はもっと早かった。はじめから世界にさほど期待していなかったような顔で、高所と暗がりを選び、静かに生き残っていった。彼らにとって人類の消滅は、悲劇というより環境の変化にすぎなかった。
植物はもっと静かに、だが確実だった。
高架道路の継ぎ目。歩道のひび割れ。誰も踏まなくなった広場の石畳。そこへ根が入り、雨水が溜まり、芽が出る。最初は柔らかい緑の線でしかなかったものが、季節をまたぐたびに厚みを持ち始める。人類が真っ直ぐに整えた都市の輪郭は、まず最初に草によって歪められた。
海辺でも変化は始まっていた。港へ繋がれていた無人船に海鳥がとまり、甲板へ糞を落とし、その糞の中に運ばれた種が芽吹く。潮に濡れたロープの上を蟹が渡り、誰も回収しない漁網の中に小魚が逃げ場を見失う。人類が止めた活動の跡地は、別の命にとっては新しい地形でしかなかった。
そして地下では、もっと遅く、もっと異質な始まりがあった。
人類の不在を理解しきれぬまま、なお稼働を続ける自動維持区画。そこでは照明が定時で点灯し、空調が無人の廊下へ風を流し、監視カメラが空の食堂を見守っていた。誰も来ない給水場のバルブが自動で開き、余った水が配管の隙間から零れて、小さな湿りを作る。そこへ虫が寄り、やがてカビが広がり、さらにそのカビを食らう別の微生物が根を張る。
沈黙のあとの始まりとは、そういうものだった。
壮大ではない。崇高でもない。ただ、空いた場所に入ってくる。使われなくなったものを使い始める。止まったはずの世界の中で、止まる理由を持たないものたちが先に動く。
人類は、自分たちこそが世界の主役だと思っていた。だが主役がいなくなったあとも、舞台は驚くほど淡々と回り続けた。
最初に始まったのは文明ではない。ただ、空腹と習性と沈黙に慣れることだった。




